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第11話 湯で洗った血

教官の部屋の扉が閉まったあとも、カイの声は、廊下に残っていた。


──私は、見ました。


ルシアン様が、私の腕を軽くつかんで、壁から引きはがした。


「立てるか」

「……はい」


立てなかった。それでも、立った。


しばらくして、教官の部屋から学校長が出てきた。灰色の髭の下で、口が固く結ばれていた。


「監察官殿。同じ宿舎の候補生の証言が出た以上、レオポルトの身柄は、明日の正午に近衛へ引き渡す」

「監察局の調べが、まだ済んでいない」

「明日の正午まで待つ。それ以上は、ヴァルデン子爵家に申し訳が立たん」


学校長は、それだけ言って、背を向けた。


明日の正午。


近衛に引き渡されれば、ハンスは騎士学校の小部屋ではなく、牢に入る。貴族の息子を刺した罪で。


*


帰りの馬車の中で、私は膝の上の包みを抱えていた。


濡れたまま油紙にくるんだ、ハンスのシャツ。


ルシアン様は、しばらく窓の外を見ていた。それから、前を向いたまま言った。


「さっきの、カイという候補生」


私の指が、包みの上で止まった。


「廊下ですれ違ったとき、君の顔から、血の気が引いた。あいつが証言する前からだ」


「……理由は、聞かないんですよね」

「聞かない」


ルシアン様は、少しだけ間を置いた。


「だが、見るなとは言われていない」


私は、包みを抱く腕に力をこめた。


この人は、何も聞かない。そのかわり、全部見ている。


*


その夜、監察局の洗濯室で、私はハンスのシャツを広げた。


ランプを近づける。右の袖口。手首の内側の、茶色い染み。


指でこすっても、爪の先でひっかいても、落ちない。布の目の奥まで、硬く入りこんでいる。鼻を近づけると、やっぱり、あの匂いがした。


台所で、肉を煮たときの匂い。


私は、目を閉じた。


灯火の家の、裏の洗い場が浮かんだ。


いつだったか、秋の夕方だった。年上の子三人に囲まれたハンスをかばって、カイが一人で飛びかかった日。カイは鼻血を出して、それでも最後まで立っていた。


その夜、私は洗い場で、カイのシャツを洗った。胸元に、血が点々と飛んでいた。


ハンスが、泣きはらした目で、私の横にしゃがんでいた。


「ねえさん、お湯、持ってこようか。お湯のほうが、よく落ちるでしょ」

「だめ。血は、冷たい水で洗うの」


私は、桶の水にシャツを浸けて、ハンスに見せた。


「お湯で洗うと、血が煮えて、布にくっついて、二度と落ちなくなる。卵を茹でると固まるのと、同じ。だから、血は、冷たい水」


ハンスは、鼻をすすりながら、私の手元をじっと見ていた。


「つめたい、みず」

「そう」

「カイの血だから、ぼくが洗う」


ハンスはそう言って、冷たい水に、真っ赤になった手を突っこんだ。何度も何度も、こすっていた。カイのシャツが、元の白に戻るまで。


私は、目を開けた。


ランプの下の、茶色い染み。


煮えた血の色だった。


あの子が、お湯で血を洗うはずがない。


カイの血を、冷たい水で、真っ赤な手で洗った子が。


*


「証拠がいります」


私が言うと、廊下の椅子にいたルシアン様が、書類から顔を上げた。


「ハンスのシャツの染みは、お湯で洗った血です。でも、私がそう言うだけでは、学校長は動きません。目の前で、見せないと」

「何がいる」

「血です。人のでなくていい。豚でも、鶏でも」


ルシアン様は、一瞬だけ、目を丸くした。


それから、外套をつかんで、扉のところで一度だけ振り返った。


「鍵をかけろ。俺の声がするまで、誰が来ても開けるな」


扉が閉まって、足音が遠ざかっていった。私は、言われたとおりに鍵をかけた。


洗濯室に、私ひとりが残った。


私は、新しい麻の端切れを二枚、作業台に並べた。たらいを二つ。一つには井戸の水。もう一つには、炭で温めた湯。


そのとき、湯気を逃がすために少しだけ開けておいた窓の隙間から、ふっと甘い匂いが流れこんできた。


石鹸でも、灰汁でもない。花を煮詰めたような、重い、甘い香油の匂い。


息が止まった。


私は、ランプを背中に隠して、窓に顔を寄せた。


監察局の向かいの、街灯の下。


人が立っていた。


外套の襟を立てて、顔は見えない。ただ、街灯の明かりの中で、両手だけが、白く浮かんでいた。


白い手袋。


その人は、こちらを見上げていた。


私と目が合ったのか、合わなかったのか、分からなかった。白い手袋の片方が、ゆっくりと持ち上がって、帽子のつばに触れた。


挨拶のように。


次の瞬間、街灯の下には、誰もいなかった。


私は、窓枠をつかんだまま、動けなかった。


どれくらいそうしていたのか分からない。扉の外で、私の名前を呼ぶルシアン様の声がした。鍵を開けると、片手に、蓋つきの小さな壺を提げていた。


「肉屋の親父を、叩き起こした」


そう言いかけて、ルシアン様は、私の顔を見て、壺を作業台に置いた。


「どうした」

「……向かいの、街灯の下に。白い手袋の人が」


ルシアン様は、窓を見て、それから扉を見た。次の瞬間には、もう廊下を走っていた。


戻ってきたのは、しばらくしてからだった。


「誰もいない」


息が、少しだけ乱れていた。


「だが、街灯の下の石畳に、まだ香油の匂いが残っていた」


ルシアン様は、窓のカーテンを、乱暴に閉めた。


それから、廊下の椅子を洗濯室の中に引きずりこんで、扉の前に置いた。


「今夜は、ここにいる」

「でも、ルシアン様のお仕事が」

「ここでやる」


ルシアン様は、扉の前の椅子に座って、腕を組んだ。


「続けろ。俺は、見ていない」


見ていないと言いながら、その目は、窓と扉を、交互に見ていた。


*


壺の中は、豚の血だった。


私は、二枚の端切れに、同じだけ血を染みこませた。少し乾くのを待ってから、一枚を冷たい水に、一枚を湯に沈めた。


冷たい水のほうは、すぐに水が淡い桃色に濁った。指でもむと、血はほどけるように流れ出ていった。何度か水を替えると、端切れには、うっすらとした影しか残らなかった。


湯のほうは、違った。


湯の中で、血の色が、みるみる茶色に変わっていった。もんでも、こすっても、布から離れない。湯気に混じって、あの匂いが立ちのぼった。


台所で、肉を煮たときの匂い。


湯から引き上げた端切れを、ハンスのシャツの袖口の横に並べた。


同じ色。同じ硬さ。同じ匂い。


扉の前で、ルシアン様が、長い息を吐いた。


「……分かりやすいな」

「はい。誰が見ても」


気づくと、私の肩に、厚い外套がかかっていた。


扉の前の椅子で、ルシアン様が、上着一枚で腕を組んでいた。目を閉じているように見えた。けれど、私が外套の襟を押さえると、目を閉じたまま「着ていろ」と言った。


窓の外が、白みはじめていた。


ピピの誕生日まで、あと百三十八日。ハンスが近衛に引き渡されるまで、あと半日。


*


騎士学校の教官の部屋には、正午の鐘の一刻前に、人が揃った。


学校長のゲルハルト卿。指導教官。証言をしたカイ。見張りに連れられてきた、ハンス。


それから、ルシアン様が呼ばせた、候補生がもう一人。


昨日、廊下で私を洗濯女と笑った、あの候補生だった。襟の白粉は、もうついていなかった。


「なんで俺が呼ばれるんだ」

「手伝っていただきたいことがあるんです」


私は、作業台の代わりに借りた机の上に、豚の血を染みこませた端切れを一枚置いた。その横に、井戸の水を張った桶と、厨房から運ばせた湯の入った鍋。


「この血を、落としていただけますか」


候補生は、鼻で笑った。


「洗濯女の真似をしろってのか」

「血の染みくらい、騎士になる方なら、ご自分で落とせると思いましたので」


候補生の顔が、赤くなった。


彼は、ひったくるように端切れをつかんだ。それから、迷わず湯の鍋に放りこんで、腕まくりをしてごしごしとこすりはじめた。


「汚れってのは、熱い湯のほうが落ちるんだよ。そんなことも──」


湯の中で、血が茶色に変わっていった。


こすればこするほど、染みは布に食いこんでいく。湯気に乗って、肉を煮る匂いが、部屋に広がった。


候補生の手が、止まった。


「……なんだ、これ」


誰も答えなかった。学校長が、太い眉をぴくりと動かした。


私は、もう一枚の端切れを、ハンスの前に置いた。


「レオポルト様も、お願いできますか」


ハンスは、私を見た。それから、机の上の桶と鍋を見た。


迷わなかった。


ハンスは、湯の鍋には目もくれずに、井戸の水の桶に端切れを沈めた。剣だこのできた手で、水の中で、布をもむ。水が、淡い桃色に濁っていく。もう一度、もう一度。


端切れが、白に戻った。


ハンスは、濡れた手を膝で拭いて、小さな声で言った。


「血は、冷たい水です。お湯で洗うと、煮えて、二度と落ちなくなるから」


部屋の隅で、カイの肩が、かすかに揺れた。指先が、一瞬だけ、自分の鼻の下に触れた。昔、鼻血を出したところに。


私は、ハンスのシャツを広げて、机の真ん中に置いた。湯で洗った端切れを、その右の袖口の横に。


「これが、レオポルト様のシャツの染みです。こすっても落ちない茶色。布の奥まで固まっていて、肉を煮たような匂いがします。たった今、ご覧になったとおり、お湯で洗った血です」


私は、指導教官を見た。


「宿舎の洗い場に来ているのは、井戸の水だけですね。お湯を使うには、厨房の大鍋から運ぶしかない」


教官が、しぶしぶ頷いた。


ルシアン様が、扉の外に声をかけた。


入ってきたのは、厨房の下働きの少年だった。今朝、騎士学校に着いてすぐ、ルシアン様が厨房で話を聞いておいた子だ。


少年は、学校長の前で帽子を握りしめて、つっかえながら言った。


「お、おとといの夜、消灯の鐘のあとで、ぼくが大鍋の火の番をしていたら、候補生のどなたかが、お湯を取りに来られました。暗い戸口に立ったまま、桶だけ突き出されたので、お顔は見えませんでした」

「レオポルトか」


学校長が聞いた。


少年は、ぶんぶんと首を振った。


「ち、違います。レオポルト様なら、分かります。あの方は、お湯をもらうときも、水をもらうときも、いつも中まで入ってきて、頭を下げて、ありがとうって言われるから。その方は、ひと言もおっしゃいませんでした」


部屋が、しんとなった。


私は、静かに続けた。


「レオポルト様は、血を冷たい水で洗う方です。このシャツをお湯で洗ったのは、血の洗い方を知らない誰かです。消灯のあとに厨房でお湯をもらい、このシャツの袖を血で汚して洗い、レオポルト様が証拠を消そうとしたように見せて、洗い場のたらいに浸けておいた」


指導教官の顔が、引きつった。


昨日、このシャツを指さして、剣は隠し、シャツは洗う、分かりやすい男だ、と言った人だ。


ルシアン様が、ゆっくりと、教官のほうを向いた。


「……分かりやすい男、だったか」


教官は、何も言えずにうつむいた。湯の鍋の前では、さっきの候補生が、茶色く固まった端切れを握ったまま、真っ赤な顔で立ち尽くしていた。


学校長は、長い髭を一度しごいた。


「近衛への引き渡しは、取りやめる。レオポルトは、調べが済むまで、引き続き宿舎の小部屋に置く」


ハンスの肩から、すうっと力が抜けた。


「ただし」


学校長は、カイを見た。


「剣と、ディートリヒの証言は、まだ残っている。監察官殿。それを、お忘れなきよう」


カイは、まっすぐ前を見たまま、眉ひとつ動かさなかった。


皆が部屋を出ていくとき、厨房の少年が、私の横で足を止めた。帽子を握りしめたまま、私にしか聞こえない声で言った。


「あの……もう一つ。桶を受け取ったとき、甘い匂いがしました。花を、煮詰めたみたいな」


私の指先が、冷たくなった。


ゆうべ、窓の隙間から流れこんできた、あの匂いだった。


*


ハンスが小部屋へ連れ戻される前に、私は、監察局から持ってきた洗いたてのシャツを手渡した。


見張りが、ほんの少しだけ目を逸らした隙に、ハンスが、私にしか聞こえない声で言った。


「ねえさん。覚えてて、くれたんだ。あの夜のこと」

「覚えてたのは、あなたでしょう」


私は、冷たい水で冷えきったハンスの手を、一瞬だけ握った。


「迷わずに、冷たい水を選んだ」


ハンスは、唇を噛んで、こくりと頷いた。泣くのを、我慢している顔だった。


それから、見張りに肩を押されて、廊下の向こうへ歩いていった。


一度だけ、振り返った。そばかすの顔で、少しだけ、笑っていた。


*


帰りぎわ、練兵場の脇の通路で、正面から歩いてきた候補生と、肩がぶつかった。


カイだった。


「失礼」


カイは、知らない人に言うように短く言って、すれ違っていった。一度も、振り返らなかった。


馬車に乗ってから、前掛けのポケットで、かさりと小さな音がした。


取り出すと、小さく畳んだ紙だった。


さっき、肩がぶつかったときだ。


広げると、短い字が並んでいた。


『今夜 消灯の鐘のあと 井戸の脇で ひとりで来い』


署名はなかった。


それでも、誰が書いたのか、すぐに分かった。


「い」の字の、二本目の線が、一本目より長く跳ねている。灯火の家で、字を覚えたばかりのカイが、何度直しても直らなかった癖だった。院の台所の机で、私の隣に座って、口をとがらせて、何度も何度も書き直していた字。


何年たっても、直っていなかった。


向かいの席で、ルシアン様が、私の手元の紙に目を落とした。


それから、何も言わずに、窓の外を見た。

厨房の下働きの少年。候補生の顔は覚えていないが、「ありがとう」を言う声は、全部覚えている。

次回、守る者。

見つけた弟妹 3/14

ピピの十二歳の誕生日まで あと138日


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