第12話 守る者
帰りの馬車の中で、ルシアン様は、窓の外を見たまま言った。
「鐘は、夜の十時だ」
私は、前掛けのポケットの紙を、指で押さえた。
「……見ていたんですね」
「見た。『ひとりで来い』とあったな」
「はい」
「罠かもしれない」
「カイは、罠を張る子じゃありません」
言い切ると、ルシアン様が、やっとこちらを向いた。
「根拠は」
「鼻血を出しても、最後まで立っている子です。うしろから刺す子じゃありません」
ルシアン様は、しばらく黙っていた。それから、座席の背にもたれて、腕を組んだ。
「夕方、もう一度、騎士学校へ戻る。監察局の向かいの街灯の下に、あの男が立つくらいなら、騎士学校の客間のほうがましだ。塀が高い」
「……泊まるんですか」
「調べは終わっていない。学校長には、そう言う」
行けとは言わない。止めもしない。この人は、いつもそうだった。
*
日が傾くころ、私たちは、もう一度、丘を登った。
門の前に立っていた学校長は、ルシアン様の顔を見て、灰色の髭をしごいた。
「監察官殿。引き渡しは取りやめたはずですが」
「だから、調べが終わっていない。今夜は、宿舎の客間を借りる。隣り合う部屋を二つ」
学校長は、何か言いかけて、結局「承知した」とだけ言った。
客間へ向かう途中、宿舎の裏の洗い場から、水音がした。
たらいの前にしゃがみこんだ背中に、見覚えがあった。昨日、私を洗濯女と笑った候補生だった。今朝、湯の鍋の前で、真っ赤になって立ち尽くした人。
その手元には、シーツが山になっていた。
「何をしていらっしゃるんですか」
「……罰だ」
候補生は、振り向かずに言った。
「学校長殿から、宿舎の洗い場当番を、ひと月と言われた。しかも、冷たい水でだ。湯は使うな、と。夜に塀の外へ出た件も、まとめてだ」
指の関節が、赤く切れていた。冷たい水に慣れていない手だった。
見かねて、私は隣にしゃがんで、シーツを一枚つまみ上げた。
「そのまま水に浸けても、落ちません。先に、塩を少し振って、揉んでください。それから水に」
「……塩?」
「汗の汚れは、塩で浮きます」
候補生は、半信半疑で塩をつまんで、揉んで、桶に沈めた。しばらくして引き上げると、黄ばみが、薄くなっていた。
「……落ちた」
「ね」
候補生は、シーツを見つめたまま、ぼそりと言った。
「昨日は、悪かった」
「何がですか」
「……洗濯女、と言った」
「洗濯係です」
私は、立ち上がった。
「洗濯は、手を抜くと、必ずばれる仕事ですから。剣と、同じです」
候補生は、返す言葉もなさそうに、うなずいた。それから、また、塩をつまんだ。
*
客間は小さかった。寝台と机と、火の落ちた暖炉があるだけで、日が落ちると、窓の外から急に冷えがしみてきた。夕食は、固いパンと豆の汁だった。ルシアン様は、それを立ったまま食べた。
食べ終えると、ルシアン様は、懐から何かを出して、机の上に置いた。
黒い革の手袋だった。男物で、指の先が少し擦れている。
「井戸の脇は、風が通る」
「洗濯係に、手袋は要りません」
「あかぎれの手で、十月の夜に井戸のそばに立つ気か」
手袋、という言葉に、ゆうべの街灯の下の、白い両手が浮かんだ。
私の指が、革の上で止まったのを、ルシアン様は見たのだと思う。
「黒だ」
短く言った。
「白じゃない」
私は、手袋を取って、はめてみた。大きすぎて、指の先があまった。内側に、まだ、人の手の温かさが残っていた。
「……大きいです。指が、余ります」
「当たり前だ」
ルシアン様は、そっぽを向いた。
*
十時の鐘が、丘の上に響いた。消灯の鐘だった。
宿舎の窓の灯りが、ひとつ、またひとつと消えていく。
ルシアン様は、私を宿舎の角まで連れていった。ここから、井戸が見える。石の井桁と、釣瓶と、その向こうの暗い練兵場。
ルシアン様は、井戸に背を向けて、塀の外のほうを向いた。
「俺は、ここにいる。井戸には背を向けている。何も見ないし、聞こえたとしても、聞かない」
「あの」
「白い手袋の男が来るとしたら、塀のほうからだ。俺は、そっちを見ている」
背を向けたまま、続けた。
「呼べば、すぐに振り向く」
私は、うなずいて、一人で井戸へ歩いた。
月が、井戸の底の水に、白く落ちていた。
鐘が鳴りやんで、どれくらいたっただろう。足音が、ひとつ、砂を踏んだ。
暗がりから、肩のいかった影が現れた。
カイは、五歩ほど離れたところで立ち止まった。
「ひとりか」
「ひとりです」
「あの目つきの悪い監察官は」
「向こうで、塀を見ています。井戸には、背中を向けて」
カイは、宿舎の角を、ちらりと見た。月明かりの中に、まっすぐな背中が、塀の外を向いて立っていた。
「……変わった監察官だな」
「そうですね」
カイは、短く息を吸った。それから、押し殺した声で言った。
「リネット」
ああ、と思った。この声だった。
「……カイ」
「驚かなかったな」
「驚いた。廊下で、あなたが、知らない人を見る目で私を見たとき」
カイは、唇を噛んだ。
「見張られてたんだ。お前と俺が知り合いだと悟られたら、あいつらは、お前にも手を伸ばす」
カイは、胸元に手を突っこんだ。取り出したものを、私の足元の砂の上に、乱暴に放った。
白い手袋が、片方だけ。
月明かりの中で、子山羊革の白が、浮かび上がった。
息が止まった。
「昨日の朝、起きたら、枕の下にあった。これと、紙が一枚」
カイは、もう一枚、小さく畳んだ紙を差し出した。
私は、黒い革の手袋をはめた手で、白い手袋を拾い上げた。それから、紙を開いた。
『見たとおりに言え。それ以外は、一言も言うな。お前の父上の爵位は、私が預かっている』
署名はなかった。紙から、花を煮詰めたような、甘い香油の匂いがした。
手袋に鼻を近づけた。同じ匂いだった。
ゆうべ、窓の隙間から流れこんできた匂い。厨房の少年が、桶を受け取ったときに嗅いだ匂い。
三度目だった。
「……『見たとおりに』」
「ああ。だから俺は、嘘は言ってない」
カイは、拳を握った。
「ハンスは、確かに、消灯の鐘のあとに宿舎を出て、井戸のほうへ歩いていった。馬小屋の角から、俺は、それを見ていた。そこまで言えば、あの人たちには、足りたんだ。俺が言わなかったのは、その先だ」
「その先」
「ハンスは、井戸の横を通って、馬小屋の裏へ来た。そこに、俺がいた。鐘のあとから、見回りの笛が鳴るまで、あいつは、一歩も俺から離れてない」
耳を疑った。
「じゃあ、ハンスが名前を言えなかった、あの人は」
「……俺だ」
カイは、うつむいた。
「笛が鳴る少し前に、井戸のほうで、短い悲鳴が聞こえた。続けて、足音が、宿舎のほうへ走っていった。革の靴じゃない。布の靴みたいな、軽い音だった。ハンスが『行こう』と言った。俺は、あいつの腕をつかんで、止めた」
声が、かすれていた。
「助けに行けば、夜に抜け出していたことが、ばれる。同じ院の出の二人が、夜に会っていたと、調べられたら、いずれ——」
「灯火の家の名前が出る」
「そうだ。灯火の家の名前が出たら、手袋の男の名前より先に、俺たちの名前が出る。同じ孤児院から、跡継ぎが二人、同じ学校にいる。それだけで、全部、見抜かれる」
カイは、顔を上げた。月明かりに、黒い目が光っていた。
「俺が替え玉だとばれたら、父上は、爵位を王家に返すことになる。北の領地は、代官の手に渡る。何千人もいるんだ。俺ひとりのために、その人たちを、潰せない」
そして、小さく笑った。
「あの人はな。俺が来た日、門の前に、一人で立ってたんだ。馬車から降りた俺の手を見て、言った。『ディートリヒの手は、柔らかかった。お前の手のほうが、いい手だ』って」
私は、何も言えなかった。
「死んだ息子の名前を、俺にくれた人だ。毎朝、稽古の前に、俺の手のまめを見て、軟膏を塗ってくれる。一度も、手を抜いたことがない。実の親でも、そこまでする人は、少ない」
カイは、自分の掌を、見下ろした。
「その家を、守りたい。それだけだった。そしたら、守りたいものが、二つになった。ハンスと、あの家と。どっちを守ると、どっちかが潰れる」
「だから、手袋の男の言うとおりに、したのね」
「見たことだけ言って、あとは黙る。そうすれば、ハンスは、すぐには牢に入らない。時間が稼げる。そのあいだに、何か、思いつくと——」
声が、途切れた。
「……何も、思いつかなかった。毎晩、考えた。でも、何も」
私は、白い手袋を、そっと砂の上に置いた。それから、カイの前に立った。
「ひとりで、守ろうとしたのね」
「ほかに、誰がいる」
「洗濯と、同じよ」
カイが、顔をしかめた。
「は?」
「大きな布は、ひとりで絞ると、破れるの。二人で、端と端を持って、反対にねじるの。それなら、破れない」
カイは、ぽかんと口を開けていた。昔、洗濯を手伝わされたときの顔と、少しも変わっていなかった。
「それに、あなたの父上の爵位を預かると言う人は、預かったものを、いつでも壊せる。あなたが黙っていても、壊せる。あの人は、約束を守る人に見えた?」
カイは、答えなかった。答えられなかった。きっと、ずっと前から、分かっていたのだ。
私は、続けた。
「全部は、言わなくていい。ひとつだけ聞かせて。あの夜、ハンスは、剣を下げていた?」
カイは、記憶をたぐるように、目を細めた。
「……いや。腰には、何もなかった。剣を下げていたら、歩くたびに金具が鳴る。あの夜は、鳴らなかった」
「それは、『見たとおり』でしょう? 手袋の男が決めたとおりに、言えることでしょう?」
カイの目が、見開かれた。
「……剣」
「ハンスの剣は、寝台の下から出てきた。でも、あの夜、ハンスは、剣を持って出ていない。なら、剣は、ハンスの手を離れていたことになる。誰かが部屋から持ち出して、ベルトラムを刺して、また寝台の下に戻したのよ」
カイは、口を押さえた。
「そうか。……あいつの手には、最初から、剣がなかった。それだけで、おかしいと気づけたはずなんだ」
「ええ」
「あいつの部屋は、あの夜、空だった。誰が入っても、見る奴は、いなかった」
カイは、拳で自分の額を叩いた。
「なんで、俺は、気づかなかった」
「怖かったから。何かを守っている人は、怖いと、目が曇るの」
しばらく、風の音だけが、井戸の上を渡っていった。
「ハンスに、会った」
私が言うと、カイの肩が、びくりと震えた。
「あの子、あなたの名前を、最後まで言わなかった。『言ったら、その人が、全部なくしちゃう』って。牢に入るかもしれないのに」
カイは、息を止めたようだった。
「それと、今朝。あなた、見ていたでしょう。ハンスは、お湯の鍋には目もくれずに、冷たい水の桶を選んだの」
「……」
「あなた、鼻の下を触っていた。昔、鼻血を出したところ」
「……見てたのかよ」
「あの子、覚えていたのよ。あなたのシャツを、真っ赤な手で洗った日のこと」
「……あの馬鹿」
カイの声が、割れた。
「まだ、覚えてたのか。あんなこと」
砂の上に、ぽた、と涙が落ちた。
カイは、慌てて袖で顔をこすった。
「泣いてない」
「泣いてる」
「泣いてない。目に、砂が入っただけだ」
私は、昔、この子に何度も言われた言葉を、返した。
「泣くな、ばか」
カイは、顔を覆った手の下で、肩を震わせた。それから、くぐもった声で、言った。
「……それは、俺の台詞だ」
笑っているのか、泣いているのか、分からない声だった。
私は、黒い革の手袋をはめた手で、カイの短い黒髪を、くしゃくしゃと乱暴に撫でた。昔、泣きじゃくるハンスにしていたのと、同じ手つきで。
カイは、振り払わなかった。
*
「ここに来る前に、ハンスの小部屋の窓の下へ、行ったんだ」
涙がおさまったあと、カイは、ぽつりと言った。
「窓は、開かなかった。見張りが、扉の前にいるから、声もかけられない。それでも、立ってた。……何度もあそこを通って会いに行ったから、足が勝手に、向くんだ」
それ以上、カイは、何も言わなかった。私も、聞かなかった。
「明日の朝、学校長に言う。剣のことだけ」
カイは、袖で顔を拭いて、顔を上げた。まっすぐな目だった。
「そのあとのことは、そのあとで考える。……考えるのは、ひとりじゃなくて、いいんだよな」
「ええ」
「お前、洗濯の話ばっかりだな」
「洗濯係だから」
カイは、短く笑った。昔と同じ、口の端だけで笑う笑い方だった。
「リネット」
背を向けかけて、カイは、足を止めた。
「ありがとな」
そう言って、暗い練兵場の向こうへ、走っていった。
足音が、遠ざかっていく。
私は、井戸の脇に残った白い手袋を、拾い上げた。ハンカチに包んで、前掛けのポケットにしまう。
宿舎の角に戻ると、ルシアン様は、まだ、塀の外を向いて立っていた。さっきと、一歩も違わない場所に。
「終わりました」
「そうか」
ルシアン様は、振り向いた。月明かりの中で、その目の下の影が、昼より濃く見えた。
「寒かっただろう」
「ルシアン様のほうが、ずっと」
ルシアン様は、返事のかわりに、自分の外套を脱いで、私の肩にかけた。
今朝と同じだった。今朝は、着ていろ、と言われた。今は、何も言われなかった。
そのとき、気づいた。外套を脱いだルシアン様の手が、素手のまま、赤くなっていた。ずっと塀のほうを向いて、立っていたのだ。手袋を私に貸したまま。
私は、右手の手袋を外して、差し出した。
「片方、お返しします」
「いらん」
「赤くなっています」
ルシアン様は、少しのあいだ、手袋を見ていた。それから、黙って受け取って、右手にはめた。
黒い革の手袋を、右と左で分け合って、私たちは、並んで立っていた。
私は、ポケットのハンカチを、取り出した。
「カイは、脅されていました。これが、枕の下に。白い手袋の男からです。詳しいことは、言えません」
「言わなくていい。聞かない、と言ったはずだ」
ルシアン様は、ハンカチ越しに、手袋を受け取った。顔に近づけて、眉を寄せた。
「……香油か」
「はい。ゆうべ、街灯の下から流れてきたのと、同じ匂いです。厨房の少年が嗅いだ、桶の持ち主の匂いとも」
ルシアン様は、手袋を慎重に包みなおして、懐にしまった。
「三度目、か。一度なら偶然。三度なら、つながっている」
「はい。そして、あの男は、騎士学校の中にも、手の者がいます。枕の下に、これを置ける人が」
ルシアン様は、少しのあいだ、黙っていた。
それから、思い出したように、言った。
「俺からも、ひとつある。医務室を出る前に、椅子の背に、ベルトラムの上着がかけてあった」
私は、顔を上げた。
「制服の上着だ。背中は裂かれて血に染まっているが、前のボタンは、上から下まで、全部とめられたままだった」
「それは」
「水を飲みに出る男は、寝巻きに外套を引っかけて出る。制服の前を、きっちりとめて、井戸の脇に立っていたのは」
ルシアン様は、井戸のほうを、初めて見た。
「水を飲むためじゃない。誰かと会うためか、塀の外へ出るためかだ。どちらにしても、あの男は、嘘をついている」
私は、さっき聞いた話を思い出した。
「誰から聞いたかは、言えません。でも、悲鳴のあと、宿舎のほうへ走っていく足音を聞いた人がいます。革の靴じゃなくて、布の靴の、軽い音だったと」
「寝室履きか」
「靴を履き替える間もなく、飛び出してきた人です」
ルシアン様は、目を細めた。
「ベルトラムは、きっちり身支度をして、井戸に来た。刺した人間は、寝室履きのまま、あの井戸に来た。待ち合わせに行く格好じゃない」
「でも、刺されたのは、本当です」
「ああ。だから、厄介なんだ」
井戸の底の水が、月を揺らしていた。
水は、何も言わない。嘘をついているのは、水ではなかった。
カイ。今はディートリヒ。守りたいものが二つになって、一人では、どちらも守れなかった。
次回、擦り切れた袖口。
見つけた弟妹 4/14
ピピの十二歳の誕生日まで あと138日
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