第13話 擦り切れた袖口
夜明け前に、目が覚めた。
客間の窓の外は、まだ青い。机の上に、油紙の包みが置いてあった。ハンスのシャツだ。昨日、学校長の前で見せたあと、そのまま私の手元に残してあった。今日、もう一度見せるためだった。
ピピの誕生日まで、あと百三十七日。
私は、ランプの芯を少し上げて、包みを開いた。
乾いたシャツは、洗濯室で見たときより、ずっと硬かった。右の袖口の、手首の内側。茶色い染みは、湯で洗った血の色のまま、布の奥に居座っている。
ここまでは、昨日、みんなの前で見せた。今日は、染みのまわりを見る。
汚れは、嘘をつかない。けれど、嘘をつく人は、汚れのまわりで、必ず何かを見落とす。
私は、シャツの両方の袖口を、ランプの下に並べた。
右の袖口は、縁がまっすぐで、糊の名残があった。ほとんど擦れていない。新しいみたいに、きれいな縁だった。
左の袖口を手に取って、息が止まった。
縁の糸が、細く毛羽立っている。布の目が薄くなって、ランプの光が透けるほど。何度も、何度も、同じところをこすられた跡だった。
剣を握る側の袖口は、鍔にこすれて、擦り切れる。昔、騎士団の洗濯物を洗っていた人が、教えてくれた。
左だけが、擦り切れている。
(……ハンスは)
目を閉じた。灯火の家の、食堂が浮かんだ。
木の皿。長い卓。院長のマザー・エルダが、いつも端の席から、子どもたちの手元を見ていた。
「ハンス。匙は、右で持ちなさい」
小さなハンスは、匙を左手に握って、泣きそうな顔でうつむいていた。右で持つと、スープが半分こぼれた。こぼすたびに、院長の指が、卓をこつんと叩いた。
向かいの席で、カイが、がたんと立ち上がった。
「左でも、スープは飲める」
院長が、カイをにらんだ。カイは、鼻息を荒くして、にらみ返した。
私は、自分の匙を左手に持ちかえて、わざとスープをこぼしてみせた。
「ほら。私も、こぼれる」
ハンスは、涙のたまった目で、私とカイを見比べて、それから、ちょっとだけ笑った。
あの子は、左利きだった。
小部屋で握ったあの子の手も、左のほうが、硬かった。
私は、目を開けて、もう一度、右の袖口を見た。
人を刺せば、返り血は、剣を握った手の袖口に飛ぶ。左で握る子が、刺したのなら。
血が付くのは、左の袖口のはずだ。
*
朝の鐘のあと、学校長の執務室に、人が集まった。
学校長のゲルハルト卿。指導教官。ルシアン様。私。それから、呼び出されて入ってきた、カイ。
カイは、私を一度も見なかった。それでいいと思った。
「ディートリヒ候補生。一昨日の証言に、補足したいことがあると聞いたが」
「はい」
カイは、背筋を伸ばして、まっすぐ立っていた。
「レオポルトが宿舎を出るのを、私は、見ました。そのとき、あいつは、腰に何も下げていませんでした」
教官が、鼻で笑った。
「暗がりで、剣の有無が見えるものか」
「月が出ていました」
カイは、まばたきひとつしなかった。
「剣を下げて歩けば、金具が鳴ります。あの夜は、鳴りませんでした」
「ならば、なぜ一昨日、それを言わなかった」
「尋ねられたことに、答えただけです」
「お前は、夜、宿舎の窓から外を眺める趣味でもあるのか」
空気が、張りつめた。カイの指が、拳に握られかけた。
「あの夜は、眠れませんでしたので」
ルシアン様が、横から、淡々と言った。
「宿舎の西の窓は、井戸に面している。確かめた」
教官は、口を閉じた。
カイは、窓だとは、ひと言も言っていない。ルシアン様は、窓があることだけを、言った。
この人は、何も聞かない。そのかわりに、足りないところを、黙って埋める人だった。
学校長は、腕を組んで、唸った。
「剣を下げていなかった、というだけでは、決め手にならん。一度、部屋へ戻って剣を取ってから、井戸へ向かったのかもしれん」
「仮にそうだとしても、刺したのがレオポルト様ではないことは、このシャツが示します」
私は、油紙の包みを、卓の上に広げた。
湯で洗った血の染みが、昨日よりも、よく見えた。
「右の袖口の、手首の内側です。昨日も、お見せしました。……ひとつ、お尋ねしてもよろしいですか」
「何だ」
「レオポルト様は、剣を、どちらの手で握りますか」
学校長が、教官を見た。教官は、一拍遅れて答えた。
「……左だが」
「左」
学校長が、低く繰り返した。
「そうだ。あれは左だ。練兵場で、毎朝、見ている。右では、木剣もろくに振れん子だ」
私は、シャツの左の袖口を、持ち上げた。
「こちらを、ご覧ください」
縁の糸が毛羽立って、布の目が透けるほど擦り切れた、袖口。
「剣を握る側の袖口は、鍔にこすれて、擦り切れます。左だけが、ここまで擦り切れているのは、このシャツの持ち主が、左で、毎日、剣を握ってきたからです」
それから、右の袖口を、隣に並べた。糊の名残のある、新しい縁。
「人を刺せば、返り血は、剣を握った手の袖口に飛びます。寝台の下から出た剣は、根元まで血で黒くなっていました。そんな剣を握った手の袖口が、無傷で済むはずがありません。左で握る人が刺したのなら、血が付くのは、左の袖口のはずです」
私は、左の袖口を、窓の光にかざした。
「湯で洗えば、血は茶色く固まって、必ず残ります。左の袖口は、白いままです。血が付いているのは、一度も剣にこすれていない、右の袖口だけです」
部屋が、静まり返った。
「右の袖口だけを汚すのは、右手で剣を握る人の、汚れ方です。このシャツは、レオポルト様が人を刺したときに着ていたものではありません。レオポルト様が左利きだということを考えもしなかった誰かが、血をつけて、洗い場に置いたものです」
教官が、かすれた声で言った。
「ひ、左手を怪我していて、右で握ったのかもしれん」
「それなら、右手に包帯があったはずです。ありましたか」
教官は、答えられなかった。
ルシアン様の口の端が、わずかに上がっていた。それから、静かに口を開いた。
「ベルトラム・グラウの傷の向きと深さを、医師に診させる。左手と右手では、刃の入り方が違う」
学校長は、ゆっくりと教官のほうを向いた。
「お前は、毎日、あの子の稽古を見ていた。左だと知っていた。それなのに、一昨日、あのシャツを前にして、『分かりやすい』と言ったのか」
教官の顔が、赤くなって、それから、青くなった。
「も、申し訳……」
「右の袖を見る前に、結論を決めていた、ということだ」
学校長は、卓の上の茶色い染みを、顎で指した。
「血の洗い方も知らん者に、人の罪は量れん。指導教官の任は、調べが済むまで解く。その間、宿舎の洗い場当番を、ひと月。冷たい水でだ」
教官の口が、ぱくりと開いた。
昨日、湯に手を突っこんだ候補生と、まったく同じ顔だった。
学校長は、太い息を吐いた。
「レオポルトの見張りは、外す。ただし、宿舎からは出すな。……監察官殿、続けて、調べを願いたい」
ルシアン様が、短くうなずいた。
部屋を出るとき、カイが、私とすれ違った。目も合わせずに、通り過ぎた。
ただ、すれ違いざま、顎を、ほんの少しだけ引いた。
それだけで、十分だった。
*
ハンスの小部屋の扉は、開いていた。見張りの姿は、もうなかった。
ハンスは、寝台の端に座っていた。私を見ると、立ち上がりかけて、よろけた。
「ねえさん。学校長様が、見張りを外してくれたって、ほんと?」
「ほんと。まだ宿舎からは出られないけど」
ハンスは、ほうっと肩の力を抜いて、また座りこんだ。
私は、隣に腰を下ろして、聞いた。
「ひとつ、聞いていい?」
「なに」
「剣は、どっちの手で持つ?」
ハンスは、きょとんとして、自分の手を見下ろした。
「……ひだり。ねえさん、知ってるでしょ、ぼく、ずっと」
言いかけて、口を閉じた。
「覚えてて、くれたの。ぼくが、左だったこと」
「覚えてる。院長に匙を叩かれて、泣いていた日のことも」
ハンスの目が、みるみる潤んだ。
「ここでも、教官に言われたんだ。左は見苦しいから、右に直せって。何度も。でも、右だと、思いきり振れなくて。だから、ひとりでも、稽古した。左で。誰にも見られないところで」
私は、油紙の包みから、シャツの左の袖口を出した。
「これを見て。あなたの左の袖口が、こんなに擦り切れてる」
ハンスは、おそるおそる、毛羽立った縁に、指で触れた。
「これが、あなたが嘘をついていない証拠。何度も、何度も、同じところを握った跡。今朝、学校長様の前で、この袖口が、あなたの代わりに喋ってくれたの」
ハンスの唇が、震えた。声を出さずに、肩だけが、ひくひくと揺れた。
「ぼくが、がんばってたことが……証拠に、なったの」
「そう。あなたが、ひとりで稽古した分だけ、袖口が減った。その分が、あなたを守ったの」
ハンスは、袖で顔をぬぐった。ぬぐっても、ぬぐっても、涙は止まらなかった。
「ねえさん」
「なに」
「……ねえさんなら、もう分かってるよね。あの人に、会った?」
私は、扉のほうを見た。廊下では、ルシアン様が、窓の外を見ているふりをして、こちらに背を向けていた。
「会った」
「……泣いてた?」
「泣いてた。目に砂が入っただけだって、言い張ってたけど」
ハンスは、濡れた顔で、ふっと笑った。
「それ、あの人の、いつもの言い訳だ」
笑いながら、また泣いた。
ふと、廊下の突き当たりに、背の高い影が立っているのが見えた。
肩のいかった、短い黒髪の候補生だった。
カイは、こちらへは来なかった。ただ、開いた扉の向こうに、ハンスの姿を見つけて、足を止めていた。
ハンスが、顔を上げた。
二人の目が、合った。
どちらも、動かなかった。声も、出さなかった。
ハンスが、涙で濡れた顔のまま、左手を持ち上げた。指先だけの、小さな合図だった。
カイは、短く顎を引いた。それから、背を向けて、廊下の向こうへ歩いていった。肩をいからせ、足を外に開いた、あの歩き方で。
背中が、ほんの少し、震えていた。
ハンスは、持ち上げた手を、そっと膝に下ろした。
私は、何も見なかったふりをして、シャツを油紙に包みなおした。
*
昼前に、私たちは、騎士学校の丘を下りる馬車に乗った。ベルトラムの傷は、午後、王宮付きの医師が診ることになっている。
馬車が動き出してすぐ、私は、冷えた指を温めようと、前掛けのポケットに手を入れた。指先が、紙に触れた。
出した覚えのない、畳んだ紙だった。
「どうした」
ルシアン様が、私の顔を見て、眉を寄せた。
私は、紙を開いた。
息を吸った瞬間、鼻の奥に、甘い匂いが広がった。
花を煮詰めたような、香油。
『洗濯係は、洗うだけでいい。覗くな。次に汚れるのは、お前の袖だ』
読み終える前に、ルシアン様が、私の手から紙を取った。
読み進めるにつれて、その指先が、紙の端で白くなっていくのが見えた。
「いつ入れられた」
「分かりません。昨夜、白い手袋をハンカチに包んでしまったときには、こんな紙は入っていませんでした」
思い出したのは、執務室を出た、廊下だった。人の流れの中で、誰かの肩が、ぶつかった。
顔は見ていない。ただ、通り過ぎたあとに、甘い匂いが、ふわりと残った。
そう気づいたとき、全身の毛が逆立つのを感じた。
昨日、カイが練兵場の脇でやったのと、同じ肩のぶつけ方だった。
あの部屋を出て、まだいくらも経っていない。私が何を指さしたか、もう、知られている。
「降りるか」
ルシアン様が、低く言った。
「降りません」
「……そう言うと思った」
ルシアン様は、窓の外を見たまま、懐から、黒い革の手袋を出した。昨夜、私と分け合った、右手の分だった。
それを、私の膝の上に置いた。
「今日からは、両方、君のものだ」
「ルシアン様の手が」
「新しいのを買う。……君が、袖を汚さずに済むなら、安いものだ」
私は、手袋に指を通した。まだ、温かかった。
その温かさの向こうで、脅しの紙の甘い匂いは、馬車が丘を下りきっても、消えなかった。
ハンス(16)。左利きを直せと言われた子は、誰にも見られない場所で、ひとりで剣を振っていた。その分だけ、袖口が減った。
次回、監察局の夜。
見つけた弟妹 4/14
ピピの十二歳の誕生日まで あと137日
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