第14話 監察局の夜
監察局の門をくぐっても、鼻の奥の甘い匂いは、消えなかった。
石造りの廊下を、ルシアン様は大股で歩いた。書類の箱の山の向こうから、年配の監察官が首を出した。
「おや、昼飯の時間に帰ってくるとは、珍しい」
「グスタフ、窓際の机を空けろ。紙を見る」
挨拶も抜きだった。グスタフさんは、ぶつぶつ言いながら、積んであった箱を足で押しのけた。
ルシアン様の部屋は、廊下の突き当たりにある。書類で埋まった机の前に、曇った窓がひとつ。ルシアン様は、その窓の前で、馬車の中から握りしめてきた紙を広げた。
「触るなよ」
「はい」
「……いや。君は、触っていい。洗濯係だ」
「どちらですか」
「君は、触っていい」
私は、紙の端を指でつまんだ。
薄い生成りの紙だった。罫が、うっすらと刷られている。窓の光にかざすと、罫のあいだに、白い模様が浮かび上がった。
丘の上に、一振りの剣。
「騎士学校の学用箋だ」
ルシアン様が言った。
「校章の透かしが入っている。入学のとき、候補生に配られる紙だ」
「じゃあ、学校の中の者が書いたってことか」
グスタフさんが、あごをなでた。ルシアン様は、首を横に振った。
「学校の中の者なら、誰でも手に入れられる。それだけだ。出入りの商人でも、一枚くらいは手に入る。字は手本どおりで、癖を消してある。字からは、誰とも言えん」
私は、紙を鼻に近づけた。
甘い香油の匂いは、紙の隅から隅まで、まんべんなくしみこんでいた。
「ルシアン様。この紙、どこにも指の跡がありません」
「指の跡?」
「手に香油がついていたなら、つまんだ角や折り目の端に、指の形の脂じみが濃く残ります。この紙には、それがありません。どこも、同じ薄さで匂っています」
私は、紙を裏返して、もう一度確かめた。
「油がついたんじゃなくて、匂いが移ったんです。ちょっと触っただけでは、こんなに隅まで均一には移りません。香油をつけた物と同じ引き出しか箱に、しばらく入れてあった紙です。たとえば、手袋と一緒に」
ルシアン様が、目を細めた。
「あの男の手袋と同じ場所に、物をしまえる人間か」
「書いたのが、あの男本人とは限りません。でも、あの男の持ち物を預かれるくらい、近くにいる人です。お金で一度だけ雇われた人の距離じゃありません。それと、厨房の少年が、桶を受け取ったときに嗅いだのも、この匂いでした。湯を取りに来た候補生も、この匂いのそばで暮らしている人です」
「湯を取りに来た人間と、この紙を書いた人間が、同じとは限らん。だが、同じ棚の側にいる」
グスタフさんが、低く口笛を鳴らした。
「お嬢さん、鼻が犬より利くな」
「洗濯係ですから」
ルシアン様は、紙を机に置いた。
「あとは、『袖』だ」
「はい」
「あの部屋にいたのは、学校長、教官、俺、君、ディートリヒ。君が袖口を指さしたと知っているのは、その五人と、扉の外で耳を立てていた者だ。この紙が、もっと前から用意されていて、『袖』が洗濯係への当てこすりにすぎないのなら、話は別だが」
「どちらにしても、私の動きは、見られています」
「そうだ」
ルシアン様は、否定しなかった。かわりに、窓の掛け金を、確かめるように指でなぞった。
*
午後は、洗った。
洗っていれば、考えすぎずに済む。監察局の洗濯室には、証拠品の混じった汚れ物が、毎日のように積み上がる。
その前に、ハンスのシャツの包みを、証拠品の棚へ預けた。グスタフさんが、預かり票の紙を、私の前に突き出した。
「字は書けるか、お嬢さん」
「はい」
「なら、お前さんが書け。わしの字は、読めんと評判でな」
日付と品名を書いた。男物のシャツ、一枚。右袖口に、湯で洗った血の染み。書き終えると、グスタフさんは満足そうにうなずき、それから声を落とした。
「ところで、あいつは飯を食わん男だ。気が向いたら、食えと言ってやってくれ」
「聞いてくださるでしょうか」
「聞かん。だが、言うだけ言ってくれ」
窓の外が暗くなりかけたころ、グスタフさんが、封をした手紙を持って洗濯室に入ってきた。
「王宮付きの医者の使いが来たぞ。騎士学校から戻ったばかりだとさ。学校長からの名簿と当番表、検分用の上着の包みも、預かってきた。あいつが、お前さんも来いとさ」
*
部屋へ行くと、ルシアン様は、ちょうど封を切るところだった。ランプの下で黙って読み、二度読み返してから、顔を上げて私を見た。
「読む。聞け」
報告の中身を、ルシアン様が声に出して読んだ。
『傷は、背の右、肩甲骨の下。後ろから、右手に握った刃が、斜め下へ、一度だけ入っている』
『刃は、肋骨の上で止まっており、肺にも背骨にも届いていない。力いっぱい突いたものとは見えない。刺した側が加減したか、刺された側が刃を逃がしたかのどちらかと思われる』
そこで、声が一度止まった。
『備考。患者は、傷が浅いと告げられたとき、怒るより先に、長く息を吐いた』
読み終えて、ルシアン様は、紙を机に置いた。
「殺す気のない傷だ」
「右手……」と、私は言った。「やっぱり、ハンスじゃありません」
「ああ。左で握る人間が、右手の角度で刺すことはない。だが、問題はそこじゃない」
ルシアン様は、備考の一行を、指で叩いた。
「刺された男が、怒るより先にほっとした。本当に背中を刺された人間は、傷の深さを聞けば、青くなるか、怒鳴るかだ。ところがあの男は、前のボタンを全部とめて井戸へ来て、傷が浅いと聞いて安心した」
「その上着、お医者様の使いが、持ってこられましたか」
「検分用に預かったそうだ。机の上の包みがそうだ」
包みを解くと、騎士学校の制服の上着が出てきた。背に刃の裂け目があり、そのまわりに、乾いた血が黒く固まっている。医者が鋏を入れたのか、背は縦に切り開かれていた。前のボタンは、上から下まで、とまったままだ。
私は、肩の縫い目を、指でなぞった。
「ルシアン様。この上着、肩と袖の折り目が、まだ立っています」
「折り目?」
「火のしを当てた折り目です。一日着た服や、着て寝た服は、肘と肩から折り目が丸くなります。これは、刃物みたいに立っている。着る直前に、火のしを当てたばかりの上着です」
私は、上着の襟を指で弾いた。
「水を飲みに出る人は、わざわざ火のしを当てた制服に着替えません。人に会うために整えた服です」
「待ち合わせの服、か」
ルシアン様は、低く言った。
「……刺されることを、知っていたんだな。推測だ。だが、辻褄は合う。軽く切るだけだ、とでも言われて、自分から背中を差し出したのかもしれん」
自分から、背中を。
「それなら」
私は、考えながら言った。
「この傷は、殺すための傷じゃありません。傷そのものが、欲しかったんです。傷があれば、犯人が要るから。そこに、ちょうどいい剣と、ちょうどいい子がいた」
「ハンスだ」
ルシアン様が、静かに言った。
「問題は、なぜハンスだったか。ハンス自身が憎かったのか。それとも、ハンスを大事にしている誰かを、潰したかったのか」
昨夜の砂の上の、白い手袋が浮かんだ。
見たとおりに言え。お前の父上の爵位は、私が預かっている。
「……カイ」
「脅しの紙は、ディートリヒの枕の下に置かれた。ハンスの罪が重くなって得をするのは、ディートリヒを縛りたい人間だ」
ハンスは、カイを縛るための縄にされたのだ。
胸の奥で、冷たいものが、ゆっくり沈んでいった。
「次に、剣を取った人間だ」
ルシアン様が、指を折って数えた。
「ハンスの部屋に入れて、剣を持ち出せた。ハンスが左利きだと、考えもしなかった。寝室履きのまま、井戸から宿舎まで走って戻れた。右手で剣を握る。そして今日、君の前掛けに紙を入れられた。……騎士学校の宿舎の中の、右利きの候補生。この条件に合う人間は、まだ何人もいる」
「何人も、ですか」
「何人もだ。だが、ひとつだけ、引っかかっていることがある」
ルシアン様は、窓の外の暗い通りを見た。
「一昨日、君がハンスの部屋に入ったとき、俺は、見張りを廊下の端まで連れていった」
「覚えています」
「あのとき、いつからここに立っている、と聞いた。『今朝からです。自分から代わりました』と言った。それから、聞いてもいないのに、『同じ階で、眠れなかったので』と付け足した。君は部屋の中だ。聞こえなかっただろう」
「聞こえていませんでした」
私は、息をのんだ。
「誰もやりたがらない見張りを、自分から代わった。聞かれもしないのに、先に理由を言った。嘘をつく人間は、聞かれる前に答える」
「名前は」
「あの廊下で、聞いた。ヴィルフリート・ライヒ」
ルシアン様は、預かってきた名簿を引き寄せて、頁を繰った。
「ライヒ子爵家の次男。十七歳だ」
ヴィルフリート・ライヒ。
私は、その名前を、口の中で転がした。
「断定はしない。名前を挙げただけだ。同じ階には、ほかにも部屋がある」
ルシアン様は、医師の報告書を折りたたんだ。
「明日の朝、ベルトラムの前で、この名前を出す。出す前に、向こうから言わせられれば、一番いい。君は、あいつの目を見ていてくれ。目は、嘘が下手だ」
「はい。……ルシアン様。その見張りの顔、覚えていますか。私は、ハンスのことで頭がいっぱいで」
「俺も、よくは覚えていない」
ルシアン様は、眉を寄せた。
「それが、気に入らん」
私は、小部屋の寝台に座っていたハンスを思い出した。
「ハンスは、大丈夫でしょうか。見張りが外れて、小部屋に一人です」
「大丈夫だ。向こうにとって、あの子は、犯人でいてもらわねば困る。生きて、罪を着ていてもらう」
声は静かだった。静かなほど、怒っているのだと、私はもう分かるようになっていた。
「だから、急ぐ。罪が固まる前に崩す」
「今夜は、戻らん。学校から取り寄せた名簿と当番表を読む。君は帰って、寝ろ」
「洗濯室で、少しだけ」
「寝ろと言った」
「少しだけです」
ルシアン様は、何か言いかけて、やめた。やめるのが、この人のたいていの返事だった。
*
洗濯室の隅で、私は、黒い革の手袋を二つ、ランプの下に並べた。
今日、両方、私のものだと言われた手袋だった。けれど、革は、持ち主の手の形に曲がっていた。右の親指と、人差し指と、中指の先だけが、ほかの指よりずっと薄い。ペンを握る指だ。一日中、書類に向かう人の手の、擦れ方だった。
革は、洗えない。かわりに、ほつれた縫い目を、蜜蝋を引いた麻糸でかがり直し、擦れて白くなった指先に、蜜蝋をすり込んで揉む。あかぎれの軟膏と、同じ蜜蝋だ。
最後に、右の手袋の、手首の内側の、薄い麻の裏地に、針を入れた。
星を、ひとつ。
星しか、上手に刺せない。それもマルタに言わせれば、「やっぱり下手」らしい。見えないところなら、下手でも、困らない。
縫い終えた手袋を、指で押して形を整えたころ、九つの鐘が鳴った。
*
扉を叩いても、返事はなかった。もう一度叩いて、開けた。
ルシアン様は、机に向かったまま、顔も上げなかった。名簿の頁をめくる指が、赤かった。暖炉の火は落ちていて、机の端には、グスタフさんが置いていったパンとチーズが、手つかずで冷えている。
「寝ろと言ったはずだ」
「これを置いたら、寝ます」
私は、机の隅に、黒い革の手袋を二つ置いた。
ルシアン様が、やっと顔を上げた。
「……直したのか」
「ほつれていたので。指の先も、薄くなっていました。右の親指と、人差し指と、中指が。一日中ペンを握る人の、擦れ方です」
「見ていたのか」
「汚れが、見えてしまうだけです」
ルシアン様の口の端が、わずかに動いた。
右の手袋を取って、はめた。指を何度か曲げ伸ばしする。革が手になじむ、小さな音がした。
それから、動きが止まった。
手首の内側、裏地のところで、指が何かに触れたのだ。
「……中に、何か縫ってあるな」
「星です」
「星」
「これしか、上手く刺せなくて。下手ですけど」
手袋をはめた右手を、じっと見ていた。見えないところにある星を、見ようとするみたいに。
耳が、赤かった。
私は、見なかったふりをした。
「……見えないところに、か」
「見えるところに刺したら、ルシアン様が、困ると思って」
「困りはしない」
小さな声だった。それから、手袋の手首のあたりを、指で一度だけ押さえた。
「……ここなら、いい」
私は、もう一つの手袋を、手に取った。
「左は、私が借ります。片方ずつ。昨日みたいに」
「昨日は、俺が貸した」
「今日は、私が貸します」
ルシアン様は、少しのあいだ黙っていた。それから、「そうか」とだけ言った。
「それと、グスタフさんから伝言です。パンを食べろと」
「あいつは、余計なことを」
そう言いながら、ルシアン様は、冷えたパンをちぎって、口に入れた。私の目の前で、ひとかけ分、きちんと飲みこんだ。
*
食べ終えると、ルシアン様は、机の上の脅しの紙を取った。
「これも、しまっておく」
胴着の内側から小さな鍵を出して、机の一番下の、深い引き出しを開けた。
中には、きちんと並べて入れてあった。ハンカチに包んだ白い手袋。揃えて重ねた、何通もの書類。その奥の、紐で束ねた古い手紙の上に、小さな手袋が、一つだけ載っていた。
薄い灰色の革だった。色が褪せて、ところどころ白っぽい。女の人の手袋で、それも、大人の女の人というより、まだ少女の手の大きさに近い。左手の分だけで、もう一つは見当たらない。
目が、勝手に動いた。
左手の薬指の根元の革だけが、輪の形に、薄く擦り切れていた。
指輪をはめたまま手袋をはめて、その上から、何度も、何度も、回した人の手袋だった。
不安なとき、癖で指輪を回す人。
ルシアン様の手が、止まった。紙を引き出しに入れかけた格好のまま、動かない。
私は、目を逸らした。逸らすのが、遅かったかもしれない。
「……見えたか」
「見えました」
「何も、聞かないのか」
「聞きません」
「なぜ」
「ルシアン様が、いつも、そうしてくださるので」
ルシアン様は、しばらく黙っていた。それから、引き出しの中を見つめたまま、言った。
「理由は聞かない、と言うのは、楽なんだ」
「……楽、ですか」
「自分も、理由を聞かれずに済む」
ランプの芯が、ぱち、と鳴った。
「君は、聞かなかった。それで初めて、分かった。聞かれないと、人は、話したくなるものらしい」
ルシアン様は、灰色の革から目を上げた。
「いつか、話す。……長くかかるかもしれんが」
「待ちます」
私は、すぐに答えた。
「待つのは、慣れていますから」
ルシアン様の目が、揺れた。
慣れたのではない。慣れたふりが、上手になっただけだ。そのふりを、この人には見抜かれた気がして、私は思わず目を伏せた。
「慣れなくていい」
低い声だった。
「君は、待つことに、慣れすぎている」
「でも」
「……なるべく、早く話せるようにする」
約束と呼ぶには、ぎこちなかった。それでも、この人が自分のことで口にした約束は、たぶん、これが初めてだった。
ルシアン様は、紙を引き出しに入れた。鍵をかけると、かちり、と小さな音がした。
「行くぞ。送る」
「名簿は」
「送ってから読む。毎晩だと言っただろう」
ルシアン様は、外套を取った。その右手には、黒い手袋があった。
*
夜の石畳は、冷えきっていた。吐く息が、白かった。
私は、ルシアン様の左側を歩いていた。右手に手袋をした人と、左手に手袋をした私。素手と素手が、ときどき、触れそうになった。
触れなかった。どちらも、避けなかったのに。
私の宿舎の前で、ルシアン様は足を止めた。
「夜明け前に、迎えに来る。ベルトラムより先に、学校の門をくぐりたい」
「はい」
「寝ろ」
「はい」
返事をしても、ルシアン様は、動かなかった。私が扉を入るまで、見ているつもりなのだ。
階段を上がり、部屋の窓から見下ろすと、宿舎の前の石畳に、まだ人影が立っていた。帰らない人だ。
私は、ランプを消さずに、寝台に腰を下ろした。
ピピの誕生日まで、あと百三十七日。日付が変われば、百三十六日になる。
目を閉じて、一昨日の扉の前を思い出そうとした。ヴィルフリート・ライヒ。着替えを抱えた私に、しぶしぶ扉を開けた、見張りの顔を。
顔は、思い出せなかった。
そのかわり、あのとき見ていたのに、言葉にしていなかったものが、浮かんできた。扉の取っ手を握っていた手。剣だこが、ほとんどない、白くてきれいな手。爪の先まで、汚れひとつなかった。
汚れのない手は、何を洗い落とした手なのだろう。
ルシアン。目つきの悪い監察官。「理由は聞かない」は、自分を守る言葉でもあった。
次回、二人の騎士。
見つけた弟妹 4/14
ピピの十二歳の誕生日まで あと137日
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