第8話 ここから出たい
階段の下で、馬のいななきが遠ざかっていった。
近衛の詰め所まで、馬で駆ければ半刻もかからない。半刻後には、ロザリーはこの屋敷から連れていかれる。
ロザリーは、床に手をついたまま泣いていた。伯爵夫人は、首飾りを布ごと胸に抱いて、窓辺に立っていた。年かさの女中は、近衛を呼びにやらせるために、さっき階段を下りていったきりだった。家令は、戸口の脇に控えていた。
私は、何も言えずに立っていた。
汚れとほつれを信じると、ロザリーに言ったのは私だ。
その私が、今、何ひとつ言い返せない。
うつむいた私の目に、床が映った。
使用人棟の二階の、古い板張りの床。窓の外の石炭置き場から吹きこむ風で、板の上には、黒い粉がうっすらと積もっていた。中庭の石炭殻が、毎日、靴の裏について上がってくるのだ。
その黒い粉の上に、跡が残っていた。
衣装箱の、すぐ前。
小さな三日月が、二つ。
並んで、くっきりと。
息が止まった。
今朝、礼拝堂の床で見たのと、同じ形だった。
膝をついた人の、靴のつま先の跡。
「──動かないでください!」
自分でも驚くほど、大きな声が出た。
伯爵夫人が、眉をひそめて振り返った。ロザリーが、泣き濡れた顔を上げた。戸口の家令の目だけが、ゆっくりと床へ下りた。
*
私は、跡を踏まないように、横から膝をついた。
三日月は、二組あった。
一組は、丸くて幅が広い。もう一組は、細くて、先がとがっている。
丸いほうは、新しかった。黒い粉を押し分けて、板の木目がのぞいている。さっき女中が、衣装箱の前に膝をついて蓋を開けたときの跡だ。
細いほうは、その丸い跡の下にあった。
半分ほどが、丸い跡に踏み消されている。けれど、消えずに残った先端は、はっきりと細く、とがっていた。
「丸い跡が、細い跡の上に重なっています」
私は、床を指さした。
「上にあるほうが、あとでついた跡です。女中さんが膝をつくより前に、先のとがった靴の人が、この衣装箱の前に膝をついている」
お屋敷の使用人の靴は、先が丸い。女中さんの靴も、ロザリーの靴も。
私は、前掛けのポケットから、糸を一本取り出した。
礼拝堂で、床の三日月を測った糸。家令の靴に当てて、ぴたりと重なった、あの結び目のついた糸だ。
細い三日月の、消えずに残った端から端へ、糸を渡す。
結び目が、三日月の先と、ぴたりと重なった。
「礼拝堂の床の跡と、同じ幅です」
部屋が、静まり返った。
私は顔を上げて、戸口の家令を見た。
「バルトルトさん。今朝、この使用人棟の二階へ上がりましたか」
家令は、少しも慌てなかった。
「いいえ。今朝は礼拝堂の蝋燭を替え、裏の石炭置き場へ参っただけでございます。先ほど申し上げたとおり」
「では、この跡は」
「先のとがった靴など、珍しくもないと申し上げました。お屋敷には、旦那様もいらっしゃる」
「旦那様が、侍女の部屋の衣装箱の前に、膝をつかれますか」
家令は答えなかった。
穏やかな顔のまま、黙って、両手を前で重ねていた。
「それだけでは、足りないわ」
伯爵夫人が、冷たい声で言った。
「床の汚れがどうしたというの。首飾りは、この娘の箱から出てきたのよ」
*
「その包みの布を、見せていただけますか」
私は、夫人の腕の中の白い布を見た。
「お断りすると、申し上げたはずよ」
「触りません。見るだけです。ここからで構いません」
夫人は、しぶしぶ、布の端を垂らした。
縁に、細かいかがり縫い。
「お屋敷の布の縁は、普通は折り返して縫うだけです。こんなふうに細かくかがってあるのは、蝋が垂れても、ほつれが広がらないようにするため。祭壇布の縁の始末です」
私は、布の端の、黄色い粒を指さした。
「それに、蜜蝋の粒。このお屋敷で蜜蝋を灯すのは、礼拝堂だけです」
それから、布の片側の、灰色の汚れを見た。
「この灰色は、ほこりです。片側にだけ、まんべんなく、薄く積もっている。何日も同じ向きで、どこかに置かれていた跡です」
私は、ルシアン様のほうを向いた。
「今朝、礼拝堂の祭壇の台座の中に、穴がありました。底にほこりが積もっていて、そこだけ、平たい四角の跡が残っていた」
「首飾りの包みが、ちょうど収まるくらいの、な」
ルシアン様が、低く言った。
「この包みは、何日も、礼拝堂の穴の底にあった。ほこりの側を下にして。それが今朝、この衣装箱に移された」
ロザリーが、床に手をついたまま、息をのんだ。
伯爵夫人の目が、ほんの少しだけ、揺れた。
「……祭壇布なんて、誰でも持ち出せるわ。ロザリーは、私の部屋にも、どこにでも出入りできる侍女よ」
そのとき、廊下で、小さな足音がした。
*
灰色のドレスの娘が、戸口に立っていた。
まくり上げていた袖を下ろして、白い手袋をはめている。洗い場から、騒ぎを聞いて上がってきたのだろう。
「エレオノーラ。お客様の前に出てくるなと──」
夫人の声を、娘は聞いていなかった。
まっすぐに、夫人の腕の中の白い布を見ていた。
それから、私を見た。
私は、小さく首を振った。
証言はさせない。あなたの代わりに、汚れに話させる。そう約束したのは、私だ。
マルタは、もう一度、布を見た。
そして、手袋の指を、左の耳たぶへは上げなかった。
まっすぐ下ろしたまま、口を開いた。
「その布は、私が洗った祭壇布です」
かすれた、でも、はっきりした声だった。
「祭壇布は、三枚あります。祭壇にかけておく一枚と、洗い場で洗っている一枚と、礼拝堂の祭壇の下の、木の箱にしまっておく一枚。毎晩、奥様のお言いつけで、私が洗って、取り替えています」
マルタは、布の縁のかがり縫いを、手袋の指でさした。
「その縁は、二年前の冬に、私がかがり直しました。左の角だけ、糸の色が少し違うはずです。白い糸が切れて、生成りの糸しかなかったから」
夫人が、思わず布の角を返した。
左の角だけ、かがり糸が、ほんの少し黄みがかっていた。
「祭壇布は、私しか洗いません。ロザリーには、一度も触らせたことがありません。手伝おうとしてくれても、断ってきました。ロザリーまで叱られるから」
マルタは、床に座りこんだロザリーを見た。
「だから、ロザリーは、その布がどこにしまってあるのかも知りません」
言い終えると、マルタは唇をぎゅっと結んだ。
それきり、何も言わなかった。
あの夜、自分が礼拝堂の柱の陰にいたことは、一言も。
言えるぎりぎりのところまで。
一度目は、ロザリーは盗むような子じゃありません、と。
二度目は、今。
*
ルシアン様が、一歩前に出た。
「バルトルト。礼拝堂の祭壇の右の端に、膝をついた跡がある。君の靴の幅だ。燃えさしを拾ったと言ったな」
「左様でございます」
「台座の右の奥の石は、まわりの継ぎ目にだけ、ほこりがなかった。何度も抜き差しされた石だ。燃えさしを拾うのに、あの石を抜く必要はあるか」
家令は、黙った。
「今朝、まだ暗いうちに、礼拝堂の扉を内側から開けて出てくる、手燭を持った君を見た者がいる」
ルシアン様は、私を見なかった。私も、何も言わなかった。
植えこみの陰で、その背中を見ていたのは私だ。礼拝堂へ向かう道で、ルシアン様にだけ話しておいたことだった。
「君の靴の縫い目には、赤土の上に、石炭殻が重なっていた。礼拝堂から、石炭置き場へ。石炭置き場に面した、この部屋の床には、君の靴の幅の三日月がある。女中が膝をつくより前に、ついた跡だ」
ルシアン様は、静かに続けた。
「礼拝堂の穴の底のほこりを片側にかぶった、礼拝堂の祭壇布の包みが、ロザリーの衣装箱から出てきた。それを運べたのは、今朝、礼拝堂とこの部屋の両方に膝をついた人間だけだ」
家令の手が、ほんの少しだけ震えた。
磨きたての靴のつま先が、床の上で、かすかにきしんだ。
「……二十年です」
家令が、ぽつりと言った。
穏やかな声が、初めて、ひび割れていた。
「二十年、この家に仕えて、残ったのは借金だけでございます。音楽会の夜、奥様が鏡台に鍵を置かれたのを見て、魔が差しました。騒ぎが静まったら、外へ持ち出して売るつもりでした」
家令は、床の三日月に目を落とした。
「あの夜、礼拝堂に、誰かがいたのは分かっておりました。蝋燭の煙の匂いが、残っておりましたから。それで、早く片をつけたかった。監察官殿が、礼拝堂の柱の陰をお調べになったので」
「それで、ロザリーに着せたのか」
「……鍵を入れたのも、私でございます」
ロザリーが、両手で顔を覆った。
伯爵夫人の腕から、首飾りの包みが、すべり落ちそうになった。夫人は、慌てて抱え直した。その指が、白くなるほど震えていた。
階段の下から、重い足音が上がってきた。
近衛だった。
伯爵夫人が呼びにやらせた、近衛だった。
「ロザリーという侍女は、どこに」
ルシアン様が、戸口の家令を顎で示した。
「その侍女に罪を着せた男なら、ここにいる」
近衛は、夫人とルシアン様と、床にへたりこんだ侍女を見比べた。それから、家令の両腕を取った。
家令は、抵抗しなかった。
連れていかれる途中、一度だけ振り返って、マルタを見た。何か言いかけて、口を閉じた。
磨きたての靴が、階段を一段ずつ下りていく音が、だんだん遠くなった。
*
伯爵夫人は、窓辺に立ったまま動かなかった。
ロザリーは、まだ床に座りこんでいた。
マルタが、その前に膝をついた。手袋をはめた手で、ロザリーの肩に触れようとして、ためらって、それから、そっと触れた。
「ごめんね、ロザリー。もっと早く、言えたらよかった」
ロザリーは、マルタの手袋の手に、自分の手を重ねた。
「お嬢様は、二回も、私のために」
それ以上は、言葉にならなかった。
伯爵夫人が、ようやく口を開いた。
「……ロザリー。下がって、休みなさい」
謝る言葉ではなかった。
けれど、夫人の声は、さっきまでのような冷たさを、少しだけなくしていた。それから夫人は、マルタのほうは一度も見ずに、首飾りを抱えて部屋を出ていった。
私の隣で、ルシアン様が、小さく息をついた。
「間に合ったな」
「……ルシアン様が、あの朝のことを言ってくださったので」
「言ったのは、汚れだ。俺じゃない」
ルシアン様は、床の三日月を見下ろした。
「君の糸が、ここまで連れてきた」
そう言って、私の手のひらに、何かを握らせた。
結び目のついた糸だった。夢中で床に置いたまま、忘れていたらしい。
「失くすなよ。たぶん、まだ使う」
それから、ルシアン様は私の顔を見て、すぐに目を逸らした。
「……泣くのは、俺の見ていないところでやれ。見ていると、どうしていいか分からん」
私は、慌てて目元をこすった。
いつから泣いていたのか、また、分からなかった。
*
日が傾くころ、私は北側の洗い場で、マルタと二人きりになった。
たらいの水はもう冷えていて、湯気も立っていなかった。
マルタは手袋を外して、腫れた手を膝の上に置いていた。私はその手に、蜜蝋の軟膏を、もう一度塗った。昔と同じ順番で。親指から、人差し指、中指。
「……ねえさん。私、二回目も、ずるかった」
マルタが、ぽつりと言った。
「言えることだけ言って、礼拝堂のことは、黙ってた」
「ずるくなんかない。あの布のことは、あなたにしか言えなかった」
私は、薬指の関節に、軟膏を塗りこんだ。
「左の角の、生成りの糸。あれは、汚れより確かだった」
マルタは、泣き笑いの顔で、小さく鼻をすすった。
それから、少しだけ黙って、たらいの冷たい水面を見た。
「ねえさん。ひとつ、言わなきゃいけないことがあるの」
声が、低くなった。
「先月、あの人が、このお屋敷に来たの。白い手袋の、甘い香油の人」
私の手が、止まった。
「奥様のレースを届けに行ったら、客間の扉が少しだけ開いてて。奥様が、あの人に言ってたの。『あの娘は、エレオノーラに少しも似ていない。取り替えられないの』って」
マルタの指が、膝の上で、ぎゅっと丸まった。
軟膏を塗ったばかりの関節が、白くなった。
「あの人は、笑ってた。『登録の儀を済ませた子は、もう取り替えられない。それに、次の子は、もう決めてある』って」
マルタは、私の顔を見た。
「『灯火の家の、ピピという子だ。春に、十二になる』」
ピピ。
灯火の家で、いつも私の後ろをついて回っていた子。私が院を出た日、門の前でいちばん大きな声で泣いていた、栗色の巻き毛の子。
あの子が、春に、十二になる。
ピピの誕生日は、三月十日だ。雪どけのころで、院の裏の小川の氷が割れる音を、毎年、自分のための誕生日の歌だと言ってはしゃいでいた。
今日は、十月二十日。
指を折って、数えた。
百四十一日。
それが過ぎた朝、白い手袋の男が、灯火の家の門の前に立つ。
「私が出ていくとき、ピピはまだ八つだった」
マルタの声が、震えた。
「ねえさんの前掛けのひもを、いつも握ってた子だよ。あの子まで、知らない子の名前で、知らない家に連れていかれる」
マルタは、軟膏で光る両手で、私の手をつかんだ。
あかぎれだらけの、洗い物がいちばん上手な手だった。
「この家に、ずっといたら、私は何もできない。エレオノーラでいるかぎり、外に手紙も出せない。ピピに、逃げてって言うこともできない」
マルタの目から、涙がひとつ、落ちた。
三年間、泣くのは夜の寝台の中だけだった子が、今は、自分のためではなく、ピピのために泣いていた。
「ねえさん」
マルタは、まっすぐに私を見た。
「ここから出たい」
家令バルトルト。二十年、靴だけは毎朝磨いた。最後に磨いたのは、自分の逃げ道だった。
次回、トビーのハンカチ。
見つけた弟妹 2/14
ピピの十二歳の誕生日まで あと141日
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