第7話 赤い土
「誰の靴か、分かるのか」
空っぽの穴を見下ろしたまま、ルシアン様が言った。
「靴を見れば」
私は前掛けの縫い目から、糸を一本引き抜いた。
床の三日月に糸を渡して、端から端までの幅のところで、結び目をひとつ作る。もうひとつの三日月でも測ってみた。同じ幅だった。
小さくて、細い三日月。先のとがった靴でなければ、こんな形にはならない。
「お屋敷の使用人の靴は、たいてい先が丸いんです。歩き回る仕事だから。先のとがった靴を履くのは、旦那様か、旦那様の前に出る人くらいです」
ルシアン様は黙って、結び目のついた糸を見ていた。
それから、外した石を穴に戻した。
ごりっ、と、また同じ音がした。
礼拝堂を出ると、東の庭はすっかり明るくなっていた。赤土の小道に、夜露がまだ光っている。
先を歩いていたルシアン様が、振り返らずに言った。
「右の端だと、なぜ分かった」
私は、答えられなかった。
マルタの名前を出せば、あの子がなぜ真夜中に礼拝堂にいたのかを話すことになる。なぜ洗い物をしているのかも。なぜ、名前を間違えたら終わりなのかも。
「……見ていた人がいます。でも、その人は、話せません」
ルシアン様は、しばらく黙って歩いた。
「理由は聞かない」
いつもの言葉だった。
「証人が話せないなら、汚れに話させるしかない。そういうことだな」
「はい」
「なら、急げ。夕方まで、もう半日もない」
*
家令のバルトルトさんは、屋敷の奥の銀器室にいた。
上着を脱いで、白いシャツの袖をまくり、燭台を一本ずつ磨いている。私たちに気づくと、布を置いて、穏やかに頭を下げた。
「これは監察官殿。洗い物の具合はいかがでございますか」
椅子の背に、黒い上着が掛けてあった。
一昨日、監察局で広げた籠の中身を、思い出した。音楽会の夜に屋敷の者が着ていた服。その中で、家令の上着だけが、念入りにブラシをかけてあった。ほかの者の服には、葡萄酒の染みも、汗の匂いも、そのまま残っていたのに。
汚れを落とすのが、上手な人なのだ。
「靴を見せてもらいたい」
ルシアン様は、前置きをしなかった。
家令の手が、ほんの一瞬だけ止まった。
「……私の靴を、でございますか」
「監察局の調べだ」
家令は、少しも慌てなかった。椅子に腰かけ、片方ずつ靴を脱いで、両手で差し出した。
先の細い、古い型の紳士靴だった。黒い革が、鏡のように光っている。今朝も、磨いたばかりらしい。
私は靴を受け取って、つま先に糸を当てた。
結び目の位置と、靴の先の幅が、ぴたりと重なった。
「同じ幅です」
「先のとがった靴など、珍しくもございませんよ」
家令は、穏やかに笑った。
私は答えずに、靴を裏返した。
革は、どれだけ磨いても、縫い目の中までは磨けない。靴底と甲の革を縫い合わせた、細い溝。ブラシの毛先も、布も、そこまでは届かない。
爪の先で、溝をそっとなぞる。
赤茶色の土が出てきた。指でつぶすと、まだ柔らかい。湿っている。
その上に、黒い粒がいくつか貼りついていた。光に当てると、ガラスのようにきらりと光る。
「石炭殻です」
燃やしたあとの石炭の、燃えかすだ。王宮の洗濯場でも、かまどの前を通った者の裾には、この黒い粒がついてくる。
「赤い土が下で、黒い粒が上に乗っています。先に赤土を踏んで、そのあとで石炭殻を踏んだ。順番は、土の重なり方で分かります」
ルシアン様が、家令を見た。
「今朝、どこを歩いた」
「毎朝のことでございますよ」
家令は、少しも声の調子を変えなかった。
「夜明け前に礼拝堂の蝋燭を替え、それから裏の石炭置き場へ参りました。今朝は石炭の荷が届く日でございましたので、量を確かめに。家令の仕事でございます」
「礼拝堂で、膝をついたか」
「ああ」
家令は、思い出したように頷いた。
「燭台から燃えさしが一本転がり落ちまして。祭壇の脇まで転がったのを、膝をついて拾いました。年寄りの手は、どうもいけません」
すらすらと、迷いのない答えだった。
赤土も、石炭殻も、膝をついた跡も。家令の話は、汚れと一つも食い違わない。
汚れが教えてくれるのは、どこを歩いたかまでだ。そこで何をしたかまでは、汚れは話してくれない。
私は、靴を家令に返した。
家令は丁寧に靴を履き直し、最後に、つま先を布で軽く拭った。
靴を返し終えたとき、ルシアン様が、私にだけ聞こえる声で言った。
「よどみがなさすぎる」
「はい」
「聞かれる前から、答えを用意してあった答え方だ。赤土も、石炭殻も、膝の跡も。俺たちが靴を見に来ることまで、あの男は分かっていた」
*
廊下に、硬い足音が響いた。
「監察官殿」
伯爵夫人だった。扇を閉じたまま、銀器室の戸口に立っている。後ろに、年かさの女中を一人連れていた。
「洗濯女を連れて、私の家令の靴を脱がせていると聞きましたけれど。伯爵家の家令は、二十年この家に仕えているのよ」
「首飾りを探しています」
ルシアン様は、夫人にも前置きをしなかった。
夫人の目が、細くなった。
銀器室の中で、家令が静かに一歩前に出た。
「奥様。監察官殿は、熱心に首飾りをお探しでございます。それでしたら」
家令は、言葉を継いだ。
「まだ二度目に改めていない場所が、ひとつございます。ロザリーの部屋でございます。初日に奥様がお改めになりましたが、あの娘はそれからも屋敷の中を歩き回っておりました。隠し場所を移していても、おかしくはございません」
夫人は、ほんの少しだけ考えて、扇の先で廊下を指した。
「いいわ。行きましょう。監察官殿も、どうぞ。見ていただいたほうが、話が早いでしょう」
*
ロザリーの部屋は、屋敷の西の端の、使用人棟にあった。
母屋の西の廊下の突き当たり、勝手口を出ると、使用人棟の前は小さな中庭になっていた。かまどの灰捨て場と、石炭置き場がある。雨の日にぬからないように、地面いっぱいに、黒い石炭殻が敷き詰めてあった。
足の下で、黒い粒が、じゃり、と鳴った。
私は、足を止めそうになった。
ガラスのように光る、黒い粒。家令の靴の縫い目に貼りついていたのと、同じものだった。
赤い土が下で、黒い粒が上。
礼拝堂から、ここへ。
夜明け前に、家令がまっすぐ歩いてきた道だった。
その時間は、使用人がいちばん忙しい。かまどに火を入れ、湯を沸かし、部屋という部屋の暖炉の灰をかき出す。そのあいだ、使用人棟の小部屋は、どこも空になる。
ロザリーの部屋は、二階のいちばん奥の、屋根裏に近い小部屋だった。寝台がひとつと、小さな木の衣装箱がひとつ。窓の外に、石炭置き場が見えた。
私は、ルシアン様の袖を小さく引いた。
「石炭殻は、ここです」
ルシアン様は、前を見たまま、ほんのわずかに頷いた。分かっている、という顔だった。分かっていても、今はどうにもできない、という顔でもあった。
騒ぎを聞きつけたロザリーが、階段を駆け上がってきた。顔が真っ白だった。
「奥様、何を」
「黙っていなさい」
夫人の女中が、衣装箱の蓋を開けた。
畳んだ前掛けが三枚。替えのお仕着せ。古い靴下。ロザリーの持ち物は、それで全部のはずだった。
女中の手が、前掛けの下で止まった。
白い布の包みが出てきた。
平たくて、小さな、四角い包み。
夫人がそれを受け取って、布をほどいた。
窓から差しこむ朝の光の中で、大粒の青い石が、冷たく光った。
青い涙。
「……知りません」
ロザリーの声は、ほとんど息だった。
「私、そんなもの、知りません。本当です、奥様」
「初日に改めたときは、なかったわ」
夫人の声は、静かだった。静かなぶんだけ、冷たかった。
「あなたが、隠し場所を移したのね」
「違います、私は」
「近衛を呼びなさい。夕方まで待つ必要はないわ。今すぐよ」
女中が、急ぎ足で階段を下りていった。
ロザリーが、床に崩れ落ちた。
床に手をついたまま、ロザリーが顔を上げた。泣き腫らした目が、まっすぐに私を探していた。
「洗濯係の方……信じてくださるって、言ったのに」
胸の奥を、ぎゅっとつかまれたようだった。
信じている。今も。汚れとほつれを信じると言ったのは、私だ。
でも、ロザリーが連れていかれたら、マルタはきっと黙っていない。あの子は一度、たった一度だけ、ロザリーのために口を開いた子だ。二度目に口を開いたら、今度は、あの夜どこにいたのかを話すことになる。名前を間違えたら終わりだと言った、あの子が。
ルシアン様が、夫人の前に出た。
「その包みを、監察局で調べさせてもらいたい」
「お断りしますわ。これは伯爵家の首飾りよ。盗んだ娘も見つかった。監察局のお仕事は、もうおしまい」
夫人は、首飾りを、ほどいた布ごと胸に抱いた。
その腕の中から、白い布の端が、少しだけ垂れていた。
縁に細かいかがり縫いのある、白い麻布だった。片側だけが、灰色にうっすらと汚れている。
そして、布の端に、黄色い粒が、ひとつ。
私は、その粒から目が離せなかった。
家令は、戸口の脇に控えていた。両手を前で重ねて、いつもの穏やかな顔で。
磨きたての靴のつま先が、窓からの光を受けて、鏡のように光っていた。
階段の下で、馬を呼ぶ声がした。
期限は、もうなかった。
バルトルト。ブランシュ伯爵家の家令、勤めて二十年。靴はいつも、鏡のように磨いてある。
次回、ここから出たい。
見つけた弟妹 2/14
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リネットと一緒に、残りの弟妹を探しに行ってください。




