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第6話 襟の星

マルタは、泣かなかった。


昔から、そういう子だった。転んで膝をすりむいても、皿を割って叱られても、唇をぎゅっと結んで、泣くのは夜、寝台の中でだけ。


今も、唇を結んでいた。結んだまま、目の縁だけがみるみる赤くなっていった。


「……どうして」


かすれた声だった。


「どうして、ねえさんが、ここに」


「洗濯係だから」


私は、マルタの右手をそっと取った。背中から引き出した手は、思っていたより熱かった。腫れているのだ。


軟膏を指ですくって、ひび割れた関節にひとつずつ塗っていく。昔と同じ順番で。親指から、人差し指、中指。


「しみる?」


「……しみない」


空いている左手が、耳のほうへ上がりかけて、途中で止まった。


「ねえさん、だめ」


マルタが、小さく首を振った。


「私、エレオノーラなの。ここでは、そうじゃなきゃいけないの。誰かに聞かれたら」


「誰もいないよ。こんな朝早くに、洗い場をのぞきに来る人なんて」


左手にも軟膏を塗り終えて、私は手を離した。


マルタはしばらく、自分の手を見つめていた。蜂蜜の匂いのする、てらてらと光る指を。


それから、灰色のドレスの襟元に、そっと指をかけた。


「……見て」


襟を、内側に折り返す。


襟の裏に、古い麻布の切れ端が縫いつけてあった。指二本ぶんくらいの、小さな四角。何度も洗われて黄ばみ、端がほつれかけている。


その真ん中に、頭文字がひとつ。


M。


その横に、小さな星。


下手くそな、私の星だった。


「肌着はね、ここに来た日に、奥様に捨てられたの。灯火の家から持ってきたものは、全部」


マルタは、星を指でなぞった。


「その夜、こっそりごみ捨て場まで行って、拾ったの。でも、肌着のままだと見つかるから、襟のところだけ切り取って。それからずっと、着る服の襟の裏に縫いつけてる。服を替えるたびに、ほどいて、縫い直して」


切れ端の縁には、三年分の針の穴が、びっしりと並んでいた。


トビーは、小さくなった肌着をつぎはぎして着続けていた。


マルタは、星だけを、服から服へ渡り歩かせていた。


二人とも、捨てなかったのだ。


「ねえさんの星、やっぱり下手」


マルタが、やっと笑った。


笑ったとたんに、涙がこぼれた。


私は、その頭を胸に抱き寄せた。三年前は私の顎の下にあった頭が、今は肩のところにあった。


*


たらいのそばの低い腰掛けに並んで座ると、マルタはぽつりぽつりと話しはじめた。


三年前の春、十二歳の誕生日の朝。白い手袋の紳士の馬車に乗せられて、この屋敷に連れてこられたこと。


「着いたその日に、奥様に言われたの。今日からあなたはエレオノーラよ、って」


本物のエレオノーラ様は、その前の冬に、熱で亡くなっていたのだという。十一歳だった。


「登録の儀の前に、名前を覚えさせられた。七日しかなかった」


「名前を?」


「エレオノーラの、全部。誕生日。好きな花は白い薔薇。嫌いなのは人参。乳母の名前。飼っていた小鳥の名前。領地のお屋敷の、自分の部屋の窓から何が見えるか」


マルタは、指を折って数えた。三年たっても、すらすらと出てくる。


「登録の儀の前の晩は、奥様が、私に百回名前を言わせたの。あなたの名前は、って聞かれて、エレオノーラです、って。一度でもマルタって言ったら、灯火の家に送り返すって」


「送り返されるだけなら……」


「それだけじゃないの。送り返したら、灯火の家への寄付も止めるって」


息が止まった。


寄付。


ある年の冬、灯火の家のスープに、ときどき肉が入るようになった。マザー・エルダは、立派なお家からのご厚意よ、とだけ言った。どこのお家かは、やっぱり教えてくれなかった。


「だから、言わなかった。一度も」


マルタは、膝の上で手を握った。軟膏で光る指が、白くなるほど。


「次の日、大きな石の建物に連れていかれて、知らない大人たちの前で、エレオノーラって名前を書いたの。字が震えたら終わりだと思って、一文字ずつ、ゆっくり書いた」


十二歳の子が、知らない大人たちの前で、知らない子の名前を、一文字ずつ。


「奥様は、私の顔を見ると、いつも少しだけ嫌な顔をするの」


マルタは、淡々と言った。


「たぶん、見るたびに思うんだと思う。違う、って。本当のエレオノーラじゃない、って。だから、仕方ないの」


仕方なくなんか、ない。


そう言いたかったのに、声にならなかった。


「去年ね、トビーにも会ったんだよ」


マルタが、少しだけ明るい声を出した。


「この屋敷のお茶会に、公爵家のアルベルト様がいらしたの。一目で分かった。爪、噛んでたもん」


「お互い、知らないふりをしたの?」


「うん。でもトビー、私を見て、紅茶をこぼしたの。それで、ちゃんと分かってくれたって思った」


トビーの手紙。


『マルタも いきてる。きょねん、はくしゃくけの おちゃかいで みた』


あの子も、膝にこぼした紅茶を拭きながら、全部分かっていたのだ。


*


「マルタ。音楽会の夜のこと、聞いてもいい?」


マルタの肩が、小さくこわばった。


「今日の夕方、ロザリーさんが近衛に引き渡される」


「……知ってる」


「礼拝堂で、何を見たの」


長い沈黙のあと、マルタは、たらいの水面を見つめたまま話しはじめた。


あの夜は片づけが遅くなって、乾いた祭壇布を抱えて礼拝堂へ行ったのは、真夜中近くだったこと。祭壇布をかけ直してから、いつものように、柱の陰で蝋燭を灯して祈っていたこと。


「トビーから順番に、灯火の家のみんなの名前を呼ぶの。最後に、ねえさん。毎晩」


そうしたら、扉が開いた。


手燭を持った人影が入ってきた。マルタはとっさに蝋燭を吹き消して、柱の陰で息を止めた。


「家令のバルトルトさんだった。手燭の明かりで、顔が見えた」


家令は、祭壇の右の端に膝をついた。手燭を床に置いて、祭壇の下のほうで、何かをしていた。


「何をしていたかは、見えなかった。家令の背中で、手元が隠れて。でも、音が聞こえたの。石と石がこすれるような、ごりっていう音。二回」


「二回」


「一回目と二回目のあいだに、少しだけ間があった。それから家令は立ち上がって、出ていこうとした。扉のところで一度だけ止まって、こっちを見た気がした。吹き消したばかりの蝋燭の匂いが、まだしていたはずだから」


マルタは、自分の腕を抱いた。


「見つかったと思った。でも、家令はそのまま出ていった。私、怖くて、しばらく動けなかった」


だから、戻りが遅かったのだ。


「次の朝、首飾りがなくなったって騒ぎになって、ロザリーの前掛けから鍵が出てきて」


マルタの声が、震えた。


「家令だって、言えばよかった。でも、言えなかった。どうして真夜中に礼拝堂にいたのか聞かれたら、洗い物のことを話さなきゃいけない。そうしたら奥様は、伯爵家の恥をさらしたって怒る。それに……」


マルタは、うつむいた。


「いろいろ聞かれたら、私、どこかで間違えるかもしれない。エレオノーラじゃない答えを、言っちゃうかもしれない。名前を間違えたら、終わりなの」


だから、たった一度だけ言ったのだ。ロザリーは盗むような子じゃありません、と。言えるぎりぎりのところまで。


「ねえさん。私、ずるいよね。ロザリーは、私がいくら断っても、手袋のほつれだけはこっそり繕ってくれる子なのに」


私は、首を振った。


「あなたは、何も言わなくていい」


「でも」


「証言はさせない。あなたの代わりに、汚れに話させる」


マルタが、顔を上げた。


「昔から、そうだったでしょう。マルタが割ったお皿も、つまみ食いしたジャムも、全部、汚れで分かった」


マルタは泣き笑いの顔で、小さく鼻をすすった。


「……それ、ねえさんがいつも私を叱るときの言い方」


*


戸口で、こつ、と靴音がした。


マルタが弾かれたように立ち上がり、両手を背中に隠した。


ルシアン様だった。戸口の柱に片手をついて、立っていた。


「朝いちばんに伯爵に会ってきた。今日一日、洗い物も、祭壇布の取り替えも、監察局の調べとして見せてもらう」


それから、ルシアン様の目が、マルタに移った。


灰色のドレス。まくり上げた袖。背中に隠した手。たらいの中の、夫人のレース。


伯爵令嬢が、夜明けの洗い場で何をしていたのか。この人に分からないはずがなかった。


ルシアン様は、何も言わなかった。


ただ、伯爵令嬢にするように、静かに頭を下げた。


「お嬢様。早くから、失礼しました」


そして、私に向き直った。


「礼拝堂へ行く。祭壇布は君が持て。外で待っている」


それだけ言って、背を向けた。


理由は、聞かなかった。


洗い場を出るとき、マルタが私の袖をつかんで、耳元でささやいた。


「祭壇の、向かって右の端。家令がしゃがんでいたのは、そこ」


*


新しい祭壇布を腕にかけて、私は夜露で湿った赤土の小道を歩いた。


礼拝堂の扉を開けると、冷たい空気と、蜂蜜の匂いがした。祭壇の蝋燭は、もう新しいものに取り替えられていた。


今朝も、家令が替えたのだろう。


私は祭壇の前に進んで、古い祭壇布を外した。ゆうべマルタがかけ直したばかりの布だ。本当は、取り替える理由なんてない。祭壇に触れるための、口実だった。


布を畳んで脇に置き、祭壇の右の端へ回りこんで、足を止めた。


床の上に、赤い土が、小さな三日月の形に二つ、並んでついていた。


膝をついた人の、靴のつま先の跡だ。膝をつくと、つま先が床に押しつけられて、靴底の土がそこだけ残る。


指先で触れると、土はまだ湿っていて、色が濃かった。


赤土は、乾くと白っぽくなる。夜露を吸った土が、冷たい石の床の上で、まだ乾ききっていない。ついてから、何時間もたっていない。


蝋燭を替えるだけなら、膝をつく必要はない。祭壇の前の蝋燭は、立ったまま手が届く。それに、跡があるのは蝋燭の前ではなく、祭壇の右の端だ。


今朝、まだ暗いうちに、誰かがここに膝をついて、祭壇の下に手を伸ばしたのだ。


私は跡を踏まないように、横からしゃがんだ。


台座は、大きな石を組んで作ってあった。その右の奥、床に近いところに、手のひらほどの四角い石がはめこまれている。


指でなぞると、その石のまわりの継ぎ目にだけ、ほこりが溜まっていなかった。


「ルシアン様」


ルシアン様が、跡をよけて、私の隣に膝をついた。


「祭壇を動かすには、伯爵の許しが要るんじゃなかったんですか」


「祭壇布を取り替えていたら、石が緩んでいるのに気づいた。それだけだ」


ルシアン様は石の縁に指をかけて、ゆっくりと引いた。


ごりっ、と、石と石がこすれる音がした。


マルタが聞いたのと、同じ音。


石は、思ったより簡単に抜けた。台座の中に、小さな暗い穴が開いていた。


ルシアン様が立ち上がり、扉のそばの手燭に火を入れて戻ってきた。暗がりに、明かりを近づける。


穴の中は、空っぽだった。


ただ、底に積もったほこりの上に、そこだけほこりのない跡が、くっきりと残っていた。


小さな、平たい四角。


首飾りを入れた布の包みが、ちょうど収まるくらいの。


私は、夜明け前に見た光景を思い出していた。


内側から静かに開いた礼拝堂の扉。手燭を吹き消して、赤土の小道を足早に戻っていった、白髪の背中。


「昨日、俺たちが柱の陰を調べていたからだ」


ルシアン様が、低く言った。


「先に、動かされた」


期限は、今日の夕方。


首飾りは、もうここにはない。

マルタ。今の名前はエレオノーラ。星を、服から服へ縫い直してきた子。

次回、赤い土。

見つけた弟妹 2/14


*

ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

「続きが気になる」「十四人を、最後まで見届けたい」と思っていただけたら、ブックマークと、下の☆☆☆☆☆から評価をいただけると、とても励みになります。

リネットと一緒に、残りの弟妹を探しに行ってください。


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