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第5話 あかぎれの令嬢

馬車に乗りこもうとしたとき、後ろから小走りの足音がした。


「洗濯係の方! お待ちください!」


ロザリーだった。息を切らして、胸に小さな布の包みを抱えている。


「お嬢様が、これを。洗濯係の方に、とだけ」


包みを私の手に押しつけると、ロザリーは何度も頭を下げて、屋敷のほうへ駆け戻っていった。


馬車が動き出してから、私は包みをほどいた。


中から出てきたのは、白い手袋がひと組だった。


さっき廊下で、令嬢がはめていたものだ。


「……手袋を、洗えということか」


向かいの席で、ルシアン様が眉を寄せた。


「いいえ」


私は手袋を膝の上に広げた。


「洗ってほしいなら、洗濯物の籠に入れます。わざわざ侍女に持たせて、私に、と言ったんです。見てほしいんだと思います」


ルシアン様は何か言いかけて、やめた。


私は、膝の上の手袋を見つめていた。


灯火の家の洗濯は、年長の子の仕事だった。冬の朝、井戸の水は指が千切れそうに冷たい。誰もやりたがらないその仕事を、マルタはいつも黙って引き受けた。


ねえさんは繕い物があるでしょう、と言って。


そして春が来るころには、マルタの指は、いつもひび割れて血が滲んでいた。


あの子は、三年前の春に門を出ていった。


もう、冷たい井戸の水で洗い物をしなくていい場所へ行くのだと、私は思っていた。


*


監察局に戻ると、私はすぐに窓辺の作業台に手袋を置いた。


上等な白い子山羊革。外側は、ほとんど汚れていない。


裏返す。


指の内側に、茶色い点が、いくつも散っていた。


人差し指と中指の、関節の内側。親指の付け根。手のひらの、しわの集まるところ。


「血か」


ルシアン様が、後ろから覗きこんだ。


「はい。でも、刺したり切ったりした血じゃありません。細かい点が、関節のしわに沿って並んでいる。皮膚がひび割れて、そこから滲んだ血です」


あかぎれ。


冬の洗濯場で、私も毎年なる。指を曲げるたびに、しわのところがぱっくり割れて、血が滲む。


まだ秋なのに、こんなになるまで。


手袋の指は、関節のところだけ、革が丸く伸びていた。腫れた指を、毎朝むりやり押しこんでいる手袋だ。


私は手袋を鼻に近づけた。


革の匂いの奥に、つんとした匂いがあった。


「灰汁です。洗濯に使う灰汁の匂いが、革の中までしみこんでいる」


「灰汁? 伯爵令嬢がか」


「毎日、何時間も、灰汁に手を浸けている人の手袋です。手袋をはめたまま洗い物はしないから、洗ったあとの手にはめて、匂いが移ったんだと思います」


手のひらの側には、黒い筋が薄く残っていた。指でこすると、灰色の粉がつく。


「炭の煤。火のしを炭にのせて、取っ手を握る人の手には、ここに煤がつきます」


毎日の私の手と、同じ場所だった。


ルシアン様の目が、手袋から私の手へ移った。私の右の手のひらにも、同じ灰色の筋が残っている。今朝、グレタさんの火のしを握ったときの煤だ。


「……君の手と、同じだな」


ルシアン様はそれだけ言って、目を逸らした。


それから、しばらく黙っていた。


「……あの家の令嬢が、洗い物と火のしを?」


「はい」


「いつやっている。屋敷の娘が昼間から洗濯場にいれば、誰かが気づくだろう」


「だから、人目のないときです」


私は、手袋の指先をそっと撫でた。


「人前では、手袋をはめさせられているんです。この手を、誰にも見せないように」


自分で言いながら、喉の奥が熱くなった。


*


日が暮れるころ、ロザリーが監察局にやってきた。


伯爵家の使いで、ルシアン様に書状を届けに来たのだという。けれど、書状を渡したあとも帰ろうとせず、私の洗濯室の戸口で、もじもじと立っていた。


「あの手袋、ご覧になりましたか」


「はい」


ロザリーは、ぎゅっと前掛けを握りしめた。


「……奥様の言いつけなんです。お嬢様は毎晩、皆が寝たあとで、奥様のレースと、礼拝堂の祭壇布を洗わされるんです。お部屋から出していただけるのは、そのときだけ。『拾われてきたような体の弱い子を、この家に置いてやっているのだから、少しは役に立ちなさい』って」


拾われてきたような。


伯爵夫人は、知っているのだろうか。この子が本当は、灯火の家の子だということを。それとも、ただ冷たいだけなのか。


「手が荒れて血が出ても、人前では手袋をしていなさい、伯爵家の恥だから、って。お嬢様は一度も、文句を言ったことがありません」


ロザリーは、目を赤くして笑った。


「私が手伝おうとすると、怒られるんです。ロザリーまで叱られるから、って」


私は、窓辺の手袋に目をやった。


礼拝堂の、祭壇布。


「ロザリーさん。祭壇布を洗ったら、お嬢様は、それをどうするんですか」


「乾いたら、夜のうちに礼拝堂へ戻しに行かれます。朝のお祈りに間に合うように。それから、柱の陰で、長いことお祈りをしていかれるんです。一度だけ、心配で後をついていったことがあって」


「柱の陰で?」


「祭壇の前だと、誰かに見られたとき叱られるから、って。見つかったとき、恥ずかしそうに笑っておられました」


「誰のために、祈っているんですか」


「それは、教えてくださいませんでした。でも、お祈りの声が少しだけ聞こえたんです。『ねえさん』って」


喉が詰まって、すぐには声が出なかった。


「音楽会の夜も?」


「はい。あの夜は片づけで遅くなって、お嬢様が祭壇布を抱えて裏口から出ていかれたのは、真夜中近くでした。私、奥様のお部屋の窓から見ていたんです。戻ってこられたのは、ずっとあとで……」


ロザリーは、言いよどんだ。


「次の朝、お嬢様、真っ青なお顔をなさっていました。首飾りがなくなったと騒ぎになったときも、何か言いたそうにして、でも何もおっしゃらなかった。私、ずっと気になっていて」


息が、止まった。


柱の陰に、二十も重なっていた蝋の粒。


あれは、隠れていた跡じゃなかった。祈っていた跡だったのだ。


乾いた祭壇布を戻して、いつものように、蝋燭を手に、長いあいだ。


そこへ、誰かが入ってきた。


あの子は蝋燭を吹き消して、暗がりで息をひそめたのだ。


*


ロザリーが帰ったあと、私はルシアン様の部屋の扉を叩いた。


ルシアン様は、ロザリーが届けた書状を机に放り出していた。


「伯爵夫人からだ。明日の夕方、近衛がロザリーを引き取りに来る。もう手はずは整えてある、だそうだ」


「……ロザリーさんは、それを知って書状を運んできたんですね」


「中身は知らんだろう。封がしてあった」


自分を突き出す知らせを、自分の手で運ばされていたのだ。


私は、両手をきつく握り合わせた。


「明日、伯爵家の洗い場で働かせてください」


ルシアン様は、書類から顔を上げた。


「理由は」


「祭壇布です。音楽会の夜にお嬢様が戻した祭壇布は、今も礼拝堂の祭壇にかかっているはずです。洗い場の者として祭壇布を取り替えに行けば、伯爵の許しがなくても、祭壇に触れます。それから」


私は、一度言葉を切った。


「あの夜、柱の陰にいた人に、話を聞けます」


ルシアン様は、しばらく私の顔を見ていた。


「伯爵には、俺から話を通す。監察局の調べで、屋敷の洗い物を一日見せてもらう。夫人ではなく、伯爵にだ」


「ありがとうございます」


「期限は明日の夕方だ。それを忘れるな」


扉を閉めかけたとき、ルシアン様が付け加えた。


「それと。その顔のまま、屋敷へ行くなよ」


私は、自分の顔に手を当てた。


指先が、濡れていた。


いつから泣いていたのか、自分でも分からなかった。


*


その夜、店じまい間際の薬種屋に駆けこんだ。


棚の奥に、小さな陶器の壺が並んでいた。蜜蝋に油を混ぜて練った、あかぎれの軟膏だ。


灯火の家では、こんなものは買えなかった。


だから冬になると、私は礼拝堂の燃えさしの蜜蝋をこっそりもらってきて、鍋で溶かして、指でマルタの手に塗ってやった。


マルタはくすぐったがって、いつも笑った。


──ねえさんの手のほうが、ひどいのに。


──私はいいの。マルタの手は、洗い物がいちばん上手な手だから。


門を出ていく朝も、マルタはひび割れた手で私の手を握って、言った。


──ねえさん。冬になったら、また塗ってね。


──うん。約束。


あの子のいない冬が、三回過ぎた。


小さな壺をひとつ買って、前掛けのポケットに入れた。


トビーのハンカチと、名簿の紙の隣に。


*


まだ空が白みはじめたばかりの朝、私は伯爵家の裏口をくぐった。


洗い場へ向かう途中、東の庭の奥に、ぽつんと灯りが見えた。


礼拝堂の扉が、内側から静かに開くところだった。手燭を持った人影が出てきて、あたりを見回してから、そっと扉を閉める。


白髪をきっちりと撫でつけた頭。


家令のバルトルトさんだった。


朝のお祈りには、まだずいぶん早い。家令は手燭を吹き消すと、赤土の小道を足早に屋敷のほうへ戻っていった。


私は植えこみの陰で、その背中が見えなくなるまで動けなかった。


洗い場は、屋敷の北側の、日の当たらない石の小屋だった。


戸を開けると、湯気の向こうに、小さな背中があった。


灰色のドレスの袖をまくり上げて、たらいの前にしゃがみこんでいる。白いレースを、灰汁の水の中で、ひと目ずつ、丁寧に押し洗いしていた。


夜のうちに、終わらなかったのだ。


手袋は、はめていなかった。


指という指が、赤く腫れていた。関節のしわは、全部ひび割れて、ところどころ血が滲んでいる。それでも、その手は、レースのいちばん細い目を一度も引っかけずに洗っていた。


洗い物が、いちばん上手な手だった。


娘が、戸口の気配に顔を上げた。


私を見て、目を見開いて、それから慌てて両手を背中に隠した。


あの頃と、同じ仕草で。


「……見ないでください」


私は黙って娘の前にしゃがんだ。前掛けのポケットから、小さな陶器の壺を出して、蓋を開ける。


蜂蜜の匂いが、ふわりと広がった。


「冬になったら、また塗ってあげるって、約束したでしょう」


娘の唇が、震えた。


「マルタ」


ルシアン・ヴェール。王宮監察官。三晩帰らなくても平気だが、人の涙には弱い。

次回、襟の星。

見つけた弟妹 1/14


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