第4話 蝋の色
二日目の朝、私はグレタさんの火のしを炭にのせた。
作業台には、水色の夜会服。その横に、吸い取り紙を一枚。
「何をする気だ」
ルシアン様が、湯気の立つ茶を片手に覗きこんできた。今朝はちゃんと家から来たらしい。袖に皺がない。
「蝋を取ります」
固まった蝋を爪で削ると、布の目まで傷む。だから、こうする。
裾の黄色い粒の上に吸い取り紙を当てて、温まった火のしを、そっと押しつける。
じゅ、と小さな音がした。
火のしを離して紙をめくると、蝋は布からきれいに消えて、紙のほうに移っていた。黄色い丸い染みが、点々と並んでいる。
部屋に、ふわりと甘い匂いが広がった。
「蜂蜜の匂いがするでしょう。蜜蝋です」
「昨日も、蜂蜜の匂いがすると言っていたな。だが、蝋燭は蝋燭だろう」
「違います」
私は紙を光にかざした。
「お屋敷で毎晩灯すのは、たいてい獣脂の蝋燭です。安いけれど、煤が出て、溶けると脂の臭いがする。垂れた跡は白くて、べたっと広がります。蜜蝋は高いので、普段使いにはしません。煤が出なくて匂いがいいから、使うのは礼拝堂と、王宮の大広間くらい」
グレタさんに教わったことだ。お屋敷から届く服の蝋の染みは、ほとんどが白い獣脂。黄色い蜜蝋の染みがついてくるのは、礼拝堂でお祈りや行事があった日の服だけだった。
「このドレスを着ていた人は、音楽会の夜、礼拝堂の蝋燭を持っていた」
「部屋で蜜蝋を灯す贅沢な令嬢かもしれん」
「それなら、垂れ方が違います」
私は、吸い取り紙の染みを指でたどった。
「小さな粒が、同じところに二十も重なっています。歩きながら垂れたなら、裾に沿って散らばる。これは、蝋燭を手に持ったまま、長いあいだ、じっと立っていた跡です」
ルシアン様が、黙って紙を見下ろした。
「暗い礼拝堂で、蝋燭を持って、動かずに立っていた」
「はい」
「……何を待っていたんだ」
それは、まだ分からなかった。
*
伯爵家へ向かう馬車の中で、私は膝の上で手を握っていた。
昨日もらった、屋敷の者の名前を書いた紙。それを、もう何度読み返したか分からない。
『令嬢エレオノーラ 十五歳。十二歳まで領地で療養。三年前より王都の屋敷に』
何度読んでも、字は変わらなかった。
「リネット」
向かいの席で、ルシアン様が窓の外を見たまま言った。
「その紙、さっきから一度も裏返していないな。表の同じところばかり見ている」
「……すみません」
「謝ることじゃない」
馬車が石畳を跳ねた。ルシアン様は、まだ窓の外を見ていた。
「理由は聞かない。ただ、屋敷の中で顔に出すな。伯爵夫人は、人の顔色をよく見る女だ」
「はい」
私は紙を畳んで、前掛けのポケットにしまった。
トビーのハンカチの隣に。
*
ブランシュ伯爵家の屋敷は、王都の西の丘の上にあった。
白い石の門。手入れの行き届いた庭。どこを見ても、お金の匂いがする。
客間に通されると、伯爵夫人が待っていた。四十を少し過ぎたくらいの、背の高い人だ。首元に、細い鎖が光っている。鍵を下げていた鎖だろう。今は、その先に何もない。
「監察局の方が、洗濯女を連れて何のご用かしら」
夫人の目が、私の前掛けの上を、汚れを見るように滑った。
「首飾りを探しに来ました」
ルシアン様は、表情ひとつ変えずに答えた。
「音楽会の夜のことを、もう一度伺いたい」
「何度でも申しますわ。私は着替えのとき、鍵を鏡台に置きました。ほんの少しのあいだです。朝になったら箱は空で、鍵はロザリーの前掛けから出てきた。それで全部です」
部屋の隅で、若い侍女が小さく肩を震わせていた。ロザリーだ。目の下が、泣き腫らして赤い。
「明日の夕方までに首飾りが出なければ、近衛に引き渡します。私は待つのが嫌いなの」
夫人はそう言って、扇を閉じた。
夫人が客間を出ていくと、ロザリーが、おずおずと私のそばに寄ってきた。
「あの……洗濯係の方、ですよね。私のお仕着せも、見てくださったんですか」
「はい。前掛けのポケットの縫い目が、少しほつれていました」
ロザリーの顔から、さっと血の気が引いた。
「やっぱり、そこから鍵が」
「いいえ」
私は首を振った。
「ほつれていたのは、縫い目の外側です。ポケットの口が、外から無理に広げられた跡。自分のポケットに自分で物を入れる人は、そんなふうに引っぱりません。鍵を入れた人は、急いでいて、手探りだったんだと思います」
ロザリーの目に、みるみる涙が溜まった。
「……信じて、くださるんですか」
「汚れと、ほつれを信じています」
ロザリーは前掛けで目を押さえた。それから、声をひそめた。
「誰も信じてくれなかったんです。旦那様も、奥様も。お嬢様だけが」
「お嬢様?」
「エレオノーラ様です。奥様に『ロザリーは盗むような子じゃありません』って、たった一度だけ。そうしたら奥様に、口答えをするなって、ひどく叱られて。それきり、お部屋から出していただけないんです」
ロザリーは、ぎゅっと唇を噛んだ。
「あの方、本当はお優しいのに。この家では、誰もそれを知らないんです」
*
礼拝堂へは、家令のバルトルトさんが案内してくれた。
白髪をきっちりと撫でつけた、物腰の柔らかい人だった。歩くたびに、靴がきゅっと鳴る。磨きたての革の音だ。
「東の庭の奥でございます。足元が悪うございますので、お気をつけて」
庭の小道は、赤茶色の土だった。
昨日、水色の裾にこびりついていたのと、同じ色。
礼拝堂は、小さな石造りの建物だった。扉を開けると、冷たい空気と、蜂蜜の匂いが流れ出てきた。祭壇の前に、太い蜜蝋の蝋燭が何本も立っている。
「蝋燭は、毎朝取り替えるのですか」
私が尋ねると、家令は穏やかに頷いた。
「はい。奥様のお言いつけで、毎朝新しいものを」
「音楽会の夜も?」
「ええ。夜は灯しておりませんでしたが」
「音楽会の翌朝、下げた蝋燭の中に、一本だけ短くなっていたものはありませんでしたか」
家令の返事は、ほんの少しだけ遅れた。
「……さあ。燃えさしは、すぐに処分してしまいますので。覚えておりません」
穏やかな声だった。靴は、今朝も鏡のように磨かれていた。
私は祭壇から離れて、壁際を歩いた。
石の床は、きれいに掃かれていた。けれど、掃き掃除では、蝋は取れない。
入り口から一番遠い柱の陰に、それはあった。
床に、黄色い粒が、点々と固まっている。数えると、二十を超えた。
私は膝をついて、粒の並びを見た。
ひとところに、重なるように落ちている。誰かがここで、蝋燭を手に、長いあいだ立っていたのだ。
柱の陰からは、祭壇がよく見えた。
そして、祭壇の側からは、この柱の陰はほとんど見えない。
「ルシアン様」
私は小声で呼んだ。
「ここに立っていた人は、隠れていたんだと思います」
「隠れて、何をしていた」
「祭壇のほうを、見ていた」
振り返ると、家令がこちらを見ていた。
穏やかな顔のまま。けれど、ほんの少しだけ、祭壇の前に立つ位置を変えたように見えた。まるで、私たちの目から、何かを隠すみたいに。
気のせいかもしれない。
でも、汚れは気のせいでは残らない。
あの夜、水色のドレスの誰かが、この柱の陰に隠れて、祭壇のほうを見ていた。それだけは、確かだった。
赤土の小道を屋敷へ戻りながら、ルシアン様が低い声で言った。
「祭壇を調べたいか」
「はい」
「礼拝堂は伯爵家のものだ。祭壇を動かすには、伯爵の許しが要る。証拠がなければ、許しは出ない」
ルシアン様は、前を歩く家令の背中を見ていた。
「期限は明日の夕方だ。それまでに、祭壇を開けさせるだけの汚れを見つけろ」
「見つけます」
答えてから、気づいた。
汚れを見つけるには、あの夜、柱の陰に立っていた人に、話を聞かなければならない。
*
屋敷に戻ると、伯爵夫人が客を見送るために廊下まで出てきていた。
その廊下の向こうから、一人の娘が歩いてきた。
小柄な娘だった。淡い色の髪をきっちりと結い上げて、地味な灰色のドレスを着ている。部屋の中なのに、白い手袋をはめていた。
伯爵夫人が、娘を見るなり眉をひそめた。
「エレオノーラ。お客様の前に出てくるなと言ったでしょう。下がっていなさい」
家の娘にかける声ではなかった。女中を叱るときの声だった。
娘は黙って、壁際に寄った。目を伏せたまま、深く膝を折る。
その仕草を見たとき、胸の奥で、何かがきしんだ。
「失礼、お嬢様」
ルシアン様が、足を止めた。
「音楽会の夜、礼拝堂へ行かれましたか」
娘が、ほんの一瞬、息を止めた。
「……いいえ。音楽会が終わってすぐ、部屋で休みました」
小さな、かすれた声だった。
そう言いながら、娘は手袋の指で、左の耳たぶにそっと触れた。
私は、息ができなくなった。
灯火の家に、嘘が下手な子がいた。
皿を割ったときも、つまみ食いをしたときも、自分のせいじゃないと言い張るときは、決まって左の耳たぶを触った。私が笑って指さすと、真っ赤になって、手を背中に隠した。
洗い物がいちばん上手だった子。
冬はいつも、指があかぎれだらけだった子。
目の前の娘は、もう一度、膝を折った。
手袋の指先が、かすかに震えていた。
ロザリー。伯爵夫人付きの侍女。泣き虫だけど、恩は忘れない。
次回、あかぎれの令嬢。
見つけた弟妹 1/14




