【地上編】第一話 その7:欠落する記録と不気味な打鍵音
雨上がりのアスファルトから立ち昇る、咽せ返るような湿気と焦げた匂い。その淀んだ空気の中、路地裏に力なく倒れ伏すネイビーのレインコートの男――乾 渇也の襟首を、響 駿影は感情を排した動作で、容赦なく掴み上げた。
「……さて、目を覚ましてもらおうか。君たちの教団が何を企んでいるのか、じっくりと聞かせてもらいますよ」
駿影の冷徹な声が、薄暗い路地裏に低く響く。至近距離での爆発の衝撃に、身体をだらりと預けて意識を失っていた乾が、ひび割れた唇からうめき声を漏らした。
ゆっくりと瞼が開かれるが、その瞳には先ほどまでの狂信的な光はなく、ただ敗北への屈辱と、自らの異能を上回る圧倒的な「植物的なるもの」への恐怖が混濁していた。
「……くっ、そが……霧を……ドライ、ミスト……を……」
「無駄な抵抗はやめなさい。その怪我で能力を使うのは、自殺行為だと理解できないほど愚かではないでしょう?」
駿影が淡々と事実を突きつける。乾の能力『渇水の霧』は、彼自身の肌から分泌される水分を瞬時に異能の霧へと変換するものだ。
だが、先ほどのブタンガス爆発によって、彼の皮膚は広範囲にわたって焼かれ、生命を維持する限界まで乾燥しきっていた。
霧の材料となる「自らの潤い」を物理的に失った今の彼にとって、世界を乾かす異能を振るうことなど、枯れ木から水を絞り出す以上に不可能なことだった。
駿影がコートの奥からタクティカル・スティックを引き抜き、乾の喉元に冷たい金属の感触を突きつける。本格的な尋問を開始しようとした、その時だった。
ふわり、と。
重く湿った夜の空気の中を、一枚の真っ白な紙が、まるで場違いな初雪のように舞い落ちてきた。
「……? 空から、紙だと?」
駿影が怪訝に目を細め、上空を仰ぐ。だが、ビルの隙間に見える夜空には人影も気配もない。紙は重力に従い、意識を朦朧とさせている乾の鼻先を、スローモーションのような速度で横切っていった。
乾の焦点の合わない瞳が、吸い寄せられるようにその紙を追う。そこには、白神救世教の禍々しいロゴと共に、機械的で冷酷な活字がこう刻まれていた。
『忘却こそが、汝を真の日常へ還す慈悲なり』
その不気味な一文を視認し、乾の脳がその意味を「理解」してしまった、その刹那――。
――カタカタカタ……ピーン!
「あ……が……あ、あ、あああああ…………!」
乾の身体が、高電圧の電流を流されたかのように激しく硬直した。喉の奥から、人間が出せるはずのない軋んだ音が漏れる。
次の瞬間、乾の目、鼻、そして大きく見開かれた口から、墨汁のような、粘り気のある真っ黒なインクが溢れ出した。それは意志を持つ生き物のように蠢きながら、地面に落ちた白い紙へと吸い込まれていく。
――カタカタカタ……ピーン!
どこか別の次元から響いてくるような、時代遅れのタイプライターが打鍵される不気味な音が、乾の、そしてその場にいた駿影の鼓膜をも震わせた。
「うわあああああああーっ!」
乾が魂を削り出すような絶叫を上げた後、その瞳からハイライトが急速に溶け落ちていった。残されたのは、底知れない「空虚」だけだ。
「おい、どうした! 返答しろ!」
駿影が胸ぐらを激しく揺さぶるが、返事はない。
つい先ほどまで「潤い」に異常な執着を見せ、剥き出しの殺意を漲らせていた男は、今や自分の名前すら、呼吸の仕らすら忘却した抜け殻――「廃人」のような状態で、ただ一点を見つめ続けるだけの生ける人形へと成り果てていた。
「……始末されたか。どうやら記憶と人格を『情報』として、強制的に抜き取られたようですね」
駿影は、乾の黒いインクで埋め尽くされ、真っ黒に染まった紙を見つめ、忌々しげに吐き捨てた。これこそが、加古川みえが過去視で捉えた、あの不気味な「記録員」の牙。駿影の鋭い本能が、この教団の底知れない闇の深さに警鐘を鳴らし続けていた。
◇◇◇
駿影は一旦、加古川探偵事務所へと戻った。安全装置のスリーブモードに伴い、意識を取り戻した七篠 如人は、事務所で不安げに待機していた加古川みえと播磨 舞衣に、路地裏で起きた異変を詳細に報告した。
「……そうですか。あの方は、もう『現像』不能なほどに真っ白にされてしまいましたのね」
みえは、いつもの芝居がかったトーンを封じ、珍しく神妙な面持ちでソファに深く腰掛けていた。彼女の異能『過去視』は、乾がいた場所から、全ての過去の色彩が奪い取られ、無味乾燥な「文字列」として消費されてしまった凄惨な光景の残滓を捉えていた。
「なおと君……本当に行くの? 今の人の仲間がいる危険な場所なんでしょ?」
舞衣が、如人の上着の裾を、今にも泣き出しそうな震える手で掴む。
乾に襲撃された事で舞衣の脳裏には、かつて社いぶきから「最初の供物」と宣告された時の、蛇に睨まれた蛙のような絶望的な恐怖が思い起こされてしまったのだ。
「うん、舞衣さん。行かなきゃいけないんです。みんなとの大切な『記憶』が、あの場所でまだ汚され続けている気がする。それに……」
如人の声には、以前のような優柔不断さはなかった。「安全装置」の起動による影響か、あるいは記憶を奪われたことへの根源的な拒絶か。彼の瞳には、これまでのポンコツな少年らしからぬ、岩のように動じない「意志」が宿っていた。
「急がないと、僕もさっきの人みたいに、自分が誰かも分からなくなっちゃうかもしれないから」
如人の決意は、もはや誰にも揺るがせなかった。奪われた過去を取り戻すことは、彼にとって自らの魂を取り戻すことと同義だった。
「如人さん、これを忘れず持って行ってくださいですわ」
みえは立ち上がると、再びあの使い捨てカメラを如人のリュックのサイドポケットへと、祈りを込めるように押し込んだ。
「カメラ……これで何かを撮る必要があるんですか?」
「いいえ。『撮る』ためではありませんの。わたくしの直感が告げています……このカメラの中に収められた貴方の記憶は、きっと失われゆく『絆のバックアップ』になりますわ!」
みえの言葉の真意を、今の如人は正確に測りかねていた。しかし、彼女の支離滅裂なようでいて芯を喰った直感が、何度も自分たちの危機を救ってきたことを彼は知っている。
如人は黙って頷き、リュックを背負い直した。
「舞衣さん、主のことを頼みます。この事務所の位置は既に教団に把握されています。我々が戻るまで、何があっても扉は開けないように」
駿影がタクティカル・スティックの感触を確かめながら、舞衣に厳命する。本来ならば二人をより安全な拠点へ移動させるべきだが、如人の記憶が完全に「タイプアウト」されるまでの猶予はもう残されていない可能性が高い。
これは、時間との戦いでもあるのだ。
「オッケー! お姉さんの完璧な留守番テクニックにお任せあれー! みえちゃんのことは私が守るから!」
舞衣は努めて明るく振る舞い、二人を送り出そうとする。駿影は如人に短く合図を送り、事務所を後にした。
「……行きましょう、如人君。君の人生という名の原稿が、完全に『打ち出されて』この世から消えてしまう前に」
◇◇◇
夜の帳が重く降りた、市街地北側の寂れた工業区画。かつては活気に溢れていたであろうその一角で、一棟の古びた建物が、死に絶えた巨大な生物の亡骸のように佇んでいた。
「綴目活版印刷所」
街灯に照らされた看板は赤黒く錆びつき、周囲の大気には不自然なほど濃密な「インクの匂い」が充満している。鼻を突くその臭気は、どこか血の匂いにも似て、如人の本能的な拒絶反応を呼び起こした。
如人と駿影が、工場の重い鉄扉の前に立つ。外の世界の喧騒から完全に切り離されたその閉鎖空間から、規則正しく、しかし執拗なまでの「音」が漏れ聞こえてきた。
――カタカタカタ……。
――カタカタカタ、カタカタカタ……!
それは、誰かの人生を奪い、無機質な原稿へと書き換える死のカウントダウンのようだった。
――ピーン!
行戻しの鈴の音が乾いた室内に響くたび、如人のこめかみに、鋭い錐で刺されたような痛みが走る。
今、この瞬間にも。彼自身の失われた記憶、舞衣やみえ、そしてまだ思い出せない「誰か」との大切な日々が、この建物の奥深くに潜む冷徹な「記録員」によって、ただの「文字列」へと変換され、消費されているのだ。
「……如人君、一気に踏み込みますよ。躊躇は、さらなる『忘却』を招くだけだ」
「……分かってます。僕は絶対に取り戻します。僕が、僕であるための、大切な約束を!」
駿影が扉に手をかけ、一気に押し開く。
記憶という名の、かけがえのない財産を奪い合う、絶望と希望の情報の戦場。その幕が、今まさに静かに、しかし鮮烈に落とされた。
その7 終わり
【地上編】第一話 了




