【儀式編】第一話 その1:開戦! 孤島の密林と高まる熱量
視界を焼き尽くすような、暴力的なまでの純白の光。それがようやく、まぶたの裏から引いていくのを上沢 緋女は感じ取っていた。
光の残滓が消え去ると同時に、肺に流れ込んでくる空気の質が劇的に変化したことに気づく。
先ほどまで県立高校の裏庭を満たしていた、湿り気を帯びた日本の夏の熱気ではない。鼻を突くのは、微かな硫黄の臭いと、それを強引に塗りつぶそうとする無機質な消毒液のような――あるいは、乾いたペンキをぶちまけたような人工的な芳香だった。
緋女は重い鉄の扉を開けるような慎重さで、ゆっくりと目を開けた。
「……何だ、ここは。冗談だろ」
視界に飛び込んできたのは、狂気的なまでに「白」に侵食された森だった。
鬱蒼と茂る木々の幹は漂白されたかのように白く、枝に宿る葉さえもが不自然な色彩を失っている。
まるで、開発途中の3Dゲームでテクスチャーを貼り忘れたまま放置されたオブジェクトの群れに放り込まれたかのような、あるいは出来損ないの仮想現実に迷い込んだかのような、薄気味悪い景色がどこまでも続いていた。
周囲に仲間たちの姿はない。お節介な七篠も、チビ女も、重永や生徒会長の西宮もだ。
緋女は独り、白い沈黙の森の中にポツンと立っていた。
「やっぱり分断されたか。……チッ、甘くねえな」
緋女は独り言ちながら、自身の身体の状態を一つずつ確かめていく。
スラリと伸びた長い手足。格闘術を極めるために日々鍛え抜かれた四肢は、重いバックパックを背負った状態でも思った通りに動き、違和感はない。
迷彩柄のアウトドアウェアは、裏社会の調達屋「蝶野」から手に入れた防刃・耐熱仕様の特注品だ。激しい戦闘で視界を遮らぬよう、赤茶色の長い髪は首の後ろで一つに束ねてある。
キュッ、と地面を踏みしめる。足元を守るのは、蹴り技の威力を倍加させ、火山島特有の険しい足場を選ばない強固な安全靴だ。彼女のモデル体型には似合わぬほど巨大なバックパックには、一週間分の地獄を生き抜くための生存物資が詰め込まれている。
「さてと……まずは誰かと連絡がとれるか、だな」
ズボンのポケットから携帯電話を取り出す。液晶画面を睨みつけるが、アンテナのアイコンは無情にも「圏外」を示していた。
想定内だ。次に、バックパックのストラップに固定した小型のトランシーバーのスイッチを入れる。
「おい、誰か聞いてるか? 重永、七篠! 応答しろ!」
『……ザ……ザザッ……ザー…………』
返ってくるのは、鼓膜を逆撫でするような砂嵐のノイズだけだった。
使用している小型トランシーバーの通信範囲はおよそ五百メートル程度。つまり、半径五百メートル以内に仲間は誰もいない。あるいは、この島の「白」が電波さえも遮断しているのか。
だが、緋女は自身の経験から、さらに別の可能性を考慮していた。
(ここは本当に、地図に載っているような現実の島なのか……? あの『ダルマさんが転んだ』の時と同じように、精神だけが能力で作られた異空間に引きずり込まれたんじゃあないのか?)
検証のため、緋女は自らの内側に宿る根源的な力を呼び起こした。
能力、『発熱』。
以前は接触したものの温度を上げるだけの単純な力だったが、社いぶきという「白い怪物」への復讐を誓い、死線を潜り抜けてきた彼女の能力は、既に一段階上のステージへと進化を始めていた。
そっと目を閉じ、意識を熱の波長へと変換して周囲に潜む生命の鼓動を探る。
もしここが七篠の時に経験したような「精神だけの世界」なら、能力は不自然なまでに強化されているはずだ。だが、どれだけ意識の触手を伸ばしても、熱感知の範囲が劇的に広がっている様子はない。伝わってくる「熱」の手応えは、あくまでも現実の延長線上にあった。
「ふう……どうやら、身体ごと物理的に飛ばされたって見て間違いねえな」
軽く息を吐き、静かに目を開けた瞬間。
右前方の、不自然に白い茂みが、ガサリと音を立てて激しく揺れた。
熱感知。複数の反応。それも、森を駆ける小動物の類ではない。自分と同じ、どす黒い執着と欲望を持った「人間」の熱だ。
茂みをかき分けて姿を現したのは、二人の男だった。
一人は、重厚な筋肉の鎧を纏った、岩のようなガタイの中年男。
もう一人は、竹串のようにヒョロッとした、どこか病的な印象を与える細身の男。
二人は身体に付いた汚れを払いながら、上沢の姿を認めると、互いに顔を見合わせて下卑た笑みを浮かべる。
「おっとぉ……これはこれは、中々の『上物』じゃあねえか」
「確かに、悪くないッスなあ。……まあ、もう少し胸にボリュームがあったら最高だったッスが」
男たちの視線が、上沢のスレンダーな肢体、そして彼女自身が密かに気にしている「なだらかな胸元」を、値踏みするようにねめ回す。
上沢の眉間に、ピキリと鋭い青筋が浮かんだ。
「……何を見てやがる、ゴミ共。まさか『さーてと、お嬢ちゃん、どうするよ?』 とか何とかテンプレ通りのセリフを抜かすつもりじゃないだろうな?」
先手を打たれたガタイの良い中年が、一瞬だけ顔を引き攣らせたが、すぐに下卑た表情を深めた。
「ケッケッケ、威勢がいいねえ……とっとと降参しちまうか、それとも俺らに蹂躙されてから消えるか。好きな方を選ばせてやるぜ?」
「だったら最初からそう言え。……まあ、アタシはどっちも選ばねえがな」
細身の男が、不快な高笑いを上げた。
「ふうーやれやれ、口の利き方がなってないッスなあ。お嬢ちゃん、アンタ今の状況が理解できてるッスかあ? ここは神様に選ばれた特別な奴らだけが生き残れる場所なんスよお」
「状況はともかく、お前らがいきなりアタシに喧嘩を売ってきてるってことは、よーく理解できた」
緋女が言い放った瞬間、場の空気が凍りつくような殺気に塗りつぶされた。
男たちの目が、獲物を追い詰めた肉食獣のそれへと変わる。
「綺麗な顔を不細工な面にされたくなきゃ、命乞いは早めにしろよ?」
「まあその場合、敗北を一生身体に刻みつけるために、たっぷりと『わからせて』やるッスけどねぇ……ヒャーッハッハッハ!」
男たちが左右に分かれ、挟み込むように動き出す。
緋女は不敵に、そして狂気すら孕んだ美しい笑みを浮かべた。
「ハハッ、上等だ。……下衆な挑発のおかげで、ようやく熱くなってきたぜ!!」
一瞬にして、彼女の意識が、肉体が、完全な戦闘モードへと移行する。
バックパックの重みを忘れさせるほどの闘志が、全身の血管を駆け巡り、心臓を爆発的な速さで叩き始めた。
男たちの足取りは、決して素人のそれではない。重心を低く保ち、白い砂を蹴る音を最小限に抑えながら、連携して緋女の死角を突こうとするその動きには、実戦慣れした殺し屋特有の濁った規律がある。
特に、竹串のような細身の男だ。彼は右手をだらりと下げ、指先を不自然な角度で痙攣させている。まるで、目に見えない糸を操っているかのような、あるいは鍵盤を叩いているかのような不気味なリズム。
「おい、その手……何か仕込んでやがるな?」
緋女の問いに、細身の男は顔を歪ませ、引き攣った笑みをさらに深めた。
「ヒャハッ、お嬢ちゃんは目ざといッスなあ! でも、気づいた時にはもう遅いッスよ」
彼らがこの島に連れてこられた理由。それは、教祖・社いぶきが主催する狂った儀式に参加するためだけではない。この「白い地獄」において、己の欲望を物理的な力へと変換した『能力者』として選別されたからに他ならない。
緋女は右足の安全靴をわずかに引き、大地との接地感を確認する。
一七五センチメートルの身長は、リーチにおいて圧倒的なアドバンテージを誇る。しかし、二対一という数的不利に加え、この異常な「白」の環境だ。奥行きが掴みにくい。木々の感覚が均一すぎて、距離感が麻痺しそうになる。
「さあて、どうやって泣かせてやろうか」
中年男が丸太のような腕をボキボキと鳴らし、圧力を強めてくる。
彼の熱源は、通常の人間よりも明らかに肥大していた。特に、その前腕部に集中する異常なほどの『エネルギーの凝縮』。おそらく、彼もまた能力の一端を既に解放している。
緋女の体温が、じりじりと上昇していく。
血管を流れる血液が熱を帯び、筋肉をより柔軟に、より爆発的に稼働させるための準備を整えていく。
白い葉の間を抜ける風が、ピタリと止まった。
無機質な森の香りが、緋女の放つ凄まじい闘気によって一瞬で蒸発し、焼け付くような熱気がその場を支配する。
緋女は、右手の掌をゆっくりと広げた。
その中心部から、目に見えないほど微細な火花が散る。
緋女の黄金色の瞳が、獲物を定めた猛禽類のように鋭く細まった。
一ミリも動かない。だが、彼女の周囲の空気は、既に沸騰していた。
中年男が地面を蹴り、その巨体を弾丸のように加速させる。
細身の男が指を激しく動かし、目に見えない波動を解き放つ。
そして。
上沢緋女の『烈火』が、ついにその牙を剥いた。
「ハッ――!!」
彼女の全身から、爆発的な熱波が噴き上がる。
それは単なる温度上昇ではない。彼女の復讐心、仲間のための怒り、そしてこの狂った島に対する強烈な拒絶が結実した、魂の叫びそのものだった。
白い森を赤く染め上げるような、緋色の残光。
自分が選んだこの道は、もはや後戻りできない破滅への入り口かもしれない。
それでも、彼女の心臓は喜びに震えていた。
戦える。
この灼熱の衝動がある限り、自分はまだ「人間」として、あの怪物に挑む資格があるのだと。
絶海の孤島、白神救世教の箱庭。
その中心へと突き進むための、最初の一歩。
緋女の脳裏をよぎるのは、この島へ連れ去られる直前の記憶だ。
仲間たちの顔を思い浮かべるたびに、彼女の体温は一段、また一段と跳ね上がる。
それは、彼女の能力を暴走させうる危うい熱さだが、同時に彼女を正気に留める唯一の錨でもあった。
目の前のゴミ共を排除する。
その程度のことに、躊躇などない。
緋女は、自身の長い髪を揺らす熱い風を感じながら、ニヤリと笑った。
その笑みは、救世主を待つ乙女のそれではなく。
全てを焼き尽くす、破壊の女神のそれであった。
白い森に、最初の衝撃音が響き渡る。
具体的な決まり事を何も知らされぬまま悪辣な儀式は幕を開け、ここに上沢緋女の戦いの火蓋は切られたのである。
その1 終わり




