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【儀式編】第一話 その2:初戦! 沸騰する体温と敗者の結晶

 上沢(うえさわ) 緋女(ひめ)は、足元に置いていた重厚なタクティカル・バックパックを、迷いのない動作で後ろへと蹴り飛ばした。


 一七五センチメートルのしなやかな肢体が、十数キロの重荷から解放された瞬間、彼女を包む空気の密度が一段階薄くなったかのような錯覚を覚える。バネのようにしなる筋肉が、実戦の予感に歓喜して熱を帯び始めた。


「ふう……」


 短く息を吐き出す。視線の先には、下卑た笑みを浮かべてじりじりと間合いを詰めてくる二人の男。


 緋女は荷物を飛ばした方向とは正反対――獲物たちが待ち構える前方へと、爆発的な踏み込みを見せた。


 先に向かってきたのは、竹串のようにひょろっちい、不健康な顔色の細身男だ。


 男はいつの間にか、どこで拾い上げたのか、大人の腕ほどもある太い木の棒を手にしていた。それを両手で後方へと大きく引き絞り、野球のバットでも振るうかのような、凶悪なまでのフルスイングの予備動作を見せる。


「ヒャハッ! これでおしま……っ!」


 男が咆哮と共に、緋女の脳天を粉砕せんと木の棒を振り下ろす。


 だが、緋女はその直撃の寸前、まるで世界がスローモーションになったかのような静寂の中で、身体を独楽のように鋭く捩って回避した。


 耳元を掠める、重苦しい風切り音。回避の勢いを殺すことなく、彼女は回転の遠心力を拳の先端へと集約させた。狙いは男の側頭部。最短距離で意識を刈り取るための、神速の裏拳を放つ。


 しかし、緋女の拳に確かな手応えは返ってこなかった。


(……浅い!?)


 男の動作が、彼女の計算よりもわずかに早かった。いや、物理的な速度ではない。打ち込みの勢いに引きずられるようにして、男の頭部が狙った箇所よりも不自然に低い位置へと、吸い込まれるように沈んでいたのだ。


 裏拳は男の赤茶けた髪を激しく掠めるだけに留まり、空を切ったのである。


 一瞬の攻防が生んだ意識のズレ。緋女は喉の奥に、不気味な違和感を覚えた。


 だが、思考を深める時間は与えられない。視界の端で、もう一人のガタイの良い中年男が、地面を震わせるような重苦しい足音を立てて距離を詰めてくる。


 中年男は武器を持っていない。だが、その素手こそが凶器であると言わんばかりの、異常な殺気を全身から放っていた。


(こっちは武器なしか……だが、嫌な予感がするな。正面で受けるのは得策じゃあなさそうだ)


 長年の実戦経験から磨き上げられた野生の勘が、心臓を叩くように警鐘を鳴らす。


 緋女は中年男の突進を正面から迎え撃つ無謀を避け、傍らで体勢を崩しかけている細身男を「壁」として利用することに決めた。

 彼女は軸足を白い大地に深く突き刺し、細身男の脇腹に向けて、強固な安全靴の裏を思い切り押し込んだ。男の身体を中年男の方へと蹴り飛ばし、その勢いを利用して自らの体勢を安全圏へと立て直そうとしたのだ。


 しかし、そこで二度目の、そして決定的な違和感が緋女を襲う。


「――っ!? なんだ、この重さは……!」


 自分の体重よりも明らかに軽そうで、今にも吹き飛んでしまいそうな細身男を蹴り出したはずが、まるで地深く根を張った鉄塊を蹴ったかのような、絶望的な反動が返ってきたのだ。


 押し負けたのは、あろうことか緋女の方だった。本来なら男が吹き飛ぶはずの力が、そのまま反作用となって自分へと跳ね返り、彼女のバランスを無残に崩す。


「なにっ!」


 思わず叫びが漏れる。緋女は必死に地を這うようにして重心を戻そうとしたが、その時には既に、中年男が目前にまで迫っていた。

 男は完璧な打撃のフォームを完成させ、勝利を確信した醜い歪みを顔に刻んでいる。


「おらっ、痛いぞ! 女ぁぁっ!!」


 中年男の叫びが白い密林に響き渡った瞬間、目を疑うような光景が展開された。

 彼の右肘から先が、内部から爆発するかのような異音を伴い、瞬時に三倍ほどの大きさへと膨れ上がったのだ。

 元々丸太のように太かった前腕が、もはや人間のものではない、巨大な岩塊のような質量へと変貌を遂げる。


 それは、回避不能な至近距離から放たれた、あまりにも巨大なテレフォンパンチだった。

 普段の緋女であれば、欠伸が出るほど単調な一撃。しかし、不可解な「体重変化」によって足元を掬われ、体勢を崩した今の彼女に、その重戦車のような一撃を避ける術はない。


 ドォォォォンッ!!


 内臓が押し潰され、肋骨がきしむような衝撃が、緋女の腹部を突き抜けた。


 見た目以上の、圧倒的な圧力。緋女の身体が紙屑のように宙に浮き、後方へと吹き飛ばされる。

 緋女は受身を取ることもできず地面を数度バウンドし、白い土煙を上げながら背後の大樹に激突して、ようやくその勢いを止めた。


「ゲホッ、カハッ……」


 肺の中の空気が、衝撃によって強制的に吐き出される。赤茶色の長い髪が泥と枯れ葉に汚れ、視界の端が火花を散らすように明滅した。


「さてとお嬢ちゃん。降参するか、それともまだやるか、どっちだ?」


 中年男が、巨大化したままの右腕を誇示するように肩に乗せ、余裕の笑みを浮かべる。


「ケッケッケ、もう泣きたくなってきたんじゃねえっすかあ? ほらほら、命乞いしてみろッスよお。今なら優しく可愛がってやるッスよ?」


 細身男も、先ほど自分を蹴ろうとした緋女を嘲るように、棒を弄びながら近づいてくる。


 二人の下卑た嘲笑を浴びながら、緋女は俯いたまま、震える膝にじわりと力を込めた。

 一瞬、意識が途切れかけた。しかし、彼女の内に眠る『発熱』の奔流が、身体のダメージを無理やり熱で上書きしていく。

 彼女はゆっくりと、泥を払うようにして、一歩、一歩と大地を踏み締めて立ち上がった。


「……ハア。駄目だな。全然だ」


 ボソリと漏れた自嘲の言葉。それを「降伏のサイン」だと早合点した中年男が、鼻を鳴らしてせせら笑う。


「はははっ、今になって理解したか? 力の差ってやつをよ。だったら無駄な抵抗はやめて、大人しく――」

「違う、そうじゃない」


 緋女は顔を上げ、黄金色の瞳で二人を真っ直ぐに射抜いた。その瞳の奥には、恐怖ではなく、狂おしいほどの戦意が宿っている。


「決定的な隙を見せてやってるのに、追撃もしない。それどころか、余裕ぶって降伏勧告だと……? お前ら、戦いってものを舐めてんのか?」


「はぁあっ? なんて言ったぁ!?」

「お前、今の状況が分かってるッスかあ? 強がりも大概にするッスよ!」


 男たちは面食らい、激しい怒りをあらわにする。だが、緋女は冷徹に、そして確信を持って言葉を続けた。


「そっちの能力も、大体わかった。……おっさんは、身体の一部を巨大化させる能力。そして、そっちのひょろい方は……自分や対象の『体重』を増減させる能力。……だろ?」

「えっ?」

「なっ……! ウソっす……よねえ?」


 緋女が二人を交互に指差して断言すると、男たちの表情が劇的に凍りついた。隠していた手札を初戦で、しかも一合交えただけで見破られた驚愕が、彼らの顔を醜く歪ませる。


 そのわずかな空白の間に、緋女は完全に体勢を復元させていた。防刃・耐熱のアウトドアウェアに付いた土を払い、今しがた大打撃を受けたことなど嘘であったかのように、完璧なファイティングポーズを構える。


「やせ我慢に空元気たあ、根性あるじゃねえか。なあ、お嬢ちゃんよお!」

「やせ我慢? そんなことねえよ。久々の実戦で、ようやく身体が温まってきたところさ。……さあ、第二ラウンドだ」


 言い終えるが早いか、緋女は弾丸のごとき速度で中年男の懐へと潜り込んだ。

 先ほどまでとは別人のような、物理法則を無視した軽やかな動き。鈍重な巨大腕が振り下ろされる軌道を見切り、その腕の内側を滑り抜ける。


 一発、二発、三発!


 瞬きする間に放たれた三連撃が、中年男の顔面に正確に突き刺さる。脳を激しく揺らされた男の巨大な前腕は、狙いを大きく逸らし、そのまま無防備な地面へと激突した。


 ズドォォォォォンッ!!


 周囲の空気を震わせるような、凄まじい轟音。


 男の拳が直撃した箇所は、火薬でも爆発したかのようにひび割れ、白い土煙が視界を遮る。

 桁外れの破壊力だ。だが、緋女はその光景を見ても、まつ毛一つ動かさない。むしろ、彼女の推察を裏付ける結果に、冷ややかな笑みを深める。


 ひび割れた地面には、わずかではあるが、赤い染みが付着していた。そして、男の巨大化した拳の指先からも、皮膚が裂けたような擦り傷ができている。


(確信した。能力で外見や質量は変えられても、自分の放つ破壊力に、自身の強度が追いついていない。……お前のその『力』は、借り物のようにアンバランスなんだよ)


「ガァァァァッ! チョコマカとぉ!!」


 中年男がプライドを傷つけられ、理性を失った獣のように、両腕を振り回して暴れ狂う。丸太のような腕が風を切り、周囲の白い木々をなぎ倒していく。

 しかし、緋女は激しく吹き荒れる暴風の中を、柳の枝のように受け流して進む。体勢を低く保ち、最小限の動きで男の死角へと回り込む。

 鋭いジャブを顔面に叩き込むが、巨体の男はまだ止まらない。


「さっきから、痛くも痒くもねえんだよ! 女が男に力で敵うと思ってんじゃねえぞっ!」


 中年男が吠え、さらに右腕をもう一回り大きく肥大させた。必殺の一撃を放とうと、残った全エネルギーを込めて拳を振り上げた――その刹那。男の巨体が、糸の切れた人形のようにガクンと膝から崩れ落ちた。


「なっ……が、力が……入らな……」


 前のめりに倒れ込もうとする男。その無防備に晒された顎を、下から緋女の安全靴が、強烈なアッパーカットの軌道を描いて迎え撃った。


 ガッ!!


 鈍い衝撃音と共に男の頭が跳ね上がり、白目を剥いて巨体が地に伏した。


「なっ、ななっ、何をしやがったスかぁ!?」


 少し離れた場所で、勝負を確信していた細身男が、腰を抜かさんばかりに後退る。


 緋女は、完全に意識を失った中年男の頭を掴んでいた手を離した。ドサリという重苦しい音が響く中、彼女は無表情のまま、震える細身男へと視線を向けた。


「何をしたかって? カウンターで顎を打ち抜いて脳を揺らし、念のために顔面を蹴っといた。……まあ、アンタがアタシの体重を軽くしたせいで、こっちの攻撃も軽くなって、思ったほど威力は出なかったけどな」

「……はぁ、あ?」


 混乱の極致にあり、疑問符を浮かべるだけの男に、緋女はさらに追い打ちをかける。


「どうにも不可解、って顔をしてるな。……何が引っかかってる? アタシの体重を軽くしてるはずなのに、なんでおっさんが倒れたのかってことか? ……それとも、さっきから自分の体温が異常に上がってきて、呼吸すらままならないことか?」


 宣告された瞬間、細身男の顔色が土色に変わった。

 男は滝のような汗を流し、激しく喘いでいた。意識は急速に白濁し、立っているのが不思議なほどの惨状。


「だから……俺の身体に何を……熱い……なんで、こんなに……っ!」

「最初にアタシがアンタの頭を掠めたあの瞬間だ。……アタシの『発熱』の能力を、アンタの体内に直接流し込ませてもらった。アンタ、自分の体重を減らして回避しようとしてたんだろ? おかげで心拍数が跳ね上がって、熱が回るのも早かったみたいだな」


 緋女の冷徹な宣告が、男の脳に直接突き刺さる。


「あ、あつい……身体の中が、沸騰して……溶ける……ッ!」


 細身男は喉を掻きむしり、狂ったように叫びながら、その場に崩れ落ちた。瞳の焦点を失い、意識が消失したその肉体が、音を立てて地面へと突っ伏した。


 これで二人の敵は、完全に沈黙した。

 緋女がフゥと一つ長く溜息を吐き、身体の極度な緊張を解こうとした、その時だった。

 地面に倒れた二人の身体から、突如として、現実のものとは思えない淡い光が溢れ出したのである。


「っ……なんだ!?」


 緋女は咄嗟に後退り、身構えた。


 光は男たちの肉体の輪郭をなぞるように強まり、次第にその質量そのものを透き通らせていく。まるで水に溶けるインクのように、二人の姿が周囲の空間に霧散し始めたのだ。着ていた服も、手にしていた棒も、すべてが光の粒子となって白い森の空気へと溶け込んでいく。


 緋女は驚愕の表情で、その光景をただ見守るしかなかった。


 やがて輝きが収まったとき、そこにはもう、男たちの姿は微塵も残っていなかった。

 代わりに、静まり返った森の地面に、カラン……カラン、と硬い音が虚しく響いた。


「……石? いや、これは宝石か」


 緋女は腰を落とし、そのうちの一つを恐る恐る拾い上げた。掌に乗るサイズの、鈍い輝きを放つ『結晶』。


 それは不気味なほど冷たく、しかし石の深層からはトクン……トクン……と脈動のような微かな震えが伝わってくる。


(死んだわけじゃないのか? だが、肉体を失い、この石の中に閉じ込められた状態で、この島に留め置かれる事になったって所か)


 敗北の代償。それは人間としての尊厳を奪われ、文字通りの「資源」へと成り下がるということ。掌に伝わる小さな石の重みが、このバトルロイヤルの残酷さを、何よりも雄弁に物語っていた。


「さて、どうするかな。これを集めるのが、この島のルールか……?」


 緋女が立ち上がろうとした、その瞬間。


「あまりその石を無防備に晒さない方がいい。……それは、この島では何よりも価値のある『資源』そのものだからね」


 背後の木陰から、冷ややかで、しかし透き通るような美しい声が響いた。

 緋女は即座に音のした方へ、雷のような鋭い視線を向けた。


 そこには、水のように静かな瞳をした一人の少年が、音もなく立っていた。その少年の背後には、かつての緋女が知る「現実」とは決定的に異なる、さらなる混沌が口を開けて待っていたのである。


その2 終わり

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