【地上編】第一話 その6:逃走する悪意。双眼の狙撃手と爆ぜる種子
白い霧が視界を遮り、あらゆる有機物から水分を強引に引き剥がしていく。
加古川探偵事務所の室内を支配していたのは、もはや生存を許さぬ絶望的な「渇き」だった。
だが、その極限の乾燥の中で、一人の少年の存在だけが異質な静寂を纏っていた。
「――状況を確認。対象:可燃性ブタンガス。分解率、四〇%……上昇中」
七篠 如人の口から漏れたのは、先ほどまでの怯えを含んだ少年の声ではなかった。抑揚を完全に欠いた、無機質で機械的な響き。その瞳からは感情が消失し、代わりに情報の奔流を処理する冷徹な光が宿っている。
如人の肌は、もはや人間のそれではない。深緑色の硬く、多層的な質感――多肉植物、とりわけ過酷な砂漠で生き抜くサボテンのそれへと変質を遂げていた。
さらに、その指先からは細かな根が触手のように伸び、事務所の隅に置かれたパキラの鉢植えへと潜り込んでいる。枯れかけていたパキラを介し、如人の意識は事務所全体の「環境」へと直接接続されていた。
「如人君……? その顔、どうしちゃったのよ!?」
播磨 舞衣が、ハイライトの消えた如人の瞳を見て悲鳴を上げた。不自然に膨張した如人の右腕と、刺々しい皮膚の質感に、彼女は後退りする。
助手である響 駿影は、タクティカル・スティックを握り直しながら、その異様な光景に眉を潜めた。
(……何だ? 何が起こっている? これが彼の能力ということか。だが、今の彼の目は『生存』だけを見据えているように見える)
駿影には如人の身に何が起きたのか、その論理的な説明はつかなかった。しかし、如人が無機質な声で「ガス分解中」と報告し、周囲の極限的な乾燥に唯一適応している事実は否定しようのない現実としてそこにある。
如人が、感情のない動作で窓際に置かれた霧吹きに指を伸ばした。その意図を瞬時に汲み取った駿影が叫ぶ。
「主、理由は後です。……如人君の指差している霧吹きを! 舞衣さんはその水を全身に被ってください!」
「えっ、わ、わたくしが散水を!? せめて聖水か香水にしていただきたいですわ!」
「いいから早く! このままだと全員ミイラになるか、静電気で消し炭になるかの二択ですよ!」
駿影の怒号に、加古川みえは「承知しましたわ!」と震える手で葉水ボトルを掴んだ。
――シュッ、シュッ。
微細な水の粒が、乾燥しきった室内に霧散する。みえの必死の散水が、衣服の摩擦による静電気の発生を一時的に抑制し、爆発の「導火線」となる不吉な火花を湿らせた。
「舞衣さん、今です! 窓を開けて!」
「了解! お姉さんに任せてっ!」
舞衣は全身に水の膜を纏ったまま、忍者のような足運びで窓際へと滑り込んだ。彼女もまた、駿影の指示に従うことで、得体の知れない恐怖を必死に押し殺していた。
一方、如人の指先からは、土壌細菌を活性化させる酸素とメタノールが放たれていた。パキラの土壌を通じて、空気中に充満するブタンガスを直接分解し、エネルギーへと変換していく。
「浄化率八五%……九〇%。環境内のブタンガス濃度、爆発下限値を完全に下回りました。……換気風向の確保を推奨します」
如人の言葉に呼応するかのように、舞衣が全力で窓を押し開けた。重いサッシが悲鳴を上げ、外へと開かれる。
生ぬるい外気が一気に流れ込み、残留していたガスが夜の闇へと押し出されていく。死の檻だった事務所に、わずかながらの「生」の風が吹き抜けた。
「主、舞衣さん、部屋の隅へ。……如人君、いや、君が誰であれ今はそのまま湿度を維持してください」
駿影は、如人の「システム的な報告」を一種の戦闘トランス状態と見なし、そのリソースを最大限に活用することを決めた。彼は低い姿勢で構え、ピキピキと乾燥で収縮し続ける扉の向こうを睨みつける。
扉の隙間から、乾 渇也の忌々しげな声が響いた。
「……何をした。なぜ爆発しない。俺の『霧』の中で、なぜ貴様らはまだ潤っている……!」
「その質問に回答します」
如人の擬似人格が、無機質に扉の向こうの影へ告げた。その声には、怒りも憎しみも、勝利の確信すらも含まれていない。ただ事実のみを告げる音。
「多肉植物化による体内水分の完全保持、および土壌細菌による炭化水素の分解を完了。貴方の能力による静電気誘発プロセスは、現環境において九九%の確率で失敗します。……脅威対象、再評価を開始」
「失敗……だと……?」
扉の向こう側の殺気が、極限まで膨れ上がる。
駿影は如人の背中越しに、彼の指先から伸びた黒い棘が、ゆっくりと、しかし確実に扉のノブを内側から回そうとするのを見た。
(理屈は分かりませんが、反撃の準備は整ったようですね)
その時、「使い捨てカメラ」がカランと乾いた音を立てて舞衣の足元に転がった。
「播磨舞衣さん。その『重要情報』を死守してください。……これより排除フェーズに移行します」
「植物のシステム」と化した少年の無機質な宣言と共に、乾燥した檻の扉が、内側から爆発的な力で押し開かれた。
◇◇◇
事務所の扉を内側から引き剥がし、廊下へと躍り出た七篠如人と響駿影を、これまでとは比較にならない密度の白き霧が迎えた。乾渇也もまた、自らの領域を汚された屈辱に、能力を最大出力まで引き上げていたのだ。
視界は数メートル先も見通せず、吸い込む空気が喉の粘膜を強引に削り取るような、凄まじい「渇き」を伴っている。
――カラカラカラ、シュー……ッ!
目くらましの霧に紛れ、足元をカセットコンロ用のガスボンベが転がってくる。
「……可燃性ガスの追加を確認。ですが、これは『囮』です」
無機質なシステム音のような声で、如人の「安全装置」が告げた。
如人の視覚は、もはや可視光線だけに頼っていない。植物的な赤外線検知と空気の振動によって、廊下の奥でネイビーのレインコートを翻し、階段を駆け下りていく乾渇也の影を補足していた。
乾は、爆発の危険がある密室での制圧を捨て、より自由度の高い屋外での「狩り」へと移行しようとしていた。あるいは、想定外の変貌を遂げた如人という「イレギュラー」から、一時的に距離を置こうとしたのか。
乾はビルの裏口へと辿り着き、勝利を確信して重い鉄扉を蹴り開けた。目の前の路地へと飛び出し、立ち止まる。
作戦は失敗したが、それはあの化け物じみた植物男のせいだ。一旦体制を立て直し、改めて教団の敵を殲滅すればいい。乾は、イレギュラーな展開に歯嚙みしながらも、必死の形相で路地裏へと進路を取った。
「次は失敗しねえ、だからこそここで逃げ切ってやる!」
進路が開けた逃走の成功が頭をよぎったことで、乾は思わず声を上げた。
だが、その瞬間、彼の頭上から、巨大な緑色の影が音もなく、その眼前へと舞い降りた。
◇◇◇
「排除対象を捕捉。近接戦闘モードへ移行」
ビルの二階から直接飛び降りた如人の右腕は、空中でさらに膨張し、既に巨大な多肉植物の塊へと変質していた。
「必殺、『仙人掌』」
無数の鋭いトゲを纏った、重量級の緑の拳が、乾の胸元に真っ向から突き刺さる。
「がはっ……!?」
ネイビーのレインコートを貫通せんばかりの強烈な衝撃を受け、乾の身体は地面へと叩きつけられた。路地裏のゴミ箱をなぎ倒し、激しく転がる。
乾は悶絶しながらも、地面を這い、自身のレインコートから漏れ出していた霧を急速に吸い戻し始めた。「回収」による自己治癒と潤いの補給だ。奪い取った水分が彼に力を与える。
「……舐めるなよ。渇け、渇け、渇き尽くせえッ!!」
乾の絶叫と共に、過去最大出力の『渇水の霧』が放出された。如人の周囲の水分を根こそぎ奪い、ミイラへと変えようとする「死の乾燥」が路地裏を埋め尽くす。
しかし、如人の擬似人格は、既にその攻撃を計算に組み込んでいた。
「生体組織を多肉植物の貯水構造へと最適化済み。外部への水分流出を〇・〇一%以下に抑制しています。貴方の出力では、僕を枯らすことは不可能です」
「くそっ! なんなんだよお前はッ! ちくしょう! 水分だ、水分が足りない、力が足りねえ……! もっと水分をよこせぇーー!!」
乾が天を呪うように叫んだ、その瞬間だった。
ポツ、ポツ、とアスファルトを叩く音が響き、七月の熱い空気を切り裂くように、大粒の雨粒が降り注ぎ始めた。前触れもなく訪れた夕立である。
「ハハッ! 水だ、天が俺に潤いを与えてくれたぞ!」
乾はいきり立った。何故なら彼に触れた水分は、物質から潤いを奪う悪魔の霧と化す触媒となるからだ。まさしくこれは、信心深い自分への天の恵み。
今度こそ乾は勝利を確信し、再度、霧を発生させるべく振り返った。
だが、その眼前には、彼以上に降り注ぐ雨を最大限に利用しようとする如人の姿があった。当然のことながら、この夕立は如人にも最大限の利益を与える。
「気候変化を確認。環境エネルギーの再利用を開始します」
如人は右腕を天に向け、降り注ぐ雨水を驚異的な速度で吸収し始めた。サボテン特有の驚異的な吸水能力を、異能によって極限まで引き上げたのだ。
如人の腕が、今度は楕円形の奇妙な果実の形へと変化していく。
「噴射機構……『鉄砲瓜』。水圧による弾丸射出を開始」
パンッ! という鼓膜を突く破裂音と共に、果実の先端から「種子」が弾丸のごとく撃ち出された。
しかし、乾は瞬時に『渇水の霧』を集中させ、盾とする。如人の放った種子は、乾に届く寸前で水分を強引に奪われ、急速に枯れて脆い殻となり、地面に壊れ落ちた。
「無駄だ! 俺の霧の中では、あらゆる植物は枯れ果てる!」
夕立の勢いが急速に弱まり、如人の「鉄砲瓜」の装填までにわずかな空白が生まれる。乾はその隙を見逃さず、距離を取るために逃げに徹した。
如人の瞳が乾を追う。だが、システムは正確な弾道計算を要求していた。
「そのままでは外れます。右にあと三度、角度を修正してください」
如人の真後ろには、いつの間にか影のように寄り添う男が立っていた。響駿影の冷徹な声が、如人の擬似人格へと「戦術指示」を上書きする。戦場のプロフェッショナルによる補正。
如人の腕が微かに動き、乾の逃走経路を寸分違わず先読みする。
「そのまま。アイン、ツヴァイ……」
「「ドライ!!」」
二発目の種子が射出された。今度の種は一度目よりも、倍以上の大きさとスピードで乾へ向かって飛んでいく。乾は先ほどと同様に、最大出力の霧を展開して迎え撃った。
「その手は通用せんと言ったはずだぁ!」
しかし、その種子は先ほどのものとは異なっていた。如人が事務所の土壌浄化の際、完全に分解せずに自らの体内に「隔離保持」していた、カセットボンベのブタンガス。それを種子の中空部分に封じ込めていたのである。
乾の霧に触れた瞬間、水分を奪われた種の殻にひびが入る。刹那、内部から高圧のブタンガスが噴出した。
乾が自らの能力で発生させ続けていた「極度の乾燥」による静電気が、彼自身の意図せぬ形で最悪の火種となった。
パチッ!
「あ……」
――ドォォォォン!!
至近距離でガス爆発を受けた乾渇也は、ネイビーのレインコートを焦がしながら吹き飛び、路地の壁に叩きつけられた。そのまま白目を剥き、アスファルトの上で沈黙する。
雨上がりのアスファルトに、焦げた匂いと静寂が戻る。夕立は嘘のように止んでいた。
「……排除完了。安全装置を解除し、スリープモードへ移行します」
如人の身体から異形の植物が剥がれ落ち、肌は元の白さを取り戻していく。如人は糸の切れた人形のように崩れ落ち、それを響が力強い腕で受け止めた。
(……お疲れ様です、七篠君。あとは任せて、少し休んでください)
駿影は気絶した少年を支えながら、優しく声をかけた。
その6 終わり




