【地上編】第一話 その5:静電気の檻の罠、起動する安全装置と緑の避雷針
加古川探偵事務所の空気は、数分前とは明らかに別の物質に変質していた。
窓から差し込む西日は、かつては夏の終わりの気怠さを演出していたはずだが、今はただ、白く濁った不気味な霧を無慈悲に照らし出すスポットライトでしかない。
室内を白く覆う、異能の霧。それが触れた物質から、生命の根源である潤いを強引に、かつ徹底的に奪い取っていく。
七篠 如人は必死に浅い呼吸を繰り返すが、空気を吸い込むたびに喉の奥が熱せられた鉄板で焼かれたようにヒリつき、せり上がる咳を必死で飲み込んだ。瞬き一つするだけで、瞼の裏が乾いた砂を噛んだように痛み、視界が滲む。
園芸同好会を一人で守り抜いてきた如人は、その「乾燥」の異常さを誰よりも早く、そして深く察知していた。植物の繊細な変化を日々見守ってきた彼の感覚は、目に見えない大気の絶望を敏感に捉えていたのだ。
この事務所は、如人と播磨 舞衣がやってきた時には、もう既に人知れず攻撃の包囲網の中にあったのだ。
ふと視線を落とした部屋の隅、一鉢のパキラ。その鮮やかだったはずの緑の葉が、目に見える速さで端から茶色く変色し、まるで数千年前の古い羊皮紙のように脆くなっていく。
(気孔が完全に閉じてる……。自力で蒸散を抑えようとしても無駄なんだ。周囲の空気が、まるで真空が空気を求めるみたいに、強引に細胞から水分を吸い出している。このままだと、植物の細胞が内側から崩壊して、粉々になってしまう……!)
如人の胸に、言いようのない焦燥と悲しみがこみ上げる。植物の死は、彼にとって生命の終わりの予兆に他ならなかった。
その時だった。
事務所の重厚な木製の扉が、ミシミシ、ピキピキと、乾燥による急激な収縮で悲鳴を上げた。まるで目に見えない巨人が扉を絞り上げているかのような異様な音。扉は完全に開くことはなく、数十センチ程度の不気味な隙間を作ったところで、その動きを止めた。
――カラカラカラ……。
乾いた無機質な音を立てて、廊下の暗がりから数本の「鉄の筒」が次々と滑り込んできた。それは、何の変哲もないカセットコンロ用のガスボンベだった。
だが、その側面には無惨な穴が開けられており、「シュー……ッ」という特有の噴射音が、静まり返った室内に死を告げる通奏低音のように響き渡る。
「……気に入ってもらえたかな。湿った人間共に、俺からのプレゼントだ」
扉の隙間の向こう、廊下の暗がりに「それ」は立っていた。
深夜の海を思わせる、不気味なほどに深いネイビーのレインコートを纏った男――乾 渇也。彼は決して室内へは足を踏み入れようとしない。
ただ、そのネイビーの隙間から溢れ出す白く不気味な霧――能力『渇水の霧』だけを、獲物を追い詰める冷気のように室内へと流し込んでくる。
「みんな動かないで。声もダメです」
元傭兵である響 駿影の鋭く、しかし極限まで抑えられた声が、震える如人たちの耳に届いた。
駿影は、パーカーを直す間もなく固まっている加古川みえの腰をガシッと支え、彼女の不注意な叫びを防ぐために、大きな掌でその口を完全に塞いでいる。
舞衣もまた、いつもの騒がしさが嘘のように、ガングロメイクの奥で目を見開き、呼吸を止めていた。
彼女の脳裏には、かつて自分を襲った「蛇のような不気味な男」の恐怖が鮮烈に蘇っていたが、今目の前にあるのは、それとは異質の、じわじわと真綿で首を絞められるような、どこまでも陰湿な殺意だった。
「ふふ、いい反応だ。駿影さんと言ったか。どうやら君には理解できるようだな? この部屋の中で可燃性ガスの濃度が、刻一刻と上がっていることを」
乾渇也の声は、まるで幼い子供がいたずらを成功させたかのように、邪悪に弾んでいた。
彼は、かつて自分自身が深刻な脱水症状で死にかけたという凄惨なトラウマから、自らが生み出した霧に触れた物の水分を奪い、それを自身の内側へと回収して潤いを得ることでしか、精神の平静を保てなくなっていたのだ。
そして何より、彼は徹底的に臆病で、救いようがないほど陰湿だった。
爆発の危険がある部屋には自分は決して入らず、安全な廊下という聖域から、獲物たちが絶望し、ゆっくりと干からびていく様を「観察」することに、この上ない愉悦を感じている。
「俺の霧は、ただ潤いを奪うだけではない。あらゆる物質から電気を逃がす『導通性』も奪い去る。今の君たちの衣服は、一歩動くたびに強力な静電気を放つだろう。それが、床に満ちたブタンガスへの、最高の『火種』となるのさ」
乾はネイビーのレインコートのフードを深く被り直し、扉の隙間から、まるで顕微鏡を覗き込む科学者のような冷徹な眼差しを向けてくる。
「さあ、実験を始めようか。君たちが爆発して一瞬で消えるのが先か、それともミイラのように干からびて俺の『潤い』になるのが先か」
如人は震える自分の手のひらを見つめていた。皮膚は白く粉を吹き、まるで老婆の手のように皺が刻まれている。指先をわずかに動かすだけで「パチリ」という小さな、しかし致命的な音が聞こえ、暗がりに青白い小さな火花が散るのが見えた。
その火花が、床に溜まったガスに引火すれば――。この事務所は一瞬にして、逃げ場のない鉄火場へと姿を変えるだろう。
(……この人は、僕たちを『人間』だと思っていない。ただの『モノ』として見てるんだ……)
如人の脳裏に、奪われたはずの記憶の残響が、激しいノイズ混じりに再生される。
赤茶色の髪の、意志の強い瞳をした少女と共に戦った、熱く激しい日々の記憶。
名前も、その関係も思い出せないが、彼女ならきっと、こんな絶望的な状況を自らの「熱」で焼き切り、道を切り開くだろうか。だが、今の記憶のない自分には、そんな強大な力はない。
しかし、彼には彼だけの「本質」があった。失われた記憶の底に眠る、生命を守ろうとする本能が目を覚ます。
(……パキラが、もう完全に枯れかけてる。植物は、水がなければ生きられない。水がなければ、誰も……!)
如人は意識を、自分の身体のさらに奥深く、核となる部分へと向けた。ヒントは、つい先ほど加古川みえによって見せられた記憶の断片の中にあったはずだ。
かつてトラックの暴走から子供を救った際に発動した、最強にして最古の「安全装置(擬似人格)」の記憶。それが、今この極限の乾燥状態において、再び発動できれば。仲間を、そして自分自身を救えるかもしれない。
(乾燥に強いのは……サボテン、アロエ……多肉植物だ。彼らは過酷な環境下で、組織の中に水分を蓄え、外皮を硬く閉ざし、一滴の潤いも逃がさないように進化した。一滴の潤いも……逃がさない……!)
◇◇◇
乾渇也は、廊下で満足げに鼻を鳴らした。
「……ほう、ひとまずは耐えたようだな? だがそれがいつまで続くかな。俺が一度放出した霧を回収するその時、急激な気圧の変化で、さらに静電気は発生しやすくなる。君たちが耐えれば耐えるほど、最後の一撃は華やかになるだろう」
乾は、一定時間放出した霧を、大きく深呼吸をするように自身の内側へと回収し始めた。
「――回収」
乾の低い掛け声と共に、室内を埋め尽くしていた霧が、扉の隙間へと向かって猛烈な勢いで逆流し始める。その凄まじい風が、舞衣の顔を打ち、ガングロメイクの粉を無残に吹き飛ばす。衣服同士が激しく擦れ合い、空中で無数の青白いスパークが弾ける。
駿影は、自らの屈強な身体を「盾」にして、みえと舞衣を守るように低く構えた。彼の丈夫なロングコートさえもが、カサカサと乾いた音を立てて、死の予感を煽る。
(……もし、もし本当に僕に、大切な人を守るための能力が、まだ残っているのなら。何でもいいから、みんなを……みんなを守ってっ!)
如人が魂の底から願った、その瞬間だった。
彼の意識は唐突に真っ白な光の中に落ち、そして――。
「――敵性能力による、重度の外部干渉を確認。周囲の危険値が、規定の閾値を突破しました。これより安全装置、緊急起動。周辺の人命保護を最優先事項として処理します」
その冷徹で、しかし絶対的な信頼を感じさせる機械的な声が響いた瞬間、如人の指先に、鋭く硬いトゲが宿った。
そのまま彼の白い肌が、微かに緑がかった、植物の幹のような硬い質感へと変質し始める。
それは、周囲に満ちた危険な静電気を、自らの肉体を介して吸い込み、地中――すなわち事務所の床へと安全に逃がすための「生きた避雷針」のような役割を果たすための、極限環境への適応だった。
ネイビーのレインコートを纏った死神が、安全な廊下で勝利を確信し、嗤いながらその結末を見守る中。真夏の古い雑居ビル。物音を立てることも、満足に呼吸をすることも許されない、史上最も「乾いた」命懸けの脱出劇が、静かに、しかし熱く、そのクライマックスへと向かっていた。
「さあ、見せてくれ。君たちの魂が、死の間際にどれほどの『水分』を、希望を、含んでいるのかをね」
乾渇也の、悦びに満ちた陰湿な呟きが、密閉された死の部屋に、最後の宣告のように響き渡るのであった。
その5 終わり




