【地上編】第一話 その2:播磨家の静かなる戦慄と、警察の無慈悲な壁
七篠 如人が泥のように眠りについてから、まる一日が経過していた。
播磨家のリビングでは、母・亜衣が震える手で受話器を握りしめていた。七篠家の母・蒔絵からの電話は、彼女にとってこの世で最も聞きたくない「最悪の知らせ」だった。
七條家からの連絡が一日遅れたのは、如人が意識を取り戻した際、何事もなかったかのように記憶が戻っていることを、蒔絵たちが切に願っていたためだ。
だが結局、丸一日経っても彼の意識は戻らず、混濁した状況だけを伝えざるを得なくなったのである。
「……如人さんだけが戻ってきて、結衣のことを覚えていない……?」
亜衣の声がかすれ、膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪えた。彼女にとって、七篠如人は娘の恋人という以上に、誠実で信頼できる「如人さん」という家族同然の存在だった。その彼が一人、幽霊のような顔で帰宅し、あまつさえ最愛の恋人である結衣のことすら忘れている。
如人が自分用の携帯電話を持っていない以上、彼が戻ったということは、結衣との旅路がそこで断絶したことを意味していた。
播磨家は即座に警察へ駆け込んだ。しかし、そこで待ち受けていたのは、彼女たちの焦燥とはあまりにも温度差のある、お役所的な対応だった。
「お母さん、落ち着いてください。夏休みでしょう? 若い子が予定を変えて、別の場所に遊びに行くなんてよくある話ですよ」
「でも、一緒に行った如人さんは一人で帰ってきたんです! ひょっとして結衣に何かあったんじゃ……!」
対応した若い巡査は、面倒そうに書類へ目を落とす。
「事件性が確認できない以上、すぐには動けません。捜索願は受理しておきますが、まずは関係者に当たってください。その如人君の記憶喪失も、熱中症か何かの一時的な混乱でしょう」
この街の頼れる刑事であり、かつて娘が事件に巻き込まれた際に親身になってくれた更石は、休暇中だという。しかしこの時すでに彼は「神候補」として孤島へ転送されており、地上にはいなかったのである。
警察という巨大な機構が、自分たちの小さな悲鳴を「日常の些細な出来事」として処理し、切り捨てていく。
亜衣は絶望に沈み、重い足取りで自宅へと戻るしかなかった。
◇◇◇
如人が眠りについてから二日目の午後。
七篠家のマンションの駐車場に、けたたましいエンジン音と共に一台の古い軽自動車が乗りつけた。
「ちょっと! なおと君はどこ!? ウチの妹、結衣をどこにやったのよ!」
玄関の扉が蹴破らんばかりの勢いで開かれる。如人の母・蒔絵が止めるのも聞かず、土足同然でリビングへと踏み込んできたのは、播磨家の長女・舞衣だった。
彼女は知っている。妹の結衣や如人たちが、何か「不思議なこと」に巻き込まれていることを。何故なら自分自身が「蛇のような不気味な男」に襲われたことがあり、救出された際に社 いぶきという友人から「神への供物(生贄)」だと宣告された恐怖を、彼女は経験しているからだ。
だが、舞衣にとってそれは、高尚な「神の選別」などではなく、単なる「質の悪いオカルト的な災難」でもあったのである。
「舞衣さん、落ち着いて……如人は今、ずっと眠ったままで……」
常人が宥めようとするが、舞衣の勢いは止まらない。
「寝てる場合じゃないでしょ! 結衣がいなくなったのよ!? あの二人はデキてたのよ! それなのに、如人君だけ記憶をなくして戻るなんて、そんなのかわいそうじゃないのよ!!」
舞衣の叫び声が家中に響き渡る。
その時、二日間眠り続けていた如人の指先が、微かに動いた。如人の脳裏には、奪われたはずの記憶の「残響」が、ノイズ混じりの映像として明滅していた。白い光。泣きそうな結衣の顔。そして、タイプライターを叩く不気味な影。
「……ゆ、い……ちゃん……?」
掠れた声と共に、七篠如人がゆっくりと目を開けた。視界がぼやける中、如人の目に最初に入ってきたのは、この世のものとは思えない「異形」の顔だった。
金髪の縦ロール、真っ黒に縁取られた目元、そして不自然なほど真っ白に塗られた唇。ド派手なガングロメイクの怪物が、至近距離で彼を覗き込んでいたのである。
「あ、なおと君! やっと起きたわね、このバカッ!」
「あ、ああ……くぁwせdrftgyふじこlp!!!」
言語化不能な悲鳴とともに、如人の意識は闇に落ちかけ――
「こらーっ! それ何回やんのよー!」
舞衣が如人の肩を激しく揺さぶった。落ちかけた意識は強制的に引き戻される。
「…………ひっ…………。う、うわあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!! お化け! 化け物が出たぁぁぁ!!」
如人は悲鳴を上げ、布団を跳ね除けて壁際まで這いずった。記憶を失っている彼にとって、今の播磨舞衣は「恋人の残念な姉」ではなく、「目覚めた瞬間に現れた未知のモンスター」でしかなかった。
かつて浴室の磨りガラス越しに彼女を見て失神した時と同じ、本能的な「恐怖の天丼」が炸裂したのだ。
「誰がお化けよ! 綺麗なお姉さんに向かって失礼千万じゃないのよ!」
「こっち来ないで! 母さん、早く塩を! 盛り塩を持ってきてぇ!!」
舞衣は如人の怯えを「自分への羨望」とポジティブすぎる勘違いで受け流すと、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
◇◇◇
一頻り騒いだ後、母から舞衣の事を聞かされてようやく如人は落ち着きを取り戻した。もっとも、それで結衣やその家族のことを思い出したわけではなく、半信半疑な面持ちではある。
舞衣はベッドの端にドカリと腰掛け、如人の胸倉を掴む勢いで顔を近づけた。
「いい、なおと君? あんた、『不気味な超常現象』にぶつかったのよ。なんかがブワーッて出て、あんただけ魂を抜かれたみたいな顔で、一人でトボトボ戻ってきたわけ、多分ね!」
「超常現象……?」
「そうよ! 私も『蛇みたいな化け物男』にさらわれたし、私の友達だったシロッちなんて、私を『神様への生贄だ』なんて呪いみたいなこと言ってきたんだから! これ、完全に悪霊か何かの仕業でしょ?」
舞衣の中では、異能や神候補といった概念は、あくまで「ちょっとした霊障」や「新興宗教の怪しい呪い」の延長線上にあるようだった。彼女にとって重要なのは、妹の結衣が「神隠し」にあい、如人の脳みそが「バグって」いるという事実だけだ。
「警察に泣きついてもダメ。親切な刑事のおじさんも行方不明だしね。だから、もうプロを頼るしかないわ」
舞衣は得意げに胸を張り、自分の知り合いである「プロ」を如人に紹介するなどと言い出した。
「こういう時は、私の親友の『加古川 みえ』ちゃんを頼るのが一番よ。彼女、自称『名探偵』なんだけど、これがもう、凄いのよ!」
「探偵……? 警察がダメなのに、その人に頼めば、その結衣ちゃんの居場所が分かるんですか? でもそれって僕は関係なくないですか?」
「居場所どころか、あんたの無くした『記憶』も見つけてくれるわよ。あの子の『推理』は、もはや推理っていうより占いに近いんだから!」
舞衣の説明によれば、親友の探偵だという女の調査能力は、論理を完全に飛び越えているらしい。
「例えばね、誰かが失くした指輪を探す時も、彼女は現場に立ってポーズを決めたかと思うと、『ふむ……わたくしの名探偵としての直感が、この側溝の奥に指輪があると推理しましたわ!』って言うのよ。そしたら本当にそこにあるの! 凄いでしょ?」
(……それ、探偵じゃなくて占い師か超能力者なんじゃないのか?)
如人が抱いた真っ当な違和感を、舞衣は「彼女は理論派だから!」と一蹴する。舞衣にとって、その親友はあくまで「勘が鋭すぎて占い師に間違われるほどの名探偵」であり、その『推理』の正体が何であるかは微塵も気にしていないのだ。
「さあ、いつまでもモタモタしてられないわ! 今から彼女の事務所に行くわよ!」
舞衣は如人の腕を強引に引っ張り、立ち上がらせる。彼女にとって、今の如人は結衣を見つけるための唯一の手がかり。そして彼自身が、「結衣との思い出」という一番大事な忘れ物をした、最大の『失せ物』なのだから。
「いい、なおと君? みえちゃんの『推理』にかかれば、あんたの頭の中に空いた大きな穴も、きっと埋めてくれる。九星気学もビックリの、百発百中なんだから!」
「もう占いって言っちゃてるじゃないですか!」
如人は「ガングロの怪物」に引き摺られるようにして、七一〇号室の玄関を出た。背負わされたリュックサックの中には、結衣と一緒に撮ったプリントシールやクレーンゲームのぬいぐるみが入っており、静かに主の記憶の帰還を待っている。
目指す場所の名は、「加古川探偵事務所」。街の片隅にある小さな探偵事務所。
だが、その扉の向こうには、記憶を失い無防備となった如人たちに対するさらなる波乱が待ち受けている事を、まだ誰も知らない。
その2 終わり




