↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

3/18

【地上編】第一話 その1:塗りつぶされた旅路と、沈黙する日常

 耳を劈(つんざ)くようなセミの鳴き声が、一瞬だけ遠のいた気がした。


 一九九九年七月。ノストラダムスの予言が「世界を滅ぼす」と指し示したその月は、逃げ場のない酷暑と共に、不吉な沈黙を孕んで幕を開けていた。


 とある高校の北側裏庭――。


 つい数分前まで、そこには神候補としての過酷な儀式に挑もうとする少年少女たちの熱気があったはずだった。


 だが、今、吹き抜ける熱風が揺らすのは、手入れの行き届いた花壇の草花と、古びた園芸倉庫の無機質な影だけだ。


 その中心で、七篠(しちじょう) 如人(なおと)はゆっくりと目を開けた。


「……あれ?」


 強烈な立ちくらみに襲われたような感覚に、如人は眉を潜めた。視界の端で、夏の陽光に焼かれた陽炎がゆらゆらと蠢いている。


 彼は不思議そうに自分の手を見た。爪の間に黒い土が入り込み、指先にはついさっきまで植物の世話をしていたような、命の温かな感触が残っている。


「おかしいな。まだ家にいたはずなんだけど……まあ、良いか。園芸同好会の活動は夏休みでも真面目にみんなのお世話をしないと」


 立ち上がろうとした如人の肩に、ずっしりとした、そして不自然なほど重い重量感がのしかかった。背負っているのは、場違いなほど大きなキャンプ用のリュックサックだ。


「何だこれ。制服でもないし、まるでサバイバルにでも行くみたいな格好だ。誰かと約束でもしていたのかな?」


 断片的な思考が脳裏に浮かんでは、砂が指の間を零れ落ちるように消えていく。

 その「誰か」の名前を思い出そうとした瞬間、彼の思考の図書館を、不気味で乾いた打鍵音が駆け抜けた。


 ――カタカタカタカタ、ピン。


 軽快で、それでいて心臓を直接叩くような冷徹な音。白い光の奥で、無機質な眼鏡をかけた「誰か」の輪郭が、タイプライターを叩いていたような幻覚が脳裏をよぎる。

 その不可思議な音と共に、如人の脳内から「最も大切な何か」が物理的に引き抜かれるような、猛烈な喪失感が走った。


 それは、教団の記録員(タイピスト)という謎の能力者による攻撃が原因だった。如人の魂の記録は「インク」として吸い出され、タイプライターの原稿へと書き換えられていく。


 上沢(うえさわ) 緋女(ひめ)という戦友との絆、蜂使いとの死闘、そして命をかけて守ると誓った恋人・播磨(はりま) 結衣(ゆい)との愛の記録さえもが、物理的に消去されていた。


 だが、その鋭い痛みすらも、直後に訪れた奇妙な安堵感によって塗りつぶされていく。


 ふと如人の指先が、無意識に制服のポケットを探った。そこには、一通の重厚な質感を湛えた手紙が入っていた。白神救世教のロゴが冷徹に刻まれた、宛名のない封筒。


『忘却こそが、汝を真の日常へ還す慈悲なり』


 その文面を網膜が捉えた瞬間、如人はふっと表情を緩めた。


「……まあ、いいや。それよりも花壇に水をあげないと。この暑さじゃ、みんな枯れちゃうよ」


 如人は穏やかに微笑んだ。彼の中から、ここ数ヶ月の死闘の記憶は綺麗に消し去られていた。今の彼に残されたのは、「植物を愛でる平凡な高校生」としての、あまりにも静かで、あまりにも虚ろな「日常」の残骸だけだった。


◇◇◇


 如人は「少し疲れたから、早めに切り上げて帰ろう」という、ごく当たり前の判断に従って歩き出した。本人の主観では、それはいつもの、退屈だが穏やかな下校風景だった。


 だが、校門を抜けた彼の姿を目にした通行人たちは、一様に如人の姿を見て絶句し、避けるように道を開けていく。


 如人の顔色は、健康な高校生のものとは思えないほどに青白かったのだ。いや、血の気が完全に引いて、さながら幽霊のように透き通って見えるほどだった。焦点の合わない瞳は虚空を彷徨い、額からは滝のような冷たい汗が流れ落ちてTシャツをぐっしょりと濡らしている。


 如人の肉体は、本人の自覚を超えて悲鳴を上げていた。


 実は儀式の転送から一人だけ「除外」された際、如人の身体に宿る「安全装置(擬似人格)」が無意識に発動し、強大な異能の干渉を撥ね除けるために膨大なエネルギーを使い果たしていたのである。


 歩みを一歩進めるたびに、意識が遠のく。だが、如人は「帰って寝れば治るだろう」と、他人事のように考えながら歩き続けた。夕闇が迫り、家路につく人々で賑わい始めた住宅街。如人は這うようにして、住み慣れたマンションの七一〇号室の玄関に辿り着いた。


「ただいま……母さん……」


 リビングの扉が開き、声を振り絞った瞬間、中から顔を出した母親の蒔絵(まきえ)は、手に持っていた湯呑みを床に落とした。陶器が砕け、お茶が廊下に広がる音が虚しく響く。


「如人! あなた、その顔……どうしたの!?」


 朝、元気に「結衣ちゃんたちと数日間、キャンプに行ってくる」と大荷物を背負って家を出たはずの息子が、わずか数時間後に、まるで魂を吸い取られた抜け殻のような姿で帰ってきたのだ。驚くなという方が無理がある。


 蒔絵の脳裏には、かつて如人がトラックに撥ねられ、三日間も意識不明の重体となったあの時の悪夢が、鮮烈に蘇った。


「ひょっとしてまた、なの!? 事故!? どこか怪我したのね! 今すぐ救急車を……!」

「……ううん、大丈夫。……ちょっと、お腹が空いちゃって……」


 如人は力なく笑おうとしたが、その表情は引き攣り、見ていられないほどに痛々しかった。物音を聞いて駆けつけた父・常人(つねと)が息子を抱きかかえ、リビングのソファへと運ぶ。


「蒔絵、落ち着け! まずは水分と食事だ!」


 常人の叫び声に弾かれたように、蒔絵は震える手で台所へ走り、如人の好物を手当たり次第に準備し始めた。


◇◇◇


 テーブルに並べられたのは、昨晩の残りのお惣菜とお弁当用に準備された大量の冷凍食品といった料理の数々だった。如人はそれを、飢えた獣のような勢いで口に運び始めた。咀嚼(そしゃく)もそこそこに、次から次へと料理を胃に流し込んでいく。


「如人、ゆっくり食べなさい! 喉に詰まるわよ!」


 蒔絵が涙ぐみながら背中をさするが、如人の手は止まらない。敵の能力から無意識に自身を守るため酷使された影響から、枯渇したエネルギーを補おうとして、細胞レベルで栄養を激しく欲していたのだ。


 一膳、二膳と平らげ、ようやく如人の顔にわずかな生気が戻ったように見えた。そこで蒔絵は、ずっと喉に支えていた問いを、恐る恐る口にした。


「……それで、如人。キャンプはどうしたの? 一緒に行った結衣ちゃんは、今どこにいるの?」


 如人の箸が、ピタリと止まった。彼は不思議そうに眉を寄せ、空っぽの目で母を見上げた。


「……キャンプ? ……ごめん母さん、なんのことだっけ?」


 如人の声には、一点の曇りも、冗談の色もなかった。


「……それと、さっきから母さんが言ってる『結衣ちゃん』って、誰のこと?」


 リビングに、凍りつくような沈黙が降りた。蒔絵と常人は、言葉を失って顔を見合わせた。


「如人……冗談はやめて。播磨結衣ちゃんよ。あんたの彼女で、将来は家族になるかもしれないって、あんなに大切にしてたじゃない!」

「彼女……? 恋人……? 僕に、そんな人がいたの?」


 如人の目は、真剣だった。嘘を吐いているようには見えない。ただ、彼の脳内にある記憶の図書館から、その人物に関する蔵書だけが、全て持ち去られているのだ。常人は息子の肩を掴み、さらに問い質した。


「今日、結衣ちゃん達と一緒に、重永(しげなが)君や上沢さんもいたんだろ? 他のみんなはどうしたんだ!」

「重永……? 上沢……? 誰のことか、全然わからないや。僕は一人で学校に行って、植物の世話をしていただけだよ。キャンプの約束なんて、してないと思うけど……」


 蒔絵は、耐えきれずに嗚咽(おえつ)を漏らした。物理的な外傷はない。だが、息子の心は、根源的な部分から「壊されて」帰ってきたのだ。


「如人……あなた、本当におかしいわ。すぐに病院へ連絡を……!」


 蒔絵が固定電話に手を伸ばそうとしたとき、如人の身体から急激に力が抜け落ちた。最後の一口を飲み込んだ瞬間、彼は椅子に座ったまま、糸が切れた人形のようにガクンと首を垂らしたのである。


「なんだか……急に、眠くなって……」

「如人!? 如人!!」


 両親の叫びも届かない。如人はそのまま、底なしの淵へと落ちるような、深い深い眠りの底へと沈んでいった。


その1 終わり

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。