【儀式編】第一話 その5:不浄の港と老練なる盾
錆びついた潮の香りと、それを強引に覆い隠そうとする人工的な芳香――安っぽい洗剤か、あるいは防腐剤か何かのような、鼻の奥をチリチリと刺す無機質な「白」の匂い。
その、生理的な嫌悪感を呼び起こす不協和音の中で、更石 憲明はゆっくりと意識の表層へと浮上した。まどろみの底から引きずり出された靴底が、硬く、冷え切ったコンクリートの感触を捉える。
「……っ、やれやれ。念のために、たまりにたまった有給の申請しといて正解だったよ。まあ、無事に消化して職場に顔を出せる保証なんて、どこにもねえんだけどな」
肺の奥に溜まった濁った空気を吐き出すように、更石は重い独り言を漏らした。
身体を動かすたび、全身の節々が、油の切れた機械のように軋む悲鳴を上げる。それは連日の徹夜続きという激務の名残か、あるいはこの場所へ「転送」された際の、空間を無理やり捻じ曲げるような衝撃によるものか。
更石は地方警察署の捜査第一課に勤務する、叩き上げの現職刑事である。
家に帰る暇さえ惜しんで未解決事件の書類の山と格闘し、冷え切って脂の浮いたコーヒーで胃を焼くような毎日。そんな彼が、警察手帳をデスクに置き、たった一通、机の上に置かれていた不審な「招待状」に従ってこの地獄へ足を踏み入れたのには、公務とは別の、個人的な「執念」があった。
六年前の、あの日。目の前で「白い怪物」――社いぶきという名の異形によって、文字通り消し去られた相棒、上沢 朱満の無念。
そして、その妹である緋女を、これ以上の悲劇に巻き込ませないという、誰に誓うでもない強固な決意。
更石は自らのポケットを探り、指先に触れるクシャクシャになった招待状の感触を確かめた。この島へ辿り着くことこそが、彼にとっての「最終捜査線」であり、警察官ではない「更石憲明」という一人の男としての、遅すぎた落とし前だった。
「……さて。どう見ても、ここはおいらの管轄じゃあねえよなぁ」
よろりと立ち上がり、周囲をじっくりと見渡した更石の口から、乾いた吐息が漏れる。
視界に広がるのは、かつては活気ある漁村であったろう港湾地区のなれの果てだ。だが、その光景は更石が知る「日本の離島」の情緒とは決定的に、そして致命的に異なっていた。
防波堤、建物の外壁、朽ち果てて打ち捨てられた廃船、果ては路上の石ころに至るまで、あらゆるものが徹底的な「白」で塗りつぶされている。
それは冬の朝に雪が降り積もったような柔らかい白ではない。血の通わない、冷徹なペンキで、その土地が刻んできた歴史や潮風の汚れを、力ずくで窒息させたような、不気味なまでの「静寂の白」だった。
この島の名は、かつては「灯明島」と呼ばれていた。夜の海を照らす火山の灯が由来の、生命力に溢れた島。
しかし、十年前。莫大な資金力を背景にこの島へ上陸した新興宗教団体「白神救世教」は、島のインフラから行政までを瞬く間に掌握し、島全体を「白灯島」という名の、教団にとっての聖域へ作り変えてしまったのだ。
更石は、職権を通じて密かに収集した機密資料、あるいは神候補として目覚めた後の独自の「裏の捜査」によって、この清潔すぎる「白」の裏側に隠されたおぞましい真実を断片的に知っている。
教団が掲げる救済の裏で行われてきたのは、人々の失踪と、異能の適性を試す「選別」という名の組織的な殺し合いだ。
(間違いない。ここは奴らの本拠地であり、同時に巨大な実験場だ……。あの大明神の娘へ辿り着くための、これが最短ルートってわけだ)
更石は警察の資料で脳内に叩き込んだ島の地形図を、精緻に展開していく。周囲約十三キロ、二重カルデラ構造の火山島。
今彼が立っている「不浄の縁」と呼ばれる港湾地区は、外界との唯一の接点でありながら、同時に「下界の汚れ」を象徴する場所として教団に半ば放置されている。
無意識に腰のベルトへ手をやるが、そこには長年相棒だった使い慣れた拳銃も、手錠もない。今ここにあるのは、刑事としての誇りと、掌に宿る「硬化」の異能だけだ。
更石は、白く塗り固められた民家が不規則に並ぶ、迷路のような路地へと足を踏み入れた。路上には、教団の教義を象徴するかのような白大理石の彫刻が至る所に配置されている。
それらはどれも精巧で美しいが、恐ろしいほどに生命力を感じさせない。その無機質な彫像たちは、まるでかつてここで平穏に暮らしていた島民たちの、声なき末路を暗示しているようで、更石の厚い背筋を冷たく撫でた。
「おいおい……人っ子一人いねえのか。静かすぎて、自分の古びた足音が耳障りだぜ」
更石の呟きをかき消すように、その不吉な静寂が物理的に「破壊」された。
ガシャァァンッ! という、何かが粉々に砕け散る派手な破壊音が、白い路地の奥から響き渡る。
続いて聞こえてきたのは、喉を引き裂くような若い男の悲鳴。そして、それとは対照的な、傲慢さと嗜虐心に満ちた男の怒声だった。
「――っ、ふざけるな! その石を渡せと言っているんだ! それは僕が最初に見つけた、僕の『権利』だ!」
「嫌だ……助けてくれ! これは僕の宝石なんだ! これを失ったら、僕は……僕は消される!」
更石は反射的に身を低くし、数十年の現場経験で磨き上げられた「刑事の勘」を頼りに、物音のする角へと音もなく潜り込んだ。
路地の先、白く塗りつぶされた廃屋の前で、二人の若者が対峙していた。一人は震える手で、淡い光を放つ青い結晶――「宝石」を必死に胸に抱え込み、もう一人はそれを力ずくで奪い取ろうと、醜悪なまでにその異能を剥き出しにしている。
「権利だと? 笑わせるなよ。この島に法律なんてねえんだよ。強い奴が神になり、弱い奴は石になる。それが、白き神が定めたこの島の唯一のルールだろうが!」
そう叫んだ男の右腕が、肉を裂き、骨を組み替えるような異様な音を立てて変質していく。皮膚は見る間に黒ずんだ硬質の外殻に覆われ、肘から先が三倍ほどの巨大な「円錐形」へと膨れ上がった。
そのドリルが高速回転を始め、周囲の重苦しい空気を切り裂く。
「やめろ、来るな! 『光よ、僕を守れ!』」
宝石を抱えた方の若者が絶望的に叫ぶと、彼の周囲に、頼りなげな輝きを放つ光の壁が展開された。
ドリルが光の壁を抉り、激しい火花が散る。物理的な衝撃音が路地の狭い空間に反響し、塗り固められたペンキが衝撃で剥がれ落ちていく。
「……やれやれ。気が早いねえ。まだ島に上がったばかりだっていうのに、もう『儀式』とやらが始まっちまってんのか」
更石は壁の影から、その光景を冷めた眼差しで見つめていた。ドリルを振り回す男の瞳には、かつて更石が裏路地で何度も目にしてきた、欲望と恐怖が入り混じった「中毒者」特有の爛々とした輝きがあった。
一方、光の壁を展開している少年は、自分が何をすべきかも分からず、ただ縋るようにして宝石を抱きしめている。
「法も正義も通用しない、白き神の箱庭なあ。……だが、生憎とおじさんは、休みの日でも目の前の『事件』を見逃せねえ、極めて不器用なタチなんだわ」
更石は静かに、しかし全身の筋力を一点に集中させるようにして、力強く右拳を握り込んだ。その瞬間、彼の褐色の皮膚が鈍い金属光沢を帯びて変質し始める。能力『硬化』。
かつて朱満を、そして上沢を、その腕の中で守りきることができなかった、あの日までの無力な更石憲明は、もうここにはいない。
「有給の期間内に、全員まとめて『鎮圧』できるといいんだがね。……まずは、あのご乱心の若造から、お灸を据えてくるとするか」
更石は、老練な刑事らしい不敵でどこか物悲しい笑みを浮かべると、二人の争いの真っ只中へと、一歩、迷いのない足取りで踏み出した。
その5 終わり




