【儀式編】第一話 その6 刑事の流儀と消えた「資源」
更石 憲明は、自身の足音が白く塗りつぶされたアスファルトに吸い込まれていくような、奇妙な錯覚を覚えていた。
かつては潮騒が響き、安っぽい磯の香りと共に、人々の生活の匂いが満ちていたはずの港湾地区。
しかし、今の視界に広がるのは、白神救世教の教義という名の冷徹なペンキで強引に歴史を剥ぎ取られた、標本のような住宅街だ。
防波堤も、電柱も、無造作に置かれたゴミ箱でさえもが、不自然なほどに「白」い。それは清潔というよりは、死後硬直を起こした生命の白濁に近い。
鼻を突くのは、潮の香りを完全に封じ込めるように撒かれた、無機質な人工の芳香だ。洗濯用洗剤を濃縮したようなその匂いは、ここが「神の庭」であることを強制的に認識させるための装置に思えた。
(……やれやれ、現場検証をやるにしても、これじゃあ鑑識が泣くぜ。証拠を全部塗りつぶしやがって)
更石はよれよれのスーツのポケットに手を突っ込み、刑事特有の「汚れ」を探す目で周囲を観察する。
教団が支配して十数年。島は「白灯島」と自称されているが、更石の目には、生命の熱を奪い去る「絶対零度の檻」に見えていた。
先ほどから荒々しい声を上げながら暴れている若者たちの方へと近づいていく。
尻もちをついた男が叫び声をあげた。
「やめろ、助けてくれ! 頼む、この『宝石』ならやるから! だからこれ以上、僕に関わらないでくれ!」
二十代前半だろうか。恐怖に顔を歪めた彼の前面には、まるで物理的な障壁のような、淡く発光する「光の壁」が展開されていた。
もう一人の男を見て、更石の眼光が鋭くなる。
「うるせえ! その宝石だけじゃねえ、お前自身の存在も『宝石』になれば、神様が俺を選んでくれるんだよ! 資源になれ、屑が!」
追跡者の右腕は、もはや人の形を留めていなかった。肘から先が異様な音を立てて膨張し、硬質の外殻に覆われた巨大な「円錐形」へと変異している。
それは狂乱状態のまま、高速で回転を始め、周囲の空気を金切り声のような音で切り裂いていた。
「……なるほど、これが教団の言う『儀式』ってやつかい。どっちも理性のタガが外れてやがる」
更石は一息吐くと、迷うことなく二人の間に割って入った。逃げる男と追う男、その動線が交差する一点に、彼は悠然とした足取りで身を置く。
「――そこまでだ、二人とも。公道での喧嘩は、この島のルールでも禁止されてるんじゃあないのかね?」
ドリルを振り回す男が、血走った目で更石を捉えた。
「ああん!? なんだてめえ、邪魔すんじゃねえ! 俺が神になる邪魔をする奴は、まとめて粉砕してやらあ!」
男は理性を失った獣のように、変異したドリルアームを突き出しながら更石へと躍りかかった。ドリルの先端が空気を圧縮し、更石の胸元を狙う。だが、更石は眉一つ動かさない。
「やれやれ。有給の初日がこれとはね。まあ給料貰えるだけマシかな」
更石が軽く右腕を掲げた瞬間、彼の皮膚が変質した。一瞬にして鈍い灰色の金属光沢を帯び、血管が鋼のように浮き出る。
更石固有の能力『硬化』。自身、あるいは触れた物質の硬度を自在に上げるその能力は、守護に特化した老練なる盾だ。
ガギィィン!!
凄まじい金属音が、白い路地に反響した。金属バットで巨大な石をフルスイングしたような、耳を劈く硬質な衝撃。
高速回転する円錐の拳は、岩よりも硬くなった更石の腕に弾き返された。ドリルから火花が散り、その反動で男の腕が不自然な角度に跳ね上がる。
「……っ、ぐあ!? 何だ、てめえの身体……鉄板でも入ってんのか!」
「いいや、ただの筋金入りの根性だよ。――次はこっちの番だ」
更石はその隙を逃さなかった。長年の警察業務で叩き込まれた柔道の要領だ。
よろめいた男の袖を掴み、重心をわずかにずらす。更石の腕は『硬化』を解かず、鉄の棒のように男の身体をロックした。
一瞬の呼吸。更石は最小限の力で男を反転させ、瞬時にコンクリートの地面へと取り押さえた。
「現行犯だ。傷害未遂と公務執行妨害……は付くのかな? まあ、とにかくおとなしくしな」
「は、離せ! これがあれば……この宝石があれば、俺は強くなれるんだ! 神に近づけるんだよぉ!」
組み伏せられた男が、自由な方の手で懐から何かを取り出した。
それは、掌の中で不気味に脈動する、親指大の「ガラス玉のような石」だった。
(……!? あの石、脈打ってやがるのか?)
更石の網膜に、その宝石から発せられる微かな、しかし暴力的なエネルギーの波形が映る。
次の瞬間、男の筋肉がミシミシと音を立てて不自然に膨張を始めた。宝石の出力を過剰に受けた肉体が、更石の拘束を強引に跳ね除けるほどの怪力を生み出していく。
「があああああああっ!!」
男は白目を剥き、再び円錐の腕を振り上げた。宝石の過剰な供給によって、身体能力が先ほどとは比較にならないレベルに跳ね上がっている。
更石は冷静だった。刑事という職業は、自分よりも体格のいい暴漢や、刃物を持った狂人を制圧する方法を嫌というほど学ばされる。
「得体の知れない力に頼るんじゃあない。本物の刑事ってのは、暴力の振るい方を熟知してるんだよ」
更石は襲いくるドリルの拳を、上体をわずかに沈めることで回避。髪の毛一本分を掠める風切り音が更石の耳元を通り過ぎる。
空振りし、前のめりになった男の懐に、更石は自ら飛び込んだ。懐へ、さらに深く。相手の力が最大化される前に、その源泉を断つ。
「せいやぁ!」
更石は男の襟を掴み、腰を深く入れ、渾身の力で一本背負いを繰り出した。
ドリル男の巨体が宙を舞い、重力に従ってコンクリートの地面に叩きつけられる。
「がはっ……」
受け身など知ろうはずもない男は、無様に背中を打ち付けた。衝撃が肺を圧迫し、脳を揺らす。男は一言の叫びも上げられず、白目を剥いて沈黙した。
更石はふぅ、と息を吐き、右腕の金属光沢を解いた。
「さて、一丁上がりだ。……公道でのお遊びはこれまでにして――」
更石が倒れ伏す男に視線を送った、その時だった。地面に横たわっていた男の輪郭が、不意にぼやけ始めたのだ。
最初、更石は自分の目が霞んだのかと思った。だが違う。男の肉体が、足先から徐々に、眩い光の粒子となって霧散し始めたのである。
「何だあ……!?」
刑事としての経験則のすべてを無視した現象に、更石は反射的に数歩後ろへ距離を離した。
男の苦悶に満ちた表情も、異形の右腕も、その重量感さえもが、空中に漂う蛍のような光へと変わっていく。
ものの数秒。光は七月の夜風にさらわれるようにして消え去り、そこにはもう、人の気配も、争った痕跡さえも残っていなかった。
――カラン。
静寂が戻った路上に、乾いた音が響いた。
男が握っていたあの「ガラス玉のような石」とさらに「濁った青色の宝石」の二つの宝石が、無機質な結晶としてコンクリートの上で転がっていた。
「……消えたのか? 人間一人が、跡形もなく」
更石はその宝石に手を伸ばそうとした。だが、それよりも早く動く影があった。
「ひっ……!」
先ほどまで腰を抜かしていた「光の壁」の男が、這いつくばるようにして宝石へと手を伸ばしたのだ。
更石が止める間もなく、彼は石をひったくるように奪うと、怯えた目で更石から距離を取った。
「さて、次はあんたの番だ。まずは事情を聞かせてもらおうかな。被害届を出すなら、正確な調書が必要なんだが」
「あ、あんた何者だよ!?」
更石はなるべく威圧感を与えないよう努めながら、懐から使い古された警察手帳を取り出し、男へ向けて示した。
「おいらが誰かって? これを見ての通りだよ。地方公務員の更石だ。……あんたを襲ったあの男の行方についても、心当たりがあるなら話してほしいんだが」
しかし、その「正義の象徴」であるはずの警察手帳を目にした途端、男の顔には救いではなく、さらに底深い「別の恐怖」が浮かび上がった。
「なっ、警察……!? なんで警察がここに……。嫌だ、俺はもうあそこには戻らない! それに宝石にされるのも御免だ!」
「あそこ? 待て、おい!」
男は宝石を抱えたまま立ち上がり、更石の静止を振り切って、転がるようにして路地の奥へと逃げ出した。
「おい、待ちやがれ! まだ話は終わってねえ!」
更石は老練な足取りで後を追った。角を曲がり、白い壁の民家が続く細い路地へと踏み込む。
男の足音は確かに数メートル前まで聞こえていた。距離は少し離されていたが、視界から消えたのはほんの一瞬のはずだ。
だが。
「……消えた?」
路地の突き当たり。そこには男の姿も、彼が吐き出していた恐怖の余韻も残っていなかった。
代わりに、突き当たりの壁を背に、一体の白大理石の彫刻が、不気味に佇んでいるだけだ。
それは精巧な人間の形をしていたが、モデルとなった人物がいるのだとしたら、その表情はあまりにも苦悶に満ちている。石で作られたその眼窩は、虚無を見つめているようだった。
「……逃げられたのか? それにしては足音一つしなかったが……。まるで最初から彫刻だったみてえじゃねえか」
更石は路地の周囲を見上げ回したが、人の姿も、建物に忍び込んだ形跡もなかった。
ふと、更石は彫刻の冷たい表面を見つめた。刑事としての「現場勘」が、かつて未解決事件の山に直面した時と同じ、吐き気のするような嫌な予感を告げている。
仲間に合流できないまま迷い込んだこの島。
人が光となって消え、代わりに宝石が残る。
この空間で起きている出来事は、単なる犯罪の範疇を、そして更石の知る「法」の世界を、疾うに超えようとしていた。
「どうやら、おいらの有給は……地獄の休日になりそうだな」
更石は、自身の背後にじわりと漂い始めた、不自然に冷たい白い霧から逃れるように、その場を後にする。
背後で、彫刻の虚ろな目が、更石の去り行く姿を見つめているのであった。
その6 終わり




