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【儀式編】第一話 その4:銀の鈎針と剥き出しの残酷

 重い。鉛を流し込まれたような意識の底から、播磨(はりま) 結衣(ゆい)は這い上がった。


 まぶたの裏にこびりついていたのは、学校の中庭で自分たちを飲み込んだ暴力的なまでの白い光の残像。

 視神経を焼くような純白の奔流に抗う術もなく、意識が千切れた瞬間の恐怖が、冷たい汗となって肌を濡らしている。


「……っ……」


 肺に流れ込んできたのは、ひどく冷たく、それでいて鼻を突くほどに甘ったるい、正体不明の香りだった。


 ゆっくりと目を開ける。


 そこは、視界のすべてが「白」に侵食された異様な森だった。木々の幹は漂白されたかのように白く、枝には季節外れの純白の花が、まるで意思を持っているかのように狂い咲いている。

 足元に広がる苔さえもが青白く、立ち込める霧は世界との境界を曖昧にぼかしていた。

 ここが現実の地図に載る場所ではないことを、五感のすべてが告げているようだった。


 結衣はすぐに身体を起こし、反射的に自らの身体を確認した。


 高機能なマウンテンパーカーとタクティカルパンツ。跳ねるような黒髪のボブカット。小柄な体躯を包む装備の上からでも、豊かな胸元の存在感が際立っている。


 着衣の乱れを直し、埃を払うと、彼女は何よりも先に、指先に意識を集中させた。


 そこにある。神から与えられた、この世の理を縫い合わせる異能――『針と糸』(スティッチワーク)の感覚。


 その冷たい感触を確かめると、彼女はすぐさま、最優先事項として刻まれた「彼」の気配を探した。


「如人(なおと)君……?」


 返事はない。


 結衣は自身の鋭敏な直感を研ぎ澄ませた。七篠(しちじょう)如人と出会い、想いを通わせ、正式に恋人となったあの日から、彼女の中には彼という存在の「波長」が、一つの確かな道標として刻まれている。


 神候補となったことで、その感覚はさらに研ぎ澄まされている。

 だが、この白い森からは彼の気配が一切感じられない。


(離れ離れになった……?)


 結衣の胸に、底知れぬ焦燥が鎌首をもたげる。


 如人は確かに、光に飲み込まれる直前まで、自分のすぐ隣にいたのだ。手が届く距離にいた彼が、なぜこれほどまでに何も感じられないのか。


 結衣は自分の心を支配しようとするパニックを、「探偵モード」の冷静な思考で強引に押さえ込んだ。


 まずは移動し、情報を集める。彼がいないのなら、見つけ出せばいい。


 その時だった、カサリ、と乾いた音がした。


 霧の向こう側に、ぼんやりとした人影が見える。 その背丈、肩のライン。


「如人君……!」


 結衣は思わず駆け出した。


 だが、近づくにつれて彼女の足取りは重くなり、心臓の鼓動が不吉なリズムを刻み始める。


(待って……。違う。何かが決定的に違う……!)


 その影は如人の姿を模しているようでいて、その内側にある「魂の熱」が決定的に欠けていた。

 そこにあるのは、獲物の急所をじっと見定める捕食者のような、粘りつく殺気だ。


 人影が、ゆっくりと振り返った。


 そこにいたのは、如人ではなかった。


 汚れたバンダナを頭に巻き、不気味な彫刻が施された笛を手にした口髭を生やした男だった。彼は不細工な顔をさらに醜悪に歪ませ、卑屈な笑みを浮かべた。


「おやおや、そんなに可愛い顔で駆け寄ってきてくれるなんて。手ぶらで迷い込んできたお嬢ちゃんには、私が特別にこの素晴らしい能力をお目にかけようじゃありませんか~」

「……如人君じゃ、ない。貴方は誰ですか?」


 結衣の瞳から、一瞬で熱が消えた。


 落胆はすぐさま、氷のような冷徹な拒絶へと変わる。


 如人がいない。その事実だけで、目の前の男に費やす時間は、彼女にとって「無駄」以外の何物でもなかった。


「ハイ、私が誰ですかって? 私の名は巳波(みなみ) 拓郎(たくろう)。貴方様と同じ『神候補』でございます。……しかし、その様子じゃ何も知らないようですな~初日の『電波塔からのお告げ』を聞いてねえのですか?」

「……お告げ?」


 結衣の脳裏に疑問が浮かぶ。


 電波塔? 自分はそんなものを聞いた覚えがない。


「ハイ、そうです。この島に満ちる『神様』の声ですよ! ここは神様候補の最後の一人を決める儀式の場。負けた方は石になり、勝った者はその能力を喰らってさらに強くなる……。それがこの儀式のルールなのデーっス!」


 巳波はそう言うと、手にした笛を軽く振り、自身の首元で蒼く輝く宝石を嵌めた銀のブローチを見せびらかした。


「この『石』のおかげで、私の『しもべ』はもっと速く、もっと鋭く貴方様を喰らいまーっす。神様がお望みです。大人しくその魂を置いていきなさーい!」


(……何? 情報の乖離がある。この人が言う『初日』に、私はまだ意識を失っていた……?)


 結衣の思考が加速する。だが、それを解析するよりも先に、死神の鎌が振り下ろされた。


「それでは、まいります! マイスネーク、カモンッ!」


 巳波が不快な高音で笛を吹き鳴らす。


 その瞬間、彼の履いていた靴の紐、そして頭のバンダナが生き物のようにうねりながら解け、地面を這い出した。


「……問答無用で襲ってきますか」


 結衣の指先が、微細な震えを伴って閃く。


「『針と糸』(スティッチワーク)――『モード鈎針(かぎばり)』」


 物質を透過する性質を持つ、白銀の「針」が放たれる。


 だが、その形状はこれまでとは決定的に異なっていた。先端が鋭く湾曲し、一度捉えた獲物を決して離さず、強引に引き寄せるための「釣り針」へと変貌を遂げていたのである。


 巳波の操る「紐の蛇」は、これまでの敵とは次元が違う速度で迫っていた。


 左右から挟み込むように彼女の四肢を狙う三匹の蛇。その牙が結衣の喉元に届く寸前、彼女は指先をピアノの鍵盤を叩くように激しく振るった。


 結衣は糸の色を周囲の霧や白い幹と同じ色へと瞬時に染め変え、その存在を背景へと溶け込ませる。


 キィィィィンッ!


 金属音が連続して響く。透過し、迷彩を施された鈎針の先端が、超高速で突進してきた紐の蛇たちの「芯」を正確に引っ掛け、その動きを空中で固定したのだ。


「な、なんですかっ、それはぁ!? 避けてない……私のしもべを、捕まえただと!?」


 巳波が驚愕の声を上げ、さらに激しく笛を吹き鳴らす。蛇たちは結衣の糸から逃れようと身を捩るが、返しのある「鈎針」は一度食い込めば容易には外れない。


「……逃がしません」


 結衣が糸を横に引き絞った。


 鈎針に引っ掛かった紐蛇たちは、物理法則を無視した強引な引力に逆らえず、彼女の意のままに空中で軌道を逸らされる。

 結衣はそのまま独楽のように身体を回転させ、絡め取った紐蛇の勢いをそのまま利用して、巳波自身の足元へと投げ返した。


 偽物の蛇が巳波の足を絡めとる。


「うわっ!? アッ、これこれ! 喧嘩をしてはいけません……!」


 自分の能力に足を取られ、無様に転倒する巳波。結衣は着地と同時に、新たな鈎針を射出した。


 シュッ!


「しまっ……!」


 透過する銀光が巳波の首元のアクセサリーの縁に引っ掛かった。結衣は一気に糸を巻き取る。巳波の巨体は、魚のように地面を滑りながら結衣の元へと強制的に引きずり込まれた。


「私は今、ひどく機嫌が悪いんです。如人君を捜す時間を、これ以上奪わせないでください」


 引き寄せられた巳波の懐へと瞬時に踏み込み、同時に指先から出た別の糸が、巳波の両足首と地面を傷つけることなく「透過」し、その下の岩盤へと瞬時に縫い合わせた。


 これで彼は、衝撃を逃がすための後退すら許されない。


 結衣の右掌に、練り上げられた「気」が収束する。それはかつて、世界最強を目指す男から授かった、唯一にして必倒の攻撃技。


「激流掌(げきりゅうしょう)!!」


 ドォォォォォンッ!!


 小さな掌から放たれたとは信じがたい衝撃波が、巳波の胸元を突き抜けた。内臓を直接粉砕し、体内の「気」を逆流させるかと思わせる程の衝撃。巳波の身体は、地面に縫い付けられた足首が耐えきれず引きちぎれるほどの勢いで後方の巨木へと激しく弾き飛ばされた。


 巳波は幹に深い窪みを作って沈み込み、泡を吹いて完全に沈黙した。


 激闘の後の静寂。


 結衣は乱れた呼吸を整えることもなく、冷徹な目で巳波の身体を見つめていた。


 すると、意識を失った巳波の身体から、突如として淡い光の粒子が溢れ出したではないか。


 光は男の輪郭を奪い、肉体そのものまでもが霧散していく。やがて輝きが収まったとき、そこには男の姿はなく、ただ二つの硬い音が地面に響いた。


 結衣はそれを拾い上げる。


 一つは、妖しく脈動する「蒼い宝石(ジェム)」。

 もう一つは、教団の紋章が刻まれた「ブローチ」だった。


(……負ければ、宝石にされる。この島では、敗北は『死』よりも残酷な『資源』への転落を意味するのか)


 結衣は、手に持った宝石の冷たい脈動を感じ、強い嫌悪感を覚えた。同時に、巳波が言っていた「お告げ」という言葉が胸に刺さる。


(初日からの参加者には、この『ルール』が教えられていた……。なら、その放送が行われた場所……あの電波塔へ行けば、如人君のことも分かるかも)


 結衣は手に入れた「蒼い宝石」を、能力の糸を使って自らの制服の裏地に目立たないよう仮縫いした。


 宝石の恩恵が身体を駆け巡り、感覚がさらに研ぎ澄まされていく。


「待っていて、如人君。私が必ず見つけ出してみせるから」


 結衣は最愛の恋人がこの儀式に参加していない事をまだ知らない。


 成長した『鈎針』の糸を、高く聳える白い巨木の枝に、物質を透過させて深く引っ掛けた。


 その強力な引力を利用して、結衣は霧の向こう側――島の奥に聳える電波塔へと、弾丸のような速度で跳んでいった。


その4 終わり

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