第9話 冬 -手を離さない-
冬の月の宮。
高熱に倒れた姫は、初めて胸の奥に隠していた不安を初めて零す。
その夜、賢木はようやく“守りたい理由”を知ることになる。
その冬、月の宮には珍しく深い雪が降っていた。
夜になる頃には庭も回廊も白く染まり、静寂が雪に吸い込まれている。
姫が熱を出したのは、そんな日のことだった。
最初は少し顔色が悪い程度だった。
だが夕刻を過ぎる頃には熱が上がり、立ち上がることもできなくなっていた。
「姫様、お休みください」
女官たちが慌ただしく行き交う。
賢木は寝台の傍らへ立っていた。
額には濡れ布。
頬は赤く染まり、呼吸も浅い。
こんな姿を見るのは初めてだった。
「賢木様」
女官から薬湯を渡される。
賢木は黙って受け取り、姫の身体を支えた。
「……ん」
熱い。
肩へ触れた指先から体温が伝わる。
「飲めるか」
耳元で声を掛けると、姫はうっすら目を開いた。
焦点の合わない瞳が賢木を探す。
「……にい、さま……?」
「俺だ」
賢木は薬湯を差し出した。
「少し飲め」
姫は素直に口を付けてくれて、賢木は少し安堵した。
その後も賢木は部屋を離れなかった。
薬を温め直し。
濡れ布を替え。
熱を確かめる。
補佐役として当然のことだと思っていた。
だが夜が更けた頃だった。
「……や……」
小さな声が聞こえた。
賢木は顔を上げる。
姫が苦しそうに眉を寄せていた。
熱に浮かされている。
夢を見ているのかもしれない。
「行かないで……」
賢木の動きが止まった。
姫の指先が何かを探すように動く。
やがて、小さな手が衣の袖を掴んだ。
「ひとり……やだ……」
賢木は言葉を失った。
その声はわがままではなかった。
叱られることを恐れる子供の声でもない。
もっと深いところから零れたような声だった。
姫はいつもよく笑う。
誰に対しても気を遣う。
期待にも応えようとする。
だが時折、不思議な顔をすることがあった。
褒められた時。
頼った時。
傍にいると伝えた時。
どこか信じきれないような表情を向ける。
今なら分かる気がした。
この子はずっと不安だったのだ。
胸の奥が小さく痛んだ。
こんな感覚は初めてだった。
「……行かない」
気づけば口にしていた。
賢木は姫の手をそっと握る。
「ここにいる」
姫の指先から力が抜け、呼吸も少し穏やかになった。
その様子を見ながら、賢木は小さく息をつく。
守らなければと思った。
補佐役だからではない。
命じられたからでもない。
もっと単純な理由だった。
この子が泣くのは嫌だ。
不安そうな顔をするのも嫌だ。
ただ、それだけだった。
「……美琴」
自然に名前が零れる。
姫がうっすら目を開いた。
「……にい、さま?」
「大丈夫だ。俺がいる」
その夜、賢木は一度も姫の手を離さなかった。
◇
数日後。
今度は賢木が熱を出した。
姫から風邪をもらったのである。
「兄様!」
部屋へ飛び込んできた姫は、真っ青な顔で寝台の傍へ駆け寄った。
「ごめんなさい……」
泣きそうな声だった。
けれど手は止まらない。
濡れ布を絞り。
薬湯を運び。
何度も熱を確かめる。
「ちゃんと飲める?」
賢木は手際よく準備された薬湯を見る。
少し前まで寝込んでいたとは思えないほどだ。
「……美琴」
「なに?」
「案外、看病が上手いな」
姫は少しだけ照れたように笑った。
「兄様が教えてくれたもの」
賢木は目を閉じる。
胸の奥が温かかい。
姫は再び濡れ布を取り替える。
その横顔は真剣そのものだった。
賢木はぼんやりとその姿を見つめる。
あの日の不安そうな声は、まだ耳に残っている。
けれど今は違った。
姫の手は温かい。
その温もりを感じながら、賢木はそっと目を閉じた。
窓の外では雪が解け始めていた。
春は、もう遠くなかった。




