第8話 秋 -初めての地上-
初めて降り立った地上で、姫は“月にはないもの”に目を輝かせた。
甘い団子の味も、人々のざわめきも、すべてが新鮮だった。
そして賢木は、そんな姫を守りたいと、静かに誓う。
地上へ降りる日は、朝から慌ただしかった。
現地の土壌確認、生育記録との差異調査。
名目上は視察だったが、姫にとっては初めて触れる“外の世界”でもある。
町へ降り立った瞬間、姫は目を輝かせた。
「兄様、あれは?」
「あれは屋台だ」
「いい匂いがするわ」
手を引く力が、いつもより強い。
賢木はそんな様子を横目で見ながら、ため息をつく。
「はしゃぐなよ」
「……努力します」
口ではそう答えるものの、視線と身体は完全に町へ向いている。
焼き菓子
色鮮やかな反物
行き交う人々の笑い声
見るものすべてが珍しいのだろう。
その様子があまりにも年相応で、賢木の口元は自然と緩んだ。
団子を食べた瞬間、姫は目をまん丸にした。
「……なにこれ、おいしい」
みたらしの甘辛さ、焼いた醤油の香ばしさ、もちりとした食感は、月にはない味だった。
月の食文化は淡白だ。
豊穣を司る一族でありながら、“育てること”そのものに重きを置き、味への執着は薄い。
食べられればそれでいい。
そんな合理性の果てに、甘味という概念すら希薄になっていた。
姫は夢中で団子を見つめていた。
「地上は、興味深いところね」
頬がゆるむ姫を見て、賢木は提案する。
「……そんなに気に入ったなら、もう一本食べるか?」
「いいの?」
「視察中に倒れられても困る」
素直じゃない言い方だったが、姫には賢木の気持ちが分かる。
「兄様は優しいわ」
「気のせいだ」
そう返しながらも、賢木はどこかいつもの調子ではなかった。
自分の言葉ひとつで、こんなにも嬉しそうにされることに慣れていない。
◇
ふと、町人たちの声が耳に入った。
「おや、月の一族がいるぞ。地上に降りられるとは珍しい」
「まだ二人とも幼い。次代様だろうな」
その瞬間、姫の指先がわずかに強張った。
視線
期待
評価
それがいずれ、自分へ向く。
姫はまだ幼い。
その重さはまだ分からなくても、自分が特別な立場にいることくらいは理解していた。
賢木は、握った手に力が入ったことに気づく。
だから何も言わず、そっと握り返した。
姫の肩から緊張が抜けていく。
姫はこれから、多くのものを背負う。
重圧も
孤独も
きっと想像以上のものになる。
◇
姫は露店を見るたびに足を止めた。
「兄様、見て。あのお菓子、花の形をしているわ」
「細工菓子だな」
「こちらの布も綺麗……地上は色が多いのね」
月の宮は白銀と淡色を基調としている。
静謐で美しい反面、こうした鮮やかな色彩とは縁遠い。
姫は反物へ手を伸ばしかけて、そっと引っ込めた。
「欲しいのか」
「……見るだけで十分よ」
そう答える声は控えめだった。
賢木は小さく息を吐く。
「遠慮する必要はないだろ」
「でも、視察中だもの」
「お前は真面目だな」
そう言うと、姫は少しだけ嬉しそうに笑った。
その時。
どん、と肩がぶつかる。
人混みの中を急いでいた男が、軽く姫へ触れて通り過ぎたのだ。
「……っ」
姫の身体が小さく揺れる。
賢木は反射的に姫の腕を引き寄せた。
「だから言っただろ。離れるな」
「ご、ごめんなさい」
人の多さに慣れていないのだろう。
姫は少し不安そうに賢木の袖を握る。
賢木はその小さな手を見下ろし、やがて諦めたような表情を浮かべた。
「……ほら」
そう言って、今度は自分から姫の手を握る。
「迷子になられる方が面倒だ」
「……はい」
姫は嬉しそうに頷いた。
そのまま歩いていくと、通りの先に小さな簪屋が見えてくる。
硝子細工の花簪が、陽を受けてきらきらと輝いていた。
「兄様、あちらに簪の出店があるの。行ってもいい?」
「……手を離すなよ。迷子になられたら敵わん」
「はい。離しません」
姫は素直に頷いて、それから小さく首を傾げた。
「……ずっと?」
賢木はぴたりと足を止める。
不意打ちとは、生意気な。
心の中でそう思った。
意味なんて分かっていない顔で、そんなことを言う。
「……そういうことを軽々しく言うな」
「?」
姫はきょとんとしている。
本当に分かっていないのだろう。
だから余計に質が悪い。
耳の奥が熱い。
そんな自分に気づいて、さらに眉をしかめる。
一方の姫は、何も知らないまま楽しそうに簪を眺めていた。




