第7話 夏 -湖にて-
月の宮で過ごした幼い日々。
賢木が初めて“兄様”と呼ばれた、夏の湖の記憶。
月の宮の夏は短い。
涼やかな風が白い回廊を抜け、木々の葉をやさしく揺らしていた。
その日、賢木は珍しく仕事を与えられていなかった。
記録整理も学習補佐も午前で終わり、午後にはぽっかりと時間が空いたため、二人は庭を散歩していた。
「兄さ――」
そこまで言って、姫はぴたりと口を閉じる。
賢木が視線だけを向けた。
「……なんですか」
「ええと……賢木様」
ぎこちない呼び方に、賢木はわずかに眉を寄せる。
「別に、好きに呼べばいいでしょう」
「でも……」
姫は迷うように指先を握った。
本当は、“兄様”と呼びたい。
家族のように、もっと近くで呼びたい。
けれど、嫌がられたらどうしよう。
その不安が、小さな横顔に滲んでいた。
賢木は、姫がなぜそこまで呼び方を気にするのか分からなかった。
呼び名など、ただの記号くらいにしか思っていない。
「行きたい場所でもあるんですか」
その問いに、姫の顔がぱっと明るくなる。
◇
二人が訪れたのは、月の庭園の奥にある湖だった。
水は驚くほど透き通り、青白い空を映している。
姫は湖畔へ駆け寄った。
「きれい……!」
風が吹き、淡い髪が揺れる。
賢木は少し離れた場所から、その姿を見ていた。
月の姫。
豊穣を司る存在。
けれど今は、ただ無邪気にはしゃぐ少女にしか見えない。
「危ないですよ」
声をかけた、その瞬間だった。
つるり。
「きゃっ!」
盛大な水音が響く。
賢木は目を見開いた。
湖の中で、姫がぽかんとした顔をしている。
幸い、浅瀬だった。
「……何をしているんですか」
「す、滑ったの……」
姫は濡れた袖を見下ろし、しゅんと肩を落とす。
賢木は思わずため息をつきながら手を差し伸べた。
姫の手が重なる。
「姫は落ち着きが――」
そこまで言いかけた瞬間。
力を込めて引き上げようとした賢木の足が滑った。
「わっ」
ばしゃん、と二度目の水音が響き渡る。
今度は賢木まで盛大に水をかぶった。
「……っ」
水をかぶった賢木は、しばらく無言だった。
その顔を見た姫が、くす、と吹き出す。
「兄様も落ちた」
「まだ兄様じゃありません」
即座に返したものの、姫は楽しそうに笑うばかりだ。
賢木は眉間を押さえながら立ち上がった。
冷たい水が衣の裾から滴り落ちる。
本来なら、不快なはずだった。
けれど、姫があまりにも楽しそうに笑うから。
怒る気持ちは、不思議と長続きしなかった。
「……帰りますよ」
「えー、もう少しだけ」
姫はそう言いながら、水面をぱしゃりと叩く。
そして賢木をちらりと見上げ、自分から湖へ飛び込んだ。
「……姫?」
「ふふっ」
姫は肩まで水に浸かりながら笑う。
「冷たくて気持ちいいわ」
どう見ても、今度はわざとだった。
水しぶきが賢木の衣へ飛ぶ。
「やりましたね……」
「兄様も来る?」
その呼び方に、賢木はぴたりと動きを止めた。
兄様。
まるで、本当の家族みたいな響きだった。
断るべきだと思った。
馴れ合う必要なんてない、と。
そう思っていたはずなのに。
「……はぁ」
軽いため息がもれる。
気がつけば、賢木も湖へ足を踏み入れていた。
冷たい水が足元を包む。
その隣で、姫が嬉しそうに“兄様”と呼ぶ。
その笑顔を見た瞬間、賢木の胸の奥に、ほんのわずかな温かさが灯った。
——悪くない。
そう思ってしまった自分に、少しだけ戸惑う。
その日から。
姫は賢木を“兄様”と呼ぶようになり、二人にとって湖はお気に入りの場所になった。
そして賢木もまた、少しずつ敬語を崩していくようになるのだった。




