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月影の記憶  作者: しまゆり
第二章 月の姫と賢木の出会い

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第7話 夏 -湖にて-

月の宮で過ごした幼い日々。

賢木が初めて“兄様”と呼ばれた、夏の湖の記憶。

 月の宮の夏は短い。

 涼やかな風が白い回廊を抜け、木々の葉をやさしく揺らしていた。


 その日、賢木は珍しく仕事を与えられていなかった。

 記録整理も学習補佐も午前で終わり、午後にはぽっかりと時間が空いたため、二人は庭を散歩していた。


「兄さ――」


 そこまで言って、姫はぴたりと口を閉じる。

 賢木が視線だけを向けた。


「……なんですか」


「ええと……賢木様」


 ぎこちない呼び方に、賢木はわずかに眉を寄せる。


「別に、好きに呼べばいいでしょう」


「でも……」


 姫は迷うように指先を握った。


 本当は、“兄様”と呼びたい。

 家族のように、もっと近くで呼びたい。


 けれど、嫌がられたらどうしよう。

 その不安が、小さな横顔に滲んでいた。


 賢木は、姫がなぜそこまで呼び方を気にするのか分からなかった。

 呼び名など、ただの記号くらいにしか思っていない。


「行きたい場所でもあるんですか」


 その問いに、姫の顔がぱっと明るくなる。


 ◇


 二人が訪れたのは、月の庭園の奥にある湖だった。


 水は驚くほど透き通り、青白い空を映している。

 姫は湖畔へ駆け寄った。


「きれい……!」


 風が吹き、淡い髪が揺れる。

 賢木は少し離れた場所から、その姿を見ていた。


 月の姫。

 豊穣を司る存在。


 けれど今は、ただ無邪気にはしゃぐ少女にしか見えない。


「危ないですよ」


 声をかけた、その瞬間だった。


 つるり。


「きゃっ!」


 盛大な水音が響く。

 賢木は目を見開いた。


 湖の中で、姫がぽかんとした顔をしている。

 幸い、浅瀬だった。


「……何をしているんですか」


「す、滑ったの……」


 姫は濡れた袖を見下ろし、しゅんと肩を落とす。

 賢木は思わずため息をつきながら手を差し伸べた。


 姫の手が重なる。


「姫は落ち着きが――」


 そこまで言いかけた瞬間。


 力を込めて引き上げようとした賢木の足が滑った。


「わっ」


 ばしゃん、と二度目の水音が響き渡る。

 今度は賢木まで盛大に水をかぶった。


「……っ」


 水をかぶった賢木は、しばらく無言だった。

 その顔を見た姫が、くす、と吹き出す。


「兄様も落ちた」


「まだ兄様じゃありません」


 即座に返したものの、姫は楽しそうに笑うばかりだ。


 賢木は眉間を押さえながら立ち上がった。

 冷たい水が衣の裾から滴り落ちる。


 本来なら、不快なはずだった。


 けれど、姫があまりにも楽しそうに笑うから。

 怒る気持ちは、不思議と長続きしなかった。


「……帰りますよ」


「えー、もう少しだけ」


 姫はそう言いながら、水面をぱしゃりと叩く。

 そして賢木をちらりと見上げ、自分から湖へ飛び込んだ。


「……姫?」


「ふふっ」


 姫は肩まで水に浸かりながら笑う。


「冷たくて気持ちいいわ」


 どう見ても、今度はわざとだった。

 水しぶきが賢木の衣へ飛ぶ。


「やりましたね……」


「兄様も来る?」


 その呼び方に、賢木はぴたりと動きを止めた。


 兄様。


 まるで、本当の家族みたいな響きだった。


 断るべきだと思った。

 馴れ合う必要なんてない、と。


 そう思っていたはずなのに。


「……はぁ」


 軽いため息がもれる。


 気がつけば、賢木も湖へ足を踏み入れていた。


 冷たい水が足元を包む。

 その隣で、姫が嬉しそうに“兄様”と呼ぶ。


 その笑顔を見た瞬間、賢木の胸の奥に、ほんのわずかな温かさが灯った。


 ——悪くない。


 そう思ってしまった自分に、少しだけ戸惑う。


 その日から。


 姫は賢木を“兄様”と呼ぶようになり、二人にとって湖はお気に入りの場所になった。


 そして賢木もまた、少しずつ敬語を崩していくようになるのだった。



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