第十話 炎の中へ
湘南新聞社のカメラマン、水崎航はカメラバッグを持って社用車を降りた。遠巻きに火事を見物している野次馬達の脇を通り抜け、百メートルほど歩きながら現場に接近し見通しの良い土手に陣取った。改めて現場の建物を見上げた。
後続の消防車やポンプ車が到着したようだ。サイレンが止んだ。
白煙が上がっている。公団住宅の——六階の角部屋だ。近隣に同じ形の建物が全部で四棟並んでいる。他の三棟が全く平穏なせいか、炎上している一棟の異常さが際立って見えた。
「水崎くん」
水崎が振り向くと、立花美織が立っていた。
「来てたんですか」
「そういう役割だもの。取材で近くにいたしね」
美織は水崎に並んで、火事を見つめた。
水崎はこの四月に入社したばかりで、昼間は取材メインの先輩カメラマンのアシストをしながら、遅番のときは事故現場や火災現場の取材に駆り出されていた。もともと記者志望だが、カメラマンが不足しているという理由で社会部に配属された。
カメラマンといっても名ばかりで、ミラーレス一眼に触ったのもつい最近。絞りもシャッタースピードも正直、よく理解できていない。実質的に今はまだ研修中という新米社員だ。
美織は入社六年目、社会部に配属されて三年目。上司から実績を高く評価され信頼も篤い。
藤沢市出身で、地域の事件・事故・犯罪のニュースを自分の視点と言葉で伝えることに矜持を持っており、たまに提携サイトでのネット配信にも顔を出すことから、名の売れている記者である。地元経済界とのパイプも太く、有力者達からの人気も高い。
「見てください。延焼しそうです!」
水崎が火元の隣室をファインダーで覗きながら、美織に示した。
400㎜/F5.6の望遠だ。肉眼で見えにくくても、この長玉ならはっきり見える。
「本当だ……」
火元の部屋以外は真っ暗だ。住人たちが避難したか、それとも留守か。だが隣の部屋だけは違った。電球色の間接照明が点いている。だがそれとは違う光——オレンジの炎が入り込んで、揺らめきが勢いを増している。
自主的に避難してきた人々が、消防士に誘導され、エントランス付近に現れた。
「エントランスに住民が何人か見える。私、もっと近くへ行くね」
美織が駆け出すと同時に、すぐそばを人影が通り過ぎて、よろけながら、悲鳴をあげた。
「ああ! まだ中に——! 中にいるんです!」
買い物袋を持った若い女性だ。完全にパニック状態に陥っている。
「かやちゃん!」
美織は、延焼し始めている隣室、そして女性の顔を交互に見た。子どもの名前だろうか?
「——中に居るんですか!?」
女性は頷きながら、子どもの名前を叫ぶだけだった。美織は女性を片手で支えながら、土手の下にいた消防士に駆け寄り、事情を説明した。
その時だ。重い突風が吹き、美織の髪が煽られ、巻き上がった。それはまるで雪が混じったかのような冷たい風だった。美織は目を閉じて風が収まるのを待った。
風は唸りをあげ、巨大なつむじを巻いて、公団住宅の低層階にぶつかり、揺れる電線を持ち上げながら上昇していった。
どうしてそうしようとしたのか——美織は呼ばれたような気がした——そして風の行方を見上げた。
空中に、少女が立って、フワリ、と浮かんでいた。
美織は自分の目を疑った。何かに乗っている訳でも、吊り下げられているようにも見えない。少女の背中からは光の帯が伸び、それは風になびいて揺れていた。
何かのアニメキャラクターのコスプレだろうか。長袖のボディスーツ、赤くキラキラした装飾。闇の中で、燃える炎の照り返しを受けて体はオレンジ色に染まっていた。
その顔は火元の部屋ではなく、隣室の窓を静かに見下ろしている。
水崎も空中の少女を見つけ、少しだけ驚いたが——体が先に反応し、カメラを縦型に構えて夢中でシャッターを切った。
連写で何枚か撮って、背面液晶でプレビューを見た。そこには、オレンジ色に発光する球体が写っていた。
「え?」
再度撮っても結果は同じだった。
「これはまずいぞ……またボスに怒られる」
水崎は美織の元に向かった。
上空で、みなは考えながら、ゆっくり降下していた。まだ出来るかどうかもわからないまま、火元の割れたガラス窓に風を操ってぶつけようと試みた。だが、そんなことは不可能なのか、コントロールが万全でないのか、風は大きく渦を描いて、狙った部屋よりも低いところにぶつかってしまった。
「……失敗だ——」
(そもそも、この変身の能力をまだ全部知らないのだから、自分以外のもの、遠くのものをコントロールできるはずがない。私は火事も、救助も、変身も初心者だ)
(——そうか。風を使うのはまずいんだ。火に酸素を送ることになるから——だから失敗したのか。それは私が潜在意識で思ったから? それとも——)
火元の部屋の隣から泣き声が聞こえる。みなは焦った。子どもを助けるにはどうすれば!?
(じゃあ、空気中の酸素を遮断すれば? ——でも、部屋の中にいる子どもも窒息してしまう。いや、先に火を消すのは間違いだ。子どもを救いだして、避難させてから消火しなくては)
地上から、声が届いた。
「……かやちゃん! かやちゃーん!」
(……泣いてる子のお母さんかな。早く助けなきゃ)
——変身した自分の体は、見えない何かに覆われている。今日、なんとなく感じたばかりで言語化できないけれど。検証も実験も立証もできていないから、ぶっつけ本番だけど。
でも唯一の事実として、ひったくり犯のおじさんを蹴ったときの衝撃の緩和。攻撃と防御を同時にできる何かが、私のコントロール外の能力として存在するはず。不随意筋として心臓が動いているように、意識しなくても発動している力。その力は熱に対しても有効なのか、どうなのか。
みなは覚悟を決めた。
空中を立ったまま滑る様に移動し、ベランダに着地した。窓の奥には炎と煙が見える。火元の部屋から熱が伝わってくるはずなのに、感じなかった。やはり、何かバリアーのようなものが自分を覆っていて、熱伝導を遮断しているのだ。
ガラス戸に手をかけて引いた。かなり重い扉だが鍵はかかっていない。開けると、煙と熱気が一気に溢れた。
美織はスマートフォンをかざして、カメラをビデオモードにすると、液晶ごしに少女を捉えた。手が震えた。だが肉眼で見えているものとは違うもの——球体——が映っていた。それでも録画を続けた。——少女がベランダへ降りる瞬間を、美織は捉えた。
みなが部屋に入ると、すぐそこに子どもがいた。五歳くらいの女の子が、床に這いつくばって、咳き込んでいた。手で顔を覆っている。
炎は、部屋の奥から燃えはじめ、ベランダ側に広がったようだった。
(この子は、本能的に外へ出ようとしたんだ)
みなも、泣きそうになった。
「遅くなってごめんね、もう大丈夫だよ、頑張ったね〜、大丈夫だよ」
みなは女の子を抱き上げ、ベランダに出た。
(私の近くにいれば、バリアーの保護下に入る。もう炎も熱も煙も感じないはず)
この炎を、一気に鎮める方法は? この部屋からも、隣の部屋からも、炎と煙を全部外に追い出してくれたら。
(風よ——)
ガラス戸の隙間から、火の手がまるで呼ばれたかのように、窓側に向きを変えると、煙とともに外に向かって一気に溢れ出て、雲散霧消した。炎はただ燃え尽きて、煙は分解されていった。
一瞬にして炎のオレンジ色が消え、地上からの照明だけがベランダを照らしていた。無惨な焼け跡だけが残った。
女の子はまだ咳き込んでいるが、呼吸も徐々に落ち着くはず。
みなは女の子を怖がらせないように、胸の前でしっかりと抱っこして、ゆっくり——ゆっくりベランダから降下した。
救急車両からの照明がみなに向けられた。構わずにふわりと地上に立つと、人々が驚いた顔でみなを見ていた。その奥の方から、母親と、遅れて救命士が駆け寄ってきた。
「かやちゃん! かやちゃん!」
みなは「もう大丈夫ですよ」と言って、母親に女の子を預けた。
母親は膝をついて娘を抱きしめ、そのまま声を上げて泣いた。
女の子も「うわーん」と泣き始めた。
泣いているけれど、もう心配ないだろう。みなは一歩引いて、飛び立とうとした。
「あの!」
母親ではない、別の女性の声だ。みなは声の主の顔に視線を移した。
長い黒髪を後ろで結えた、知的な感じのスーツ姿の若い女性が立っていた。
(きれいな人。どこかで見た気がする。テレビ局の人かもしれない)
隣に機材を抱えた、カメラマンらしい男性も見えた。
——まずい。
みなは空を見上げ地面を蹴ると、そのまま全力で上昇した。加速を緩めなかった。——暗い空の中に、滑り込むように。
美織も水崎も、避難した住人に取材をしなければならない。頭ではわかっていても、少女が消えた空の一点から意識が離せなかった。
動画には、人の形がかろうじて分かる光の塊が写っていた。暗いためにブレてしまったのか。それでも——確かにそこにいた。
(まるで昔話の天女のようだった。それに、あれはコスプレじゃない——飛んでいたもの)
美織は、風を纏って舞い降りた神秘的な美しい少女の姿を思い返した。何度も、何度も……。




