表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/13

第二幕:遊行寺の密約 ―敗者の選んだ守り本尊―、1. アジール(避難所)の誓い


応永3年(1396年)、相模国。


藤沢の地を叩きつける雨は、すべてを洗い流さんとするかのように激しかった。


「……あそこだ。あそこなら、我らを拒まぬはずだ」 泥にまみれた法衣を纏い、得川 有親ありちかは息を切らしながら、目の前にそびえる惣門を見上げた 。


背後には、同じくボロボロの姿をした息子の親氏ちかうじが、震えながら立ち尽くしている 。


二人は、かつて上野国(現在の群馬県)を本拠とした新田義重を祖とする名門・清和源氏の末裔であった 。しかし、足利尊氏以来続く熾烈な権力闘争に敗れ、残党狩りの刃から逃れるために、故郷を捨てて流浪の旅を続けていたのである 。


たどり着いたのは、時宗の総本山・藤澤山「遊行寺ゆぎょうじ」。


そこは、この乱世において世俗の法が及ばぬ「アジール(避難所)」であった 。


門をくぐれば、たとえ罪人であれ敗残兵であれ、仏の慈悲の下で一命を取り留めることができる 。


「何用か」 門を塞ぐように現れた老僧の前に、有親は地に額を擦りつけた。


「……得川有親と申す。足利の追っ手から逃れ、もはや行く当てもございませぬ。どうか、我らに出家をお許しください」


応対したのは、遊行12代・尊観法親王そんかんほうしんのうであった 。


後醍醐天皇の孫とも伝えられる高貴な血を引くこの門主は、有親の眼の奥に宿る「絶望」と、それ以上に深い「執念」を見抜いていた 。


「追われる身に、名はいらぬ。有親は『徳阿弥とくあみ』、親氏は『長阿弥ちょうあみ』と名乗るがよい 」


尊観の許しを得て、二人はその場で剃髪した 。


名門武士としての矜持を捨て、名もなき遊行僧として生き延びる道を選んだのである 。


しかし、有親には、僧となる代償として、どうしても手放さねばならぬ「重荷」があった。


数日後、三河国へと向かう密命を受けた有親は、尊観の前に一体の像を差し出した 。


それは、人肌に温められた薄暗い奥殿で、不気味な光沢を放っていた。


とぐろを巻いた蛇の体。その上に乗る、深い皺を刻んだ老人の顔 。


人頭蛇身の異形――宇賀神の像であった 。


「これは、我が家系が代々守り本尊としてきた神でございます 」


有親の声は、雨音に混じって低く響いた。


「我ら得川の血脈は、足利に敗れ、泥を啜って生きてまいりました。……上人様、願わくばこの像を、この遊行寺の聖域に隠し祀らせてください。そして、これに添えたる私の願文ねがいぶみを、末代まで神前に掲げてください」


有親が震える手で記した自筆の願文には、僧の慈悲とは対極にある、凄まじい「欲望」が綴られていた 。


『願わくば、蛇の御霊よ。我が子孫、百代の末に至るまで、この世のあらゆる金、衣、食、住、そして田畑の豊饒を与えたまえ。特に、黄金の福徳を一族の血に刻みたれ 』


「徳阿弥よ。この神がもたらす富は、命を育む水であるが、執着すれば己を飲み込む毒ともなるぞ」


尊観の諫めに対し、有親はただ、銀色の光を放つ宇賀神の瞳を見つめ返した。


「構いませぬ。一族が絶えることの屈辱に比べれば、毒など甘露に等しい」


有親の次男・泰親(独阿弥)が三河の土豪、松平家の婿養子となって旅立つ際、この宇賀神像は「宇賀神社」として正式に遊行寺に奉納された 。


後に徳川家康が三河を統一し、天下人へと登り詰める8代前の出来事である 。


有親が願った「子孫繁栄」の誓いは、宇賀神という名の蛇に食い込ませた毒矢のように、数百年の時を超えて徳川の血脈を押し上げ続けた 。そしてその「契約」の証拠は、幕府が公式記録から抹殺した『三河平井記みかわひらいき』の中に、現代まで封印され続けてきたのである 。



藤沢の雨は、有親が流した血の涙を覆い隠し、宇賀神の像は遊行寺の地下深く、その暗闇の中で静かに獲物を待ち続けていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ