第一幕:黄金の鱗と名字の呪縛、3. 禁忌の儀式「浴酒」の再開
第一幕:黄金の鱗と名字の呪縛
3. 禁忌の儀式「浴酒」の再開
雨音だけが支配する夜の鹿沼。祖父・翁が遺した土蔵の地下室で、宇賀神蓮は震える手で一冊の和綴じ本を捲っていた。
『宇賀神王浴酒修行次第』。
墨痕鮮やかに記されたその表紙には、天台密教の秘法であり、比叡山無動寺や上野不忍池の辯天堂などで今も極秘裏に厳修されている「浴酒供」の作法が詳述されていた 。
「……人肌に温めた清酒に、白檀香と丁子を煮出した香水を混ぜ、御尊像に注ぐべし 」
蓮は強迫観念に駆られるように、台所で酒を温め始めた。
巳波が図書館で語った「徳川の裏の神譜」という言葉が耳の奥で鳴り止まない。
ボウルに張った湯で酒を人肌に温め、祖父の薬箱から見つけ出した古い香料を調合する。白檀の甘く重い香りと、丁子の刺激的な香りが混ざり合い、蔵の中に異様な芳香が立ち込めた。
地下の祭壇に鎮座する、あの人頭蛇身の石像の前に蓮は座した。
「……始めます」 独り言ちて、彼は温めた酒を柄杓で掬い、老人の顔を持つ蛇の頭頂部から静かに注ぎかけた。
瞬間、蔵の空気が凍りついたように静止した。 石像に注がれた酒は、まるで乾いた砂に吸い込まれるように、像の表面へと消えていく。それと同時に、蓮の左腕に刻まれた銀色の「鱗の痣」が、内側から発光するかのように強く脈動し始めた。
「熱い……っ!」
激痛と共に蓮の視界が歪む。蔵の壁が溶け出し、風景が激しく流転した。
気づけば蓮は、深い霧に包まれた見知らぬ寺の境内に立っていた。
正面に見えるのは、朱塗りの門と「藤澤山」の扁額。
1396年(応永3年)、相模国――藤沢の遊行寺だった 。
「……頼む。この像を、この聖域に隠させてくれ」
泥に汚れ、ボロボロの法衣を纏った一人の男が、高貴な僧の前に跪いていた。
男の名は、得川 有親。
後の徳川家康より数えて9代前の先祖である 。彼は足利氏との戦いに敗れ、残党狩りから逃れるために、当時、治外法権の聖域であった遊行寺へと辿り着いた「流浪の民」だった 。
有親を迎えたのは、遊行12代の尊観法親王だった。後醍醐天皇の孫とも称されるその高僧の前で、有親は懐から一体の像を取り出した。
それは、蓮が蔵で見つけたあの「人頭蛇身」の像と瓜二つだった 。
有親は震える手で自筆の「願文」を像に添えた。
「我ら得川の血脈を、末代までこの世の富と繁栄で満たしたまえ。その代償として、我ら一族は『蛇の魂』を背負い続けん 」
それは、戦の勝利ではなく、執拗なまでの「子孫繁栄」と「財福」への飢えが生んだ、蛇神・宇賀神との血の契約だった 。
有親はこの地で出家し「徳阿弥」と名を改めたが、その背中には、蓮と同じ銀色の鱗が這い回っていた 。
「宇賀神さん! 起きて!」
巳波の鋭い声で、蓮は現代の蔵の床に引き戻された。
「……巳波さん、なぜここに」
「あなたの蔵から、あり得ないほどの霊的エネルギーの波動(あるいは不自然な芳香)が漏れていたから。……見てください、あなたの腕を」
蓮が左腕を捲ると、鱗の痣は肘を越え、肩の近くまで広がっていた。
しかも、その鱗の一枚一枚が、硬質で冷たい金属のような光沢を放っている。
「神との同化が始まっている……。これが、徳阿弥が遊行寺で誓ったことの結末なの?」
その時、蓮のスマートフォンが、けたたましい通知音を鳴らした。
「まただ……」
画面には、彼が数年前に冗談半分で購入し、完全に放置していた無名銘柄の仮想通貨が、数万倍に暴騰しているという信じられないチャートが表示されていた。
口座残高の桁が、蓮の理解を超えて増え続けている。
「宇賀神は、仏教語で『財施』を意味する宇迦耶に由来するという説があります 。
でも、この神が与えるのは『ただの富』じゃない」
巳波が像を見つめて呟いた。
「それは、人間としての実体を削り取り、黄金の鱗へと変換していく、呪われた代償行為なんです」
窓の外では、己巳の日――弁財天と宇賀神が最も力を強める縁日が、刻一刻と近づいていた 。
徳川が遊行寺に預け、後に家康が江戸城へ隠したとされる「黄金を生む蛇」の力が、今、宇賀神蓮という依代を通じて、現代に溢れ出そうとしていた。




