第一幕:黄金の鱗と名字の呪縛、2. 名字の特異点と郷土史の断片
佐野市立図書館の最奥、一般利用者が立ち入ることのない郷土資料室の「特別閲覧席」は、古書の黴臭い匂いと静謐な空気に満ちていた。
その机を占拠するように、膨大な古文書と格闘している一人の女性がいた。
巳波――。
彼女は単なる郷土史家ではない。
京都の大学で平安時代前期の神祇政策を専攻し、一部の専門家の間では「失われた社家記録の解読者」として知られる新進気鋭の研究者だった。
現在は栃木県立文書館の外部協力員として、下野国における中世大名の領国支配と、神階昇叙――すなわち神に位を授ける国家政策の相関を調査している。
「……統計のバグじゃない。これは、数百年にわたり意図された『沈黙の痕跡』です」
宇賀神蓮が差し出したタブレットの画面を一瞥しただけで、巳波はそう断言した。
画面には、彼が独自のアルゴリズムで作成した名字分布のヒートマップが映し出されていた。
「見てください、巳波さん」蓮が声を潜めて説明する。
「僕の名字『宇賀神』は、全国におよそ5,900人から6,000人ほど存在する。珍しい名字ではあるけれど、問題はその密度です。全人口の半数を超える約3,300人が、この栃木県だけに異常な密度で集中している。特に鹿沼市では名字ランキングの9位、宇都宮市でも1,100人を超える人々が同じ名字を名乗っている。
東京のエンジニアである僕にとって、この数字は明らかな異常値です」
巳波は眼鏡を直し、自身の著書『中世下野における在地有力者と宗教権威』の抜き刷りを蓮の前に置いた。
「宇賀神さん。あなたの名字は、穀霊神・福徳神である『宇賀神』を祖神や守護神として仰いだ家系が名乗った『創賜姓』です。しかし、これほどの地域偏在性は、単なる信仰心だけでは生まれません。そこには、歴史から消された『敗者』の生存戦略があったのです」
彼女は、白手袋をはめた指で一冊の古びた家系図の写しをなぞった。
「この地をかつて治めていたのは、平将門を討った英雄・藤原秀郷(俵藤太)を祖とする佐野氏です。宇賀神氏はその有力な武士団として、鹿沼の千渡城などの要衝を守っていました。秀郷には龍神から『尽きぬ米俵』を授かったという伝説がありますが、それはこの地の豊かな地下水脈と農耕技術を象徴しています。しかし、慶長19年(1614年)、佐野氏は突如として改易――すなわち領地を没収されました」
「……改易? 佐野信吉でしたか。理由は確か、江戸の大火に無断で駆けつけた不敬だと」
蓮の言葉に、巳波は冷ややかな笑みを浮かべた。
「表向きはね。しかし、神祇政策を研究する私たちが注目するのは別の側面です。信吉は江戸の大火の混乱に乗じて、徳川家康が江戸城内に隠し持っていた『あるもの』を奪い返そうとした。それが、家康の逆鱗に触れた真の理由だという伝承が、社家の記録に残っています」
巳波は蓮の左腕、銀色の鱗のような痣が隠された袖を鋭い眼差しで見つめた。
「改易によって社会的地位を失った旧臣たちは、下野の地に潜伏しました。彼らは自分たちの絆を隠しつつも、主君が守ろうとした『神の正体』を忘れないために、あえて『宇賀神』の名を名字に刻んだ。つまり、この栃木に溢れる宇賀神姓は、徳川の支配に対する数百年越しの静かな抵抗の暗号なのです」
「徳川が、そこまでして隠したかったものとは……」
「徳川の始祖・徳阿弥は、足利氏に追われて流浪の末に藤沢の遊行寺に逃げ込んだ『アジール(避難所)』の住人でした。彼は旅立つ前、子孫繁栄の願文と共に自身の守り本尊である『宇賀神像』を寺に安置した。徳川260年の栄華は、この時、蛇神との間に結ばれた血の密約によってもたらされたものです。……家康が晩年、自らのルーツに深く関わる宇賀神信仰を公式記録から消し去り、日光東照宮という新たな権威で塗りつぶそうとした。その際に、秘密を共有していた佐野氏が邪魔になった。そう考えるのがミステリーとしては美しいと思いませんか?」
巳波は、遊行寺に秘伝されてきた『三河平井記』という、幕府が禁書とした資料の写しを机に広げた。そこには、徳川家康の没後に書かれたとされる、一族の「本当の出自」と蛇神の呪縛についての記述があった。
「あなたが祖父の蔵で見つけたあの石像は、かつて佐野氏が家康から奪い返そうとした『真本』の一部かもしれません。宇賀神さん、あなたの腕に現れた鱗は、四百年前に封印された徳川の裏の神譜が、現代に開帳された証拠です」
窓の外では、五月の雨が激しさを増していた。
蓮は自分の腕に走る脈動を感じながら、名字という名の鎖に縛られた巨大な歴史の闇に、足を踏み入れたことを自覚した。




