枯れた溝
「怒ってるんですか。大勢を巻き込んだから」
立ち上がった彼の身長は、数え年で七、暦では六年分に育つ平均よりもずっと高い。無理に成長を促進された身体は、少年の負担になってはいないだろうか。
「違う」
「じゃあ、上の誰かがそう言えって、時間稼ぎをしろって」
「違うよ。巡」
「ならどうして? ……どうして! ボクのことを恨んでもいい、愛せないなら他のものを、開き直って罵っても懇願でも謝罪でもなんだっていいから!」
「許してくれなんて絶対言わない謝りもしないそんなの全部自己満足だ!」
言った側だけ勝手に救われる、最悪の手段だ。
足元に、顔のない蛇が巻き付いてくる。脚を柱に見立てた泥が螺旋を描きながら這い上がり、ついに胴まで到達する。脇腹から、胎児を収めていた下腹にかけて、新しく浅い切り傷が刻まれた。
「淡い期待を潰すために、貴女はここまで来たっていうんですか」
愛を恋う声へ、軽蔑が混じる。けれども全ては塗り変わらずに、投げ入れられた石の波紋で、彼の凪が期待と絶望の狭間で揺れていることも、分かってしまう。汚れきった装飾に囲まれた部屋にあってなお、少年の精神の器に溜まっている水は、それ以上に濾過のしようがないほど純で、年相応に幼いものだった。
「……アンタには納得できないと思うけどさ。それは、お互い様だろ」
敬語もどきを外して話すなんて、随分久しぶりな気がする。最近は年上ばかりに囲まれていたせいか、瞳を見開いて肩を震わせる少年が哀れで、握った拳へ爪が食い込む。これは、同情から来る憐憫だ。誰に与えられた名前なのかすらも知らない目の前の子どもに、昔の自分がされたことを一層酷くしてぶつけているとよく理解しているからこそ、気紛れな善人にだけはなってはいけない。彼の求める母親を演じることすらできないのに、思わせぶりな態度で希望だけを抱かせるなんて、どんな加虐よりも悪質だ。
「でかい声出して、悪かった。ビビらせて押し通そうとしたんじゃねえから」
光を隠したカーテンの向こう側で、重量のある塊が繰り返し窓にぶつかっているのが揺れで分かる。やがて他の壁面も軋み始めて、ポルターガイストが小洒落た照明や本棚を壊していく。静かな本人の怒りと不満とその他の感情諸々が、悪しき養分として穢れに作用しているのだと察せた。世界が崩れる直前のような有様を引き起こしたトリガーは、誰に指摘されずとも分かっている。この場を一番手っ取り早く収めるには、ただ、彼を慈しんでやればいい。
それでも。決して、撤回はしない。今限りの解決は、生涯この少年へ偽りの拠り所を与えてしまう。その虚しさと寂しさに気付くのは、彼にとってはさほど遠くない未来のはずで。嘘によって構築された、お互いを苦しませるだけの延命処置を施すつもりは、毛頭なかった。
「気持ちを変える以外、オレ一人で完結することなら何でもする。他の人間を巻き込むのもナシだ」
「なら、あの男を殺して」
「センセは駄目だ。オレだけにしろって言ったろ」
噛んだ唇を、眩むほど鮮やかな原色から溢れた塩水が濡らす。女の首へ、掻き出された大腸のような感触の黒がするすると巻きつく。戦国の天下を争った三人の性格を表す歌の題材となったほととぎすは、漢字で「不如帰」とも書くのだったか。
特筆する膨らみもない胸へオートマチックの銃口を突き、卵型の爪が飾られた一回り小さな紅葉を拳銃の持ち手へと導いて、自分の掌と重ねる。押さえつけられた血脈の鼓動が、ポリマーフレームに吸われていった。
「いわくつきの代物だけど、本気でやれば出来るはずだ。ここの輪っかに指を入れて、引くだけ」
幸運にも、誰もが簡単に扱える仕組みの凶器が、自らの武器としてあてがわれていた。
「……イザナミとカグツチの神話なら、辿っていい」
原典なら、出産の際に産道を焼かれたことが母親の死因となるのだが、結果の再現だけなら簡単だ。赤子が火の神であったが故、不可抗力の延焼だったのだろうイザナミとカグツチを鑑みると、今回は明確な合意の下で行われるため、それが多少の差異にはなるか。包んだ手は、女でも容易に扱える殺人の道具に添えられたまま、こちらの覆いを振り払おうとはしてこない。
「だけどさ。死んでも、オレはアンタに対して、今ある感情の他にどんな思い入れも持てないよ」
蠱毒だ。これ以上傷付けたくはないけれど、飾らない一言一句が呪いになってしまう。慈悲で憎まないのではなく、心が離れすぎているから憎めないのだ。ハリネズミの万倍鋭い棘でしか交差しない母子二人は、己が知る限り、およそ家族と呼べる関係ではなかった。




