渇きの種
自ら望んで隔離された扉の奥は、ちょっとした会議室ほどの広さがあった。建設された当初はまさしくその用途を想定されていたのだろう空間は、今や、妙にがらんとした子ども部屋として機能しているようだった。飴色の革が隙なく張られたソファへ座る少年が中心に据えられた世界には、道中と変わりなく濁った空気が満ちていた。センタープレスもつけられた上等な彼の洋服には、濃い墨汁が滲んだかのような黒が点々とこびり付いており、黄金色の瞳の焦点は不安定だ。明らかに危険な状態に陥っている姿へ歩み寄ろうとして、穢れの弾力とは違う質量にぶつかった足元を見遣ると、虫の息でのたうつ成人男性が芋虫のように縮こまっている。
「ちょっ、……とオイ! 返事しろ!」
明らかに巻き込まれただけだと分かる、使用人らしき若者の意識を確かめようとすると、自分が彼へと伸ばした手が触れるより先に、救護対象が黒の肉壁に取り込まれた。動作のキャンセルが間に合わなかった指先は、僅かに体温が残っている床へと着地する。
「ボクに、会いに来てくれたんでしょう。よそ見なんて、嫌です」
変声期前の喉から絞り出されたボーイソプラノには、荒い砂を飲み下したかのようにざらついた異音が混ざっている。見返した眦は細められ、白く幼い唇にこちらへきて欲しいと願われてしまえば、被告人は希望の形を取った命令に従うしかない。化け物に呑まれた患者は、きっと、地下で自分の身に起きたようにどこかへ放られただけなのだと、根拠のない希望的観測を不安に説いて落ち着ける。やるべき順序、とるべき行動の最優先を、改めて左右の脳へと言い聞かせる。ここで選択肢を間違えてしまえば、罪のない犠牲がいたずらに増えるばかりとなるだろう。その「犠牲」には、当然、巡も頭数に入っている。
穢れた玉座へと身体を向けると、床を埋めていた墨液は、モーセが割った海を模して道を空けた。死後に地獄で執り行われるという裁判の真実は下っ端が知るところではないが、弁護も役人もいない法廷へ自身を呼びつけてきた相手へ一歩、また一歩と進み寄るための足が重くなるのは、後ろめたさが血管へ鉛を通わせるからだ。咥内が渇く。忘れようと目を逸らし続けた七年前の胎児が、母親譲りの鮮やかな眼で射抜いてくる。椅子に座したままの巡と目線を合わせるために、ベルベットの絨毯へと跪いた自分は、きっと酷い顔をしているはずだ。奥歯が擦れた振動が、骨を通して鼓膜を揺らす。
「ああ、嬉しい! やっぱり見捨てないでいてくれたんですね。ボク、ずっと寂しかったんです。本当に愛してくれるのは貴女しかありえないのに、どんな朝に目覚めても母上がいないから」
両頬を包む紅葉の手に、背筋へ氷の釘を打ち込まれる。間近でかちあった瞳孔は変わらず胡乱で、こちらと話すしかない体勢をとっているにも関わらず、誰にともなく謳うように嘯き続けた。
「だって、カグツチもクラスメイトも周りの大人も先生も本も学校も誰も彼も、みんなこう言うんです。母親は、子どものためなら何でもしてくれる、何をしても最後には赦して、愛してくれるって。辞書には照れくさくてはっきりとは書いてないけど、血の繋がりそのものが、免罪符になるんだって」
「……巡」
「当たり前ですよね。子は親を選べないから、作った以上は責任を取るのが普通で常識で正しいことだから。分かってます、知ってますよ、ボクを身籠ったのは望んだ結果じゃなかったから、気が動転していたんだって。でもほら、こんなに立派に育ちました、一番手のかかる赤子の時期も終えて、勉強も運動も両立して、そうだ、生徒会長だってしているんですよ。みんなに認められた、自慢の息子になれましたよね? 頑張ったねって言って下さい、大好きだよって、そうしたらボクも大好きって言えるんです、ねえ、母上、ようやく親子として会えたんだから早く」
「やめろ」
語りながら、こちらの身体へ腕を回して抱き寄せようとした少年を、堪えられなかった拒絶でもって強く振り払う。迷子の顔で呆然とする彼は、話の途中だった小さな口を開けたまま、蛇の目でひたりとオレを見据えた。
ははうえ?
大気の濃度が、呼吸すら苦しくなるほど段違いに重くなる。火花が脳で散ったのは錯覚だったのか、それとも現実か。耳鳴りするほど静かな部屋で、心臓が無理に駆動する脈が体内に響く。百の蛇に睨まれてもこうはならないだろうと想像できる八百万の視線が、澱みを凝結して形取られた眼球の群から、鋒を首へ沿わせるように鋭く放たれている。全身に刺さる敵意の根源たる彼の飢えは、この手で蒔いた種の渇きだと分かっていても、伝えなければいけない。お互いに、認めなくてはならない。
短く止めた息を、気管から押し出す。彼を子宮に宿してからずっと、どんなに曲げようとしても変えられなかった本心を、感覚の薄い舌へ積んだ。
「オレは、嘘でもアンタを愛せない」




