五分の二
縫い目を無理に引き割いたかのような開眼を果たした澱みの塊は、封印直後ということも相まって、アドバンテージである巨躯をまだ完全には動かせないらしい。かといって、今すぐに攻められるほどの隙があるわけではなく、数多の瞳のうち必ず一つはこちらを捕捉しているし、牽制のための触腕も、自身の間合いに張り巡らせている。
ぐんぐんと膨らんでいく、解き放たれた化け物の変化に眉を顰めていると、ふと、あることが頭に浮かんだ。
(センセって、こいつが見えなかったんじゃ……)
そうだ。あのアパートでの一件の際、特殊な聴覚を備えていることが分かったのは彼で、自分にとってのそれは視覚だった。五感として数えられるそれぞれの情報は、一見すると比重が等しい要素にも思えるが、即座に正しく反応することが求められる今の状況を鑑みれば、どちらが欠けている方が不利かなど、考える時間がなくても分かる。致命的過ぎる事実に気付き、啖呵を切った勢いと頭が、急速に冷えていく。
――逃がすべきはオレなんかじゃなくて、アンタ自身じゃないか!
最悪、音が無かったとしても、見えてさえいれば正面からの攻撃は避けられる。しかし、得られる情報が音しかない中で動くだなんて芸当は、それこそ蝙蝠や海豚のような、そのために進化を繰り返してきた種族でしかありえない。百歩譲って、攻撃される方向が荒く分かったとしても、手段、打撃範囲、速度といった細部まで確認しないと、躱しきることは困難なはずだ。山のように聳え立ち、あたかも鈍足に見える異形だが、実のところ、コイツは俊敏な動きだってできるのだ。
咄嗟に振り返ると、すぐ近くにいた乾と目が合った。彼の目も暗闇に慣れたからだろうか、よく見るために凝らされた同じ色の瞳は、確かに視線が交わっていた。
「せんせ――」
瞬間、悪寒が背中を駆け上がった。自分が後ろを向いたことで背後に移った化け物の気配が、一気に増幅したのだ。半ば無意識で彼を奥へ押しやろうとして伸ばした腕は、その勢いを殺さないまま相手に避けられ――「体をそのまま背に回され、庇われた」。
刀身を覆ったままの鞘で伸びてきた闇を留めている腕は、間違いなく彼のものだ。右手で自分を後ろに回し、左手で鍔に親指をかけて握った大脇差が、二人をまとめて潰そうとした異形の拳を、艶のある鞘で抑えている。凪ぐように弾かれた触手は、速やかに本体へと戻っていった。
「走れ!」
鋭く飛ばした指示と同時に彼が足を向けたのは、明らかに穢れとは逆方向の、正しい逃げ道。刀を離さないままの左腕で背中を押されて、前傾になった体を支えるべく脚を前へ交互に動かせば、いつしか、命令された通りに走っていた。
「ね、ねえセンセ、黒いの見えてんスか!」
動きは止めずに、標的から距離を取りつつ叫び聞く。形成がおおよそ終わったらしい化け物の、遠ざかりながらも雄叫びが薄く聞こえ……「聞こえ」、て?
「ぼんやりとだが、見えてる! 目玉がやたらついてる化け物、で間違いないな?」
「……うん、そう! でかい奴!」
どうしたことか、己の耳も変だ。聴けるはずのない、聴いたことのないそれの声と思しき不愉快な音を、紛れもない自身の鼓膜で拾っている。少し大きな喚き声が聞こえたと思ったら、隣の彼は、酷い頭痛がしたかのような表情で右耳を抑えた。きっと本来は、そうしていないと耐えられないほど煩いものなのだろう。そうなると、今の自分達は、感覚を一部だけ共有しているか、相手に感化されて互いの能力を開花させたことになるのだろうか。
十分に距離を取ったと判断して、アイコンタクトでタイミングを合わせて振り返る。どうにも壁には着かないが、地獄の空間がどうこうと説明されたことを鑑みると、地の果てを期待して動くことは避けるべきだろう。
「あのさ! オレもうっすら、超不愉快な声聞こえてるんスけど!」
丁度に聞き取った波のある音の存在を伝えると、間違いなくそれが化け物の声だと応えられた。反らせない視線の先、ターゲットが膨れ上がる速度が、かなり緩やかになってきている。悲しいかな、敵方の準備はもうすぐ整ってしまうらしい。
「一体どういう……。いや……そうか」
「ちょっと、一人で納得しないでってば」
とりあえず、貰ったばかりのグロック一七をきっちり持ち直し、人差し指を伸ばして添える。撃ち方どころか、構え方までゲームの見様見真似になるのだが、本当に大丈夫なのだろうかという一抹の不安が頭に居座る。
「あくまで仮説なんだが……ここはあの世に近い場所で、現世の制約が薄いから、向こうの力も増幅しやすいんだろう? なら、俺たちの超能力的な素質とやらも、科学信仰の強い地上より、『霊や、霊力が存在するからこそあの世がある』として当たり前に認められる場の方が強まるのではないか、と」
うっかり落とさないようにか、爪が角張った左手へと巻きつけていた刀の下緒を緩めつつ、彼は言う。最初はこちらに語りを向けていた教師だったが、段々と、言葉の範囲を独り言へと狭めていった。
「狐塚さんが言っていたことも……特出している部分ではなくて、ないはずの部分が補われるのは、一体どんな仕組みなのか……」
「えっと! つまり?」
「……つまり、体の異常というより、場で強化された結果だろうって話だ」
考え事に夢中になりかけていた彼の眼前に割り込めば、どこを見るともなく見ていた薄い色の焦点が、自分の方に定まる。どうやら、考え事タイムを無事に中断してくれたようである。
「なら良かったっス」
意識戻してくれて、とこっそり内心で呟いて、改めて討伐目標の方角を見つめる。遠目から見ても、その体躯は封印する前よりも大きく、漏れ出ている瘴気も濃い。アパートでは五本か六本を生やすのが精々だった腕の郡は、軽く確認しただけでも、二十本をゆうに超えているのではないだろうか。思わず力を込めた掌、ハンドガンを握る手袋へ、緊張から来る汗が布地へ沁みる。この武器は、標的へ通用するのだろうか。
「猫間」
「ん、ん? なに?」
会話が続いているつもりはなかったために、隣人からの呼びかけを聞き逃しそうになった。生徒だった頃は、「猫間」などという動物由来の偽名ではなく、当然のように本名で呼ばれていたから、それ以外の呼称で呼びつけられることに慣れていないのだ。耳をそちらに傾けて、次の言葉を待つ。
「確か、澱みは思念の塊だと、前に説明されたよな」
「ああ、うん。それはそうっスね」
『澱みっつうのは、思念の残滓が凝り固まって、人の噂を寝床にしてでっかくなる上、早々消えない。有り体に言えば、穢れだな』
狐塚が同行してくれていた前回、この通り教えられた覚えがある。塊と言い換えても、さしたる問題は生じないだろう。だが、それがどうしたというのか。
「なあ。多分奴さん、そろそろ待ってくれないっスよ」
また考え始めたことに焦れて彼を覗き込むと、意外にも視線の先は定まっていて、凝らした目で異形を見据えていた。
「お前、絶対怪我するなよ」
「え、ちょ、っと」
刀身を抜き去り、殻になった鞘は左膝をつく形で地面に置いた乾が、説明を省いたまま黒の根源へと走り去ってしまった。




