二世界の継ぎ目
提灯が発する橙色の炎の余波で揺らめく空気、その範囲に重なる部分だけ、狐の装束が和服に透ける。会議室で局員らが一堂に会した際に変化してみせた衣と、人のそれとは位置も形も異なる獣の耳に加えて、足元にも黒い尾が低く垂れていた。靴裏に光をもたない彼は、一歩ずつは大きいものながら、音は器用に消された歩みで人間たちに近付く。距離を狭めた彼が持つ明かりを受けた、自分やセンセの装束までもが、スーツではない不思議な文様と生地を浮かび上がらせている。着物や浴衣ともまた違う、生成りの淡い色彩を幾重にも重ねた端の袖口は切りっぱなしで、十二単とも異なっていた。着ている感触は三つ揃えそのままであるのに、照らされた箇所には別世界が投影されているかのようだ。ちらちら見える幻に一番近いのは、座学で目にした、我が国古代の装いか。
「ここはちっとばかし特別な場所でなァ。あの世とこの世の境界が希薄なんだわ」
そう言った彼は、提灯の取っ手を自身の顔のほど近くまで高く掲げ、辺りをぐるりと見回す素振りをしてみせる。光が届いたはずの来訪者以外の範囲は、その実何も照らされることなく、黒のまま黙りこくっている。二人分の呼吸も、無意識のうちに浅く静かに変わりながら、よく通りつつも反響しない独特な上司の声に耳を傾けていた。
「習ったとは思うが――地獄の所在地として古くから一つ伝えられてンのが、峡谷や崖の下でよ。丁度ここにもそういう深い大地の裂け目があったのを、土地の埋め立てついでにこっそり空間を作って、活用してんのサ」
秘密基地みたいなモンだと付け足す獣人が纏う雰囲気は、地上で見たそれよりもさらに縁取りが曖昧で、掴みどころがない。
「それで、そんなヤベー場所でオレらは何すんの」
試用期間の二の舞か。半信半疑の納得寄りな心持ちで尋ねると、狐塚はぱっと人好きのする笑みでこちらへ焦点を合わせ、いかにも楽しげに目を細めた。
「武器に慣れてもらいつつ、いっちょ訓練を。な」
胸元に手を差し込んだ彼が取り出したのは、以前ボロアパートで用い、穢れを飲み込んでいた、紙幣のような長方形の手漉き紙。縁取る真紅の模様は血流のようにうねり、文字を扁平にして乱れさせた線が中央を陣取っている。
「前におまえさんらを手伝わせて封じた穢れ、コレを解き放つ。んで、今度こそ消滅までやってもらえりゃ終いだが……さっきも言った通り、ここはあの世と近い場所でよ。自然、地上にいる時よりも現世の抑制がないお相手さんの勢いは増す。手強い覚悟をしとくんだな」
「今回、アンタの手助けは」
「ない。おまえさんらがどうなろうと、おれはただの観客に徹する」
のらりくらりとした態度が印象強い分、明確な否定は珍しく聞こえた。基礎の修練は昨日が区切りで、いよいよ本格的に業務を意識した段階に入るのか。訓練と銘打ちつつ、期待されている成果として、穢れ退治の完了以外に終わりは皆無だと察する。
「狐塚さん」
「うん?」
乾の声はここでも通る上、自前の目もすっかり暗さに慣れてきて、彼の表情もどうにか見てとれる。真剣な、凛とした顔つきは、担任としての当時を思い出させると同時に、あまり望ましくない予感がした。
「猫間の体調が優れないようなので、こいつだけ帰らせてやって下さい。訓練は俺だけでやります」
ああ、全くもうこの人は! 案の定が過ぎる言葉を遮るにも、こうなったら聞いてくれないと知りすぎている。打診された狐塚はといえば、片眉と片方の口端を上げて黙るばかりで、イエスもノーも発してこない。打てば響く返答しか得てこなかった相手にしては、妙に意識させられる空白だった。
「危険が伴うことに、万全でない奴を放り込むつもりですか」
追って継ぎ足せば、ようやく薄い唇はおもむろに開かれて、喉元が動く。
「なるほどなァ。そりゃあ、そりゃあ」
愉快そうにたなびく言葉に合わせて唯一の炎が揺らめき、瞬きの間だけ周囲が黒に呑まれた。刹那、闇に慣れていた視界へ銀が一閃ひらめいて、発砲を告げる鋭い音が辺りへ響く。
「馬鹿言いなさんな。万全だろうがどうだろうが、おれらの相手は手前の様子なんて一々窺ってくんねェよ。いい加減、甘ったれてンな」
再び灯りが照らしたのは、心臓に銃口を突きつけられた教師と、動作を引き起こした獄卒の鋭い瞳に、笑んだ口角の不気味な表情。飛び散る赤のない、呼吸に上下した胸部を見て、先の破裂音は空砲だったと察するまでに数秒かかった。彼の手から提灯は離れ、地面と思しき床へ転がっている。真っ白になった頭が回転を取り戻しきらないうちに、まあ、と嘆息を含んだ、色の範囲が小さい紫の瞳が、こちらの眼を捕えた。
「狐は女に弱ェのさ。お嬢ちゃんに頼まれたら、そりゃあ話も変わるがよォ」
茶化す口ぶりとは裏腹に、その視線の奥には底知れない思考が渦巻いている。感情を選んでいる不透明な目元に、背筋が冷たさを駆け上がらせた。先日、英の二人と相対した時と同等の圧をかけられ――今、自分は化け物に試されているのだと汲んだ。理屈の外で理解して、生唾を飲み込む。
「……いい。やる。けど、センセは離して欲しいっス」
鉛を突きつけられたままとなっている、恩師の腕を雑に引く。すんなりと彼を開放した狐は、隣室から持ち込んでいた銀のピストルを指先で遊ばせてから、静かに銃口を下ろした。握りしめた手の内に力を込めて、喉の奥から言葉を吐き出す。
「大体、ここに残るって先に決めたのはオレだし。化け物退治だろうが何だろうが、やってやるっスよ」
どちらにも向けて言い切ると、自分の肩からも余計な力が抜けて、軽くなるような気がした。見上げた紫紺の瞳孔としばらく睨み合いを続けていると、急に、狐塚の相貌が朗らかに崩れる。慈しむようなその表情も珍しくて、今日の彼は何を思っているのかが尚更に分からなくなった。
「そのまんま、自分はやれると信じてな。それだけ念じて撃てばいいし、斬ればいい」
健闘を祈ってるぜ。
二人にそれぞれ視線を遣って、末尾が間延びした声が切れると同時に、黒狐の姿は消えた。代わりと言わんばかりに、置き土産として破かれた紙から解けて染み出した、闇より深い漆黒が膨れ上がっていく。頭頂部を探そうとすれば首が痛くなるほどに大きく育ったそれは、転がっていた提灯の残り火を踏みつけ、数多の目を一斉に見開いた。




