検証実験
霞がかったノイズまみれの光景は、どうにも神経に障る。判然としない縁取りを見極めて、間合いを探りながら周囲を確認すれば、目の玉と思しき球体がいくつも視界に入ってきた。丹田に力を込めた腹式呼吸は、而立を三つ過ぎた年齡にしては、息が上がるペースを上等に抑えている。整った黒服の適度な重さは、着慣れた道着や防具に比べればずっと軽い。手にしてからまだ間もない、その重さが足枷となってしまうのではとも危惧した一振りは、いざ構えてみれば心地よく掌に馴染んだ。
音の発生源と、シルエットが薄く見える視覚情報を頼りにわざわざ近付いたことについては、ある程度の確信をもった理由がある。思念が元となって形成された存在なら十分にあり得る可能性を、早いうちに検証してしまいたい。これは、人間にしか出来ない手法のはずだ。
(こっちを、見ろ)
そう意識を飛ばす度、的に埋め込まれた眼球のうちいくつかがこちらを向き、二、三本の手腕を差し向けてくる。まだ細い部類のそれらを、ある考えを頭に持ったまま一閃すれば、汚泥にも似たおぞましい指は、切り口から呆気なく霧散する。数度試した後に、交戦しながら実験していた荒い仮説を、そのまま結論へと昇格させた。
『そのまんま、自分はやれると信じてな。それだけ念じて撃てばいいし、斬ればいい』
最後に手向けられた狐塚の言は、このためにあったのだ。すなわち、人間の思考から生まれた化生に対抗するための武器として、「強く信じ、疑わないこと」が求められるのだと。
現実における困難を乗り越えるためには実利が必要になることと同じように、幻想は、幻想をもってしてのみ相対が可能、といったところだろうか。思い返せば、安アパートの麓、鉄パイプで両断したあの奇妙な一刀の折に自分の頭に強くあったのは「可愛い生徒を信じろ」という、俺の中における自己評価の地位を随分高く設定しているらしい彼女の呼びかけだった。試しに「斬れない」と頭に浮かべながら剣を振り下ろすと、鋒は陰をすり抜けるばかりか、刀の重さまでもが倍以上にずっしりと増したような感覚がもたらされた。実験中に避けきれなかった鋭い風圧で切れた額、そこから薄っすらと垂れてくる血がすこぶる視界に鬱陶しい。手早く右腕で赤を拭うと痛みは増したが、大事になるほどの深さではない傷である点だけは助かった。
周囲をぐるりと回ってみたものの、ぼやけて見える化け物の外観からは、分かりやすい急所のようなものは確認できない。眼球以外はどこもかしこもほとんど黒く、ごく稀に白が見えたかと思えば、新しい眼球が浮かび上がってきただけという、期待外れもいい具合だ。人間の構造として、眼球は剥き出しの臓器に該当する。しかし、塵などの微かな異物の刺激でも反応はしやすい代わりに、実は包丁をむやみにあてても狙った通りには割れない硬さをもつ部位でもある。総合すると、攻撃が通る可能性として最も高いのは化け物の眼であるものの、自分の武器である刃では分が悪い、という残念な事実に辿り着く。やってやれないことはなくとも、効率はよろしくないだろう。黒の何本かを絶ってみたが、しばらくすると徐々に回復し、数分のうちに元通りになってしまう。力を増す封印前にも、仕留めたと錯覚した二等分状態から時間もそこそこに元へ戻ろうとしていたから、元来の回復力は豊富なのだろう。それもまた、一度定着すれば消えにくい「噂」や「思い込み」の特性かもしれないが、現在は検討する必要も時間もないため、すぐにシナプスから叩き出した。
「……どうしたもんかな」
思わず口をついた言葉をなかったことにして、抑え込めずに上がってきた息を収めるために、場の中央から距離を取る。いくつか追ってきた腕を露払いし、刀を下段に構えたまま、肺の奥へと酸素をゆっくり送る。三吸って、二止めて、七吐き出す。どの道場でも大差がない瞑想用の呼吸法は、荒れた呼吸を整えるためにそれが最適だったがためと知ったのは、ちょうど今の猫間の年頃だったような気がする。
最近の自分は、どうもおかしい。彼女、腹違いの妹にまつわることについて、教師として公的な立場を持っていた時よりも干渉しており、客観視するまでもなく度を超えている。再会した当初はもっと、成人としてわきまえたやり取りを望んでいたし、実際そのように振る舞っていたと思う。それが、接する時間が増えれば増えるほど、他人に諌められなければ止まれない有様になっていく。情けないことこの上ない――が、正直に言えば、熱に浮かされた浮遊病のような感覚もあり、戸惑っているのも確かだ。
もちろん、あの子のことは、特別大切に思っている。然るべき親族として、あらゆる責任も負わねばと考えているのは真実、嘘偽りないところ。ただ、想うだけでは飽き足らず、範疇を飛び越えすぎた言動がここ最近の自分に目立っているのが、戸惑いの元凶だった。少女と別れて帰宅すれば、はたと我が身に還るような、半分乗っ取られていたかのような――いや、考えすぎだろう。
きっと、地獄だどうだといったそれらに触れて、脳のストッパーが緩くなっているだけ。責任転嫁を求めるなど、いよいよ往生際が悪い。せっかく塩梅がいい、微小な電気が通り続ける痛みと熱を孕んだ傷があるのだから、頭を冷やさねば。肌を伝ってきた生暖かい血液を、黒の袖で再び雑に拭えば、引き攣れた傷口が痛覚を刺激した。




