第6話 10分読書と『思考の整理学』
四月に入り、中標津にもようやく本格的な春の兆しが訪れ始めていた。敷地内の日陰に残っていた雪の固まりはすっかり姿を消し、湿った黒土からは緑色のフキノトウが力強く顔を出している。
「七尾工房」の朝七時。
リビングの窓を少しだけ開けると、澄んだ春の風が部屋を吹き抜け、まだ残る冬の寒気をそっと追い出していった。朝の薪ストーブはまだ手放せないものの、部屋を温める炎の揺らめきがどこか柔らかく感じられる。
手挽きミルで挽いたコーヒーを丁寧にドリップし、湯気の立つマグカップを手にソファへ腰掛ける。
膝の上に開いているのは、銘木市に向かう車内で七尾さんから手渡された外山滋比古さんの『思考の整理学』だ。
毎朝の読書時間を使って少しずつ読み進めてきたこの本も、いよいよ終盤に差し掛かっていた。頭の中にアイデアや知識を詰め込むばかりではなく、あえて一度それを寝かせ、忘れることで「発酵」させることの大切さ。コンマ数ミリの精度や幾何学デザインの壁に行き詰まっていた私の頭に、その教えは冷たい水のように心地よく染み渡っていった。
八時半、まだ二階が静かなうちに、カチャリと引き戸が開いた。
「……おはようございます」
いつもより一時間半も早く、あーちゃんが顔を出した。だぼっとしたパーカーの上に、今日は薄手のカーディガンを一枚羽織っている。春めいてきた気候に合わせた、彼女なりの小さな衣替えらしい。
「あーちゃん、今日は早いね」
「……早く来た方が、エンジュに長く向き合える」
先日の銘木市で手に入れたエンジュ(樺太槐)の重厚な木片を取り出しながら、あーちゃんはボソッとそれだけ言った。遠軽の遠藤さんから刺激を受けた彼女の手元には、迷いのない静かな情熱が宿っている。二階からはまだ、七尾さんの物音一つ聞こえてこない。
九時五十分。ようやく例によって爆発した寝癖を頭に載せた七尾さんが、二階から下りてきた。
勝手口で煙草を吸って目を覚ますと、いつものように壁から白いジャズベースをひょいと抱え上げる。アンプを通さない「ベベン、ベン」という生の弦鳴りが、春の朝の空気を軽やかに揺らした。
「七尾さん、コーヒー淹れましたよ」
「あ、ありがとうございます、アユムさん。……あれ、あーちゃんもう来てたの? 早いねぇ」
あーちゃんは作業台から顔も上げずに、小さく頷いただけだった。
湯気の立つマグカップを受け取り、一口すする七尾さん。煙草の煙を天井にくゆらせながら、私が読んでいる本に視線を落とした。
「『思考の整理学』、読んでるねぇ。どう?」
「すごく刺さります。寄木細工の新しいデザインが出なくて焦っていたとき、知識を詰め込んで力任せに計算しようとしていた自分に気づかされました。『アイデアは寝かせることで発酵する』という言葉が、すごく腑に落ちて」
七尾さんはベースをぽろーんと鳴らし、どこか嬉しそうに目を細めた。
「でしょ? モノづくりもまったく一緒なんだよねぇ。デザインとか構造で行き詰まったときさ、作業台でうーんと唸ってても良い答えなんて出ないんだよ。一回木から離れて、散歩したり、本読んだり、忘れたフリをして頭を放置する。そうすると、頭の中の『見えざる手』が勝手に発酵させて、ある日突然ポロッと素晴らしい答えを落としてくれるんだよね」
その時、工房の電話が鳴った。七尾さんはベースを置いて受話器を取ると、少し声のトーンを上げた。
「あ、菅原さん。どうもどうも」
「ニンジャ・ツール」の営業担当、菅原さんからだった。七尾さんが長年懇意にしている道具メーカーの人らしい。
「例の新しいノミの試作、まだ届かないんですけど……あ、そうなんですね。じゃあもう少し待ちますー」
軽い調子で電話を切ると、七尾さんは私に振り返った。
「刃先の鋼材を新しくした試作ノミをさ、ちょっと前から菅原さんにお願いしてるんだよね。届いたら真っ先にアユムさんにも使わせてあげるよ」
作業室に入ると、私は先日手に入れた「黄肌」の鮮やかな黄色の木片と、ウォールナットの深い焦げ茶色を作業台に並べた。
これまでは幾何学模様の「正確な直線」ばかりに囚われていたが、一度思考を解きほぐしたことで、新しいインスピレーションが湧き上がっていた。
「直線の寄木の中に、少しだけ流れるような『波』のラインを入れたらどうだろう……」
寄木細工は直線の組み合わせが基本だが、帯状に組んだ木材を絶妙な角度で斜めに切り出し、コンマ数ミリずつ位置をずらして再接着することで、まるで美しい「波紋」や「流木」のような自然な曲線模様を生み出すことができる。
私は金属のノギスを静かに置いた。
頭の中で熟成されたイメージを信じ、手感覚で木肌を滑らせるように鋸を入れ、研ぎ直した小鉋を引く。
シュッ。
透き通るような薄いカンナくずが舞い落ち、黄肌の鮮やかな黄色とウォールナットの深い焦げ茶が、流れるような美しい波状の曲線を描いてかみ合わさった。
「できた……」
思わず感嘆の声が漏れた。
力任せに押さえつけた完璧な幾何学ではなく、木々の色彩が自然に寄り添い合うような、温かみのある新しい寄木の表情がそこにあった。
「へぇ……すごく良い波が出たねぇ、アユムさん」
いつの間にか後ろに立っていた七尾さんが、私の手元にある寄木ブロックを覗き込んで感嘆の声を上げた。
「これ、綺麗だね。直線しか使ってないのに、まるで水面が揺れてるみたいだ」
「ありがとうございます。……『思考の整理学』のおかげです。必死に計算するのをやめて、頭を空っぽにして木と向き合ったら、このラインが見えてきました」
作業スペースの隅で梱包を終えたあーちゃんも歩み寄ってきて、完成した寄木ブロックをじっと見つめた。そして、指先でその流れるような黄色い木目を撫で、ボソッと呟いた。
「……春の川みたい」
あーちゃんのその一言に、私と七尾さんは顔を見合わせて微笑んだ。
その後も、二人はそれぞれの作業台に戻り、静かに手を動かし続けた。七尾さんはアコースティックギターのブレーシング(力木)を、木の密度を確かめながらコンマ数ミリ単位で削っていく。頭で考えすぎず、手が勝手に動くのに任せるような、迷いのない手つきだった。それはまさに『思考の整理学』でいう「熟成された技術」そのものに見えた。
日が傾きかけた頃。
七尾さんがストーブの上のお湯でお茶を淹れてくれた。
「アユムさん、その本、読み終わったら次はこれを渡しとくね」
七尾さんが本棚から取り出してきたのは、國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』だった。
「ひまとたいくつの、りんりがく……ですか?」
「そう。人がなぜ退屈を感じるのか、そして『退屈』の中でいかにして豊かに生きるかを考察した素晴らしい本なんだ」
七尾さんはお茶をすすり、白いジャズベースのボディを撫でながら、穏やかな口調で言った。
「効率とか成果ばっかり求めて忙しく生きているとさ、人は大事なものを見失っちゃうんだよね。一見すると『暇』に見えるような、朝の10分読書とか、ぼーっと木目を眺める時間の中にこそ、人間としての本当の豊かさやモノづくりの本質が隠れてる。面白いから今度読んでみて」
「……ありがとうございます。いただきます」
受け取ったずっしりと重い文庫本を抱えながら、私は自分の作業台の上の寄木作品を見つめた。
思考を整え、頭を空っぽにし、木と対話する。
東京で忙しない時間に追われていた頃の私には決して持てなかった「豊かな余白」が、今、この中標津の工房で確かに育まれている。
外からは、春の柔らかな風がログハウスの壁を優しく撫でる音が聞こえていた。
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七尾工房のストーブを温めて、また次の夜にお待ちしています。




