第7話 嵐の夜、交差する作業台
四月中旬の中標津の天気は気まぐれだ。昼過ぎから急速に発達した低気圧がオホーツク海を覆い、夕方になると中標津の街を激しい春嵐が叩き始めた。標津岳から吹き下ろす暴風がログハウスの太い丸太壁を激しく揺らし、密林の針葉樹たちが悲鳴のような音を立てて大きく撓んでいる。
「……あ、消えた」
バチッと小さな音を立て、工房の蛍光灯と換気扇が同時に止まった。停電だった。
急激な暗闇が工房全体を包み込む。外の暴風と叩きつける雨の音が一段と大きく響く中、七尾さんの落ち着いた低い声が暗闇の中から聞こえた。
「落ち着いてー。中標津の嵐じゃよくあることだからさ。アユムさん、ストーブ横の棚にオイルランタンとキャンドルがあるから持ってきて」
「あ、はい!」
マッチを擦り、大きなオイルランタンと数本のキャンドルに火を灯す。揺らめく橙色の小さな光が、暗闇の中にぼんやりと作業台やバンドソー、積み上げられた木材のシルエットを浮かび上がらせた。
「あーちゃん、送迎の軽トラ出すの危ないから、暴風が収まるまでここで待っていきな。湯川旅館から貰った鹿肉スープ温めるからさ」
作業スペースの隅にいたあーちゃんは、だぼっとしたパーカーのフードをかぶり直し、ランタンの光の中で静かに小さく頷いた。
嵐で完全に閉じ込められた、停電中の工房。
電気が消え、機械のモーター音や集塵機の動作音も一切聞こえない空間には、ストーブの薪がパチパチとハゼる音と、外の激しい風の音だけが満ちていた。
七尾さんはストーブの上でスープの鍋を温め直すと、ランタンの明かりの下で、先日借りた國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』を開いている私に目をやった。
「『暇と退屈』、読んでるねぇ。嵐の夜に読むにはピッタリの本でしょ」
「はい。日常の忙しさに追われていると気づかないけれど、人は退屈を恐れて消費や刺激に逃げてしまう……という指摘が胸に刺さります。でも、この工房で過ごしていると、一見すると『暇』に見える時間が、どれだけ豊かな手仕事や表現を育んでいるかが分かります」
七尾さんは温かいスープの入った深皿を私とあーちゃんに手渡しながら、白いジャズベースを抱えてソファに腰掛けた。
「そうなんだよね。効率とか生産性ばっかり追いかけてるとさ、人は自分の手で何かを作り出す喜びを忘れちゃうんだよ。消費するだけの退屈から抜け出す唯一の方法はさ、自分の手や体を使って、何かを深く味わうことなんだよねぇ」
七尾さんはアンプの通らないベースの弦を、静かにポロンと爪弾いた。
「ベベン、ベン」という太い弦鳴りが、ランタンの揺らめく光の中に優しく溶けていく。
滋味あふれる鹿肉スープを飲み終えた後、私たちは自然とそれぞれの作業台に向かった。
電気が使えず、電動工具が使えない夜だからこそ、手仕事の本質が剥き出しになる。
あーちゃんはキャンドルの小さな炎を手元に寄せ、集中して研ぎ澄まされたノミを握った。先日の銘木市で手に入れたエンジュの固い木肌に、迷いなく刃を入れていく。光と影が交差する中で削り出されていくのは、嵐を耐え忍ぶ一羽の大きなシマフクロウの姿だった。
私はハンドツールだけを使い、先日完成させた「波の寄木細工」のプレス作業と表面磨きに没頭した。ノギスを使わず、ランタンの斜光で木の表面の微細な凹凸を指先で確かめながら、丁寧にサンドペーパーを滑らせる。
そして七尾さんは、自分の作業台の横に置かれていた、亡き親友・伊吹さんの設計によるアコースティックギターの「試作二号機」を静かに抱え上げた。
爪の背で弦をそっと弾く。
ジャーン……。
その一音が鳴り響いた瞬間、工房の空気がピリッと張り詰めた。
アコースティックギターのボディ全体が箱鳴りし、嵐の音を押し返すような美しく重厚な残響が、ログハウスの天井まで満たしていく。
私とあーちゃんは、思わず手を止めて七尾さんを見つめた。
七尾さんは目を閉じ、木肌に耳を押し当てるようにして、その音の余韻をじっと聴いていた。そこには普段の飄々とした表情はなく、亡き親友の魂と静かに対話するような、深く切ない職人の顔があった。
(……すごい音だ)
七尾さんが伊吹さんの図面から組み上げた、この試作機。
それは、寄木細工や家具の域を遥かに超えた、人の魂を激しく揺さぶる「純粋な音の響き」そのものだった。
「やっぱり、伊吹の設計はすごいよなぁ……」
七尾さんはぽつりと呟き、愛おしそうにギターのボディを撫でた。
「アユムさん。モノづくりってさ、最終的には『誰かの心に消えない残響を残せるか』なんだと思うよ。寄木も、木彫も、ギターもさ」
「……誰かの心に、消えない残響……」
「そう。僕らが死んでいなくなってもさ、この木に刻んだ手触りや音は、ずっと世界に残るからねぇ」
そう言うと七尾さんは、少し照れたように鼻の頭を掻き、いつもの調子で「――なんてね」と付け加えた。湿っぽくなりすぎた空気を、自分でそっとほぐすように。
夜が更けるにつれ、外の暴風の音は少しずつ弱まっていった。
ランタンの小さな灯りの下で、七尾さんのギターの音と、あーちゃんが削るノミの音、そして私のペーパーが擦れる音が、静かに交錯し続ける。
言葉はなくとも、同じ空間でそれぞれの「残響」を生み出そうとする手仕事の時間が、そこには流れていた。
やがて外の風が完全に止み、窓の外に満天の星空が広がった頃。パッと工房の蛍光灯が点灯し、停電が復旧した。
七尾さんは眩しそうに目を細め、本棚から新しい文庫本を引っ張り出してきた。
「アユムさん。嵐も去ったし、次の本渡しとくね」
手渡されたのは、瀬尾まいこさんの『そして、バトンは渡された』だった。
「バトンが、渡された……」
「そう。血の繋がりとかじゃなくて、いろんな大人から少しずつ大事なものを受け取って育っていく女の子の話だよ」
七尾さんは伊吹さんのギターを愛おしそうにスタンドに戻しながら、静かに言った。
「誰かが遺したものを、また別の誰かが受け取って、次に繋いでいく。……伊吹の設計図を僕が形にしてるのも、たぶん似たようなことなんだろうなって思うんだよね。面白いから、今度読んでみて」
「……ありがとうございます。いただきます」
私は受け取った本を大切に胸に抱えた。
長い嵐の夜が明けようとしている。
手の中で温かい波の模様を描く寄木細工を撫でながら、私は自分の手仕事が誰かの心に残す「小さな残響」について、静かに思いを巡らせていた。
窓の外、雲の切れ間から差し込み始めた朝の光を見上げながら、私はふと妙な予感を覚えた。伊吹さんのギターが今夜立てたあの一音は、まだこの工房の中だけに留まっている。けれどそれは、いつまでもここだけの音では終わらない気がした。何かが、静かに動き出そうとしている――そんな根拠のない予感だった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
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七尾工房のストーブを温めて、また次の夜にお待ちしています。




