第5話 銘木市と、遠軽の風
三月の終わり、雪解け水が中標津の道路を黒く濡らし始める頃。
七尾工房の白いニュービートルは、国道243号線を北へとひた走っていた。目的地は北見市にある「オホーツク製材」の銘木市。年に数回しか開かれない、道内の貴重な木材が一堂に会する競り市だ。
助手席には私――橋本歩、後部座席の狭いスペースには、だぼっとしたパーカーに身を包んだあーちゃんが、黒いヘッドフォンをつけたまま静かに収まっている。車内のBGMは七尾さんが最近お気に入りのヨルシカと、ずっと真夜中でいいのに。が流れていた。
今朝の七尾さんは、午前四時起きという奇跡的な早起きを果たしたせいで、運転席で時折あくびを噛み殺しながらハンドルを握っていた。いつもの朝の読書タイムは取れなかったが、出発前の車内で七尾さんから一冊の文庫本を手渡されていた。
外山滋比古さんの『思考の整理学』。
「移動中にでも読んでみなよ、アユムさん」と七尾さんは言っていた。「頭の中のアイデアを寝かせて、発酵させることの大切さが書かれてるんだ。寄木細工の次のデザインに悩んでるなら、すごくヒントになると思うよ」
ガタゴトと揺れる車内でページをめくる。情報を詰め込むばかりではなく、一度頭を空っぽにして「忘れる」ことでアイデアが熟成し、発酵する――という教えが、寄木細工のコンマ数ミリの精度に凝り固まっていた私の思考を、心地よく解きほぐしていくようだった。
「北見に行く前にさ、ちょっと遠回りして遠軽町に寄ろうと思うんだよね」
七尾さんがバックミラー越しにあーちゃんを見ながら言った。
「遠軽に、遠藤さんっていう木彫り作家さんがいてさ。インスタでずっと相互フォローで仲良しなんだけど、一度工房に遊びにおいでって言われてたんだよ。あーちゃんにも、ぜひ会わせたくてねぇ」
遠軽町は、古くから林業と木工が非常に盛んな町だ。
三時間ほど車を走らせ、遠軽の静かな住宅街にある小さな木造の工房に到着した。車を降りると、フワリと樟脳や様々な樹木が混ざり合った濃密な木の香りが漂ってくる。
工房の引き戸を開けると、車椅子に乗った五十代半ばほどの男性が、温かい笑顔で出迎えてくれた。彼が遠藤さんだった。
「おー、七尾さん! いらっしゃい、遠くからようこそ」
「遠藤さん、お邪魔しますー。こっちが弟子のアユムさんで、こっちがバイトのあーちゃんです」
工房の中に足を踏み入れた瞬間、私とあーちゃんは言葉を失った。
壁一面、作業台の上に所狭しと並べられているのは、圧倒的な生命感を纏った木彫の動物たちだった。今にも飛び出しそうなエゾユキウサギ、力強いクマ、愛くるしいシマエナガ。そのどれもが、滑らかな曲線と鋭いノミ跡の見事な融合によって生み出されていた。あーちゃんは首からヘッドフォンを完全に下ろし、目を輝かせながら吸い寄せられるように作品に見入っている。
お茶をいただきながら、七尾さんと遠藤さんは楽しそうに木材や刃物の研ぎ直し、ノミの角度について熱く花を咲かせた。作風はまったく違う二人だが、お互いの手仕事に対する深いリスペクトが端々から伝わってくる。
話の途中、遠藤さんは自分の足元をぽんぽんと叩き、穏やかな口調で自身の過去を語ってくれた。
「僕はね、昔は電気工事士をしてたんだよ。高所作業車に乗ってバリバリ働いてたんだけどさ、ある日事故で高所から落ちちゃってね。足を大怪我して、現場の仕事ができなくなっちゃったんだ」
遠藤さんの言葉に、私は息をのんだ。
「車椅子生活になって、これからどうやって生きていこうか困り果ててた時、リハビリの合間に何気なく手元にあった木片をナイフで削ってみたんだ。そしたらさ……これが思いのほか上手くできちゃってね。『ああ、僕にはもうこれしかないんだ』って、必死になって独学で動物を彫り始めたんだよ」
遠藤さんは作業台の上の作品を愛おしそうに見つめた。
「それを何となくSNSに投稿したら、ある日突然バズっちゃってね。全国から注文が入るようになって、今じゃこうして木彫り作家として食べていけてる。人生、何が幸いするか分からないよねぇ」
その一言に、七尾さんが一瞬だけ黙り込んだのを、私は見逃さなかった。いつもならすぐに何かしら軽口を返すのに、湯呑みを両手で包んだまま、視線だけがふっと作業台の隅に落ちている。長野時代の九鬼楽器での記憶――亡き親友・伊吹さんの姿を重ねていたのかもしれない。
「……遠藤さんは、それでちゃんと立ち上がれた人だから、すごいな」
七尾さんはぼそりと呟くと、いつもの調子でへらりと笑い、湯呑みのお茶をすすった。
絶望の淵から、一本のナイフと木片だけで自分の人生を切り拓いてきた男の壮絶な生き様。
言葉を持たないあーちゃんは、遠藤さんの話を一言も漏らさぬように見つめ、静かに深々と頭を下げた。遠藤さんもまた、あーちゃんの手元にある固いノミダコを見逃さず、「君、すごく良い手をしてるね。絶対に良い作品を彫るよ」と優しく微笑みかけた。
遠軽の遠藤さんの工房を後にし、ニュービートルは北見の「オホーツク製材」へと向かった。
広大な木材集積場には、道内各地から運ばれてきた巨大な丸太や、乾燥された銘木の板材がうずたかく積まれており、大勢の買参人や職人たちで熱気に満ちあふれていた。
「よし、じゃあそれぞれの掘り出し物を探しますか」
七尾さんの号令で、私たちは手分けして広大な敷地内を回った。
今回の七尾さんの目的は、アコースティックギターの表板として音色を左右する、最高級の「シトカ・スプルース」や「ローズウッド」の厳選だ。七尾さんは板材を爪の背でコンコンと叩き、音の響き(タップトーン)を真剣な表情で確かめている。
一方、私の目的は、寄木細工の色彩となる色鮮やかな天然木だ。
広大な材木置き場を巡るうちに、目が覚めるような鮮やかな黄色を持つ「黄肌」や、深い赤紫色の「紫檀」、漆黒の木目を持つ「黒檀」の端材の山を見つけた。
(この鮮やかなキハダの黄色と、ウォールナットの深い焦げ茶を組み合わせたら、どれだけ美しい流れるような模様ができるだろう……)
『思考の整理学』で読んだ「頭の中の発酵」が、目の前の木材を前にして一気に弾けた瞬間だった。私は夢中になって、質の良い天然色の木片を買い付けた。
ふと横を見ると、あーちゃんもまた、遠藤さんとの出会いに強い刺激を受けたのか、滅多に手に入らない大振りのエンジュ(樺太槐)の銘木ブロックを真剣な目で見つめていた。深いアンバー色を呈するエンジュは、非常に固く彫りづらいが、磨き上げると神々しい光沢を放つ木材だ。
夕方、ニュービートルのトランクは買い付けた銘木でいっぱいに満たした。
「帰りは遠軽の回転ずし屋さんに寄ろうか。あそこ、なんでか知らないけどめちゃくちゃ美味いんだよねぇ」
七尾さんが言うには、道内に何店舗かあるチェーン店なのに、遠軽店だけは味が違う気がするのだという。理由はよく分からないまま、実際に食べてみると、確かに驚くほど美味しかった。
満腹になった私たちは、中標津への帰り道についた。
沈みゆく夕日が、オホーツクの空と雪原を真っ赤に染め上げている。
「いやぁ、今日は良い買い物ができたねぇ」
ハンドルを握る七尾さんが、満足そうに呟いた。
「遠藤さんの生き様も凄かったですね。絶望の中から手仕事で立ち上がったお話を聞いて、胸が熱くなりました」
「うん。手仕事ってさ、ただの技術じゃないんだよね。その人の生き方や覚悟が、そのまま作品の形になって現れる。遠藤さんの動物たちには、生に対する強い感謝と執念が宿ってるから、あんなに人を惹きつけるんだよ」
七尾さんはバックミラーであーちゃんの様子を覗き、嬉しそうに目を細めた。
後部座席で、あーちゃんは買い付けたエンジュのブロックを大切そうに膝に抱え、遠藤さんからもらった小さな木彫のウサギを嬉しそうに指の腹で撫でていた。その瞳には、これまで以上に力強い職人としての光が宿っていた。
工房に帰り着いた頃には、すっかり夜が更けていた。
買い付けた木材を保管庫へ運び入れ、ストーブに火を入れる。ソファの窪みでは、留守番をしていたカンナが、私たちの帰りを待っていたかのように大きく伸びをした。
私はまだ読み終えていない『思考の整理学』を鞄から取り出し、テーブルの上に置いた。その横に、今日手に入れたキハダの黄色い木片を並べる。
頭の中で眠っていたアイデアが、遠軽の風と、北見の銘木市を経て、明確な「形」として芽吹き始めている。
毎朝の読書。
七尾さんの奏でる白いジャズベースの音。
遠藤さんやあーちゃんが見せてくれた、不屈の手仕事の情熱。
私もまた、自分だけの木目と色彩を重ね合わせ、次の寄木作品へと挑む準備が整いつつあった。中標津の深い夜の中に、薪ストーブの温かな炎が静かに揺れていた。
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七尾工房のストーブを温めて、また次の夜にお待ちしています。




