第4話 湯川旅館の「シマフクロウと寄木トレイ」
三月も下旬に入り、中標津の積雪も少しずつ小さくなり始めていた。日差しを受ける時間が日ごとに長くなり、昼過ぎに勝手口から外へ出ると、雪の下で静かに春を待つ黒土の濡れた匂いが、ほのかに鼻腔をくすぐる。
「七尾工房」の朝七時。
薪ストーブの炎が落ち着くのを待ちながら、手挽きのミルでじっくり挽いた豆に沸かしたてのお湯を注ぐ。ドリップフィルターの中で粉がふっくらと膨らみ、香ばしい湯気が天井へと上っていく。
今朝開いている本は、七尾さんに借りた柚木麻子さんの『バター』だ。
食と人間の底知れぬ欲望、そして他者を受容することの複雑さを描いた圧倒的な物語。ページをめくるたび、濃厚なバターの香りと人間の生々しい感情が押し寄せてくるようで、朝の静かな工房の空気とのギャップにクラクラとしてしまう。けれど、「味覚」や「食感」という五感を通して人と人が繋がり、頑なな心が解きほぐされていくプロセスは、どこか手仕事の道具が持つ豊かな手触りの力と深く響き合っている気がした。
ソファの真ん中の窪みで丸くなっていたカンナが、うーんと大きな伸びをして、私の足元に身体をすり寄せてからまた微睡みに戻る。
「……おはよーございます、アユムさん」
九時五十分。二階から階段を寝ぼけ眼で下りてきた七尾さんは、爆発した寝癖を豪快に撫でつけながら勝手口へ向かい、アメリカン・スピリットを一服。外の冷気でシャキッと目を覚まして戻ってくると、壁から白いジャズベースをひょいと持ち上げた。
アンプを通さない「ベン、ベン」という太い生音を爪弾く七尾さんに、私は淹れたてのマグカップを手渡す。
「七尾さん、コーヒーどうぞ」
「あ、ありがとうございます、アユムさん」
一口すする七尾さんが、私の膝の上の本に目を留めた。
「『バター』、読んでるねぇ。どう?」
「すごいです。食欲とか手触りとか、人間の五感の根っこにある欲求を描く熱量が圧倒的で……なんだか猛烈にお腹が空いてきます」
「はは、分かる。あの本読むとさ、美味しいものを丁寧に作って食べたくなるよねぇ。手で触れて、味わって、身体に取り込む。道具作りもさ、そういう『触感の心地よさ』が一番大事なんだよね」
七尾さんがベースをぽろーんと鳴らし、どこか愛おしそうに呟いた。
十時十分。カチャリと引き戸が開き、あーちゃんが入ってきた。だぼっとしたスウェットパーカーの袖を少しだけまくり、長い前髪の下から今日は珍しく少しシャキッとした目でこちらを見る。首の黒い密閉型ヘッドフォンを片方外し、いつものように小さく会釈をした。
「……おはようございます」
ボソッと挨拶をしたあーちゃんは、いつものように淡々と発送業務の段ボールを組み立て始める。だが今朝は、工房の中にいつもとは違う特別な緊張感と高揚感が漂っていた。
今日、私たちが取り組むのは、地元・中標津の歴史ある温泉宿「湯川旅館」から依頼されたオリジナル小物の最終納品準備だ。
湯川旅館の若旦那から「地元の木を使った、新設する特別客室用の茶托とお茶菓子を載せる小型トレイを作ってほしい」と頼まれ、この数週間、私とあーちゃんで試作と微調整を重ねてきたのだ。
完成したのは、私のアユムブランドとして初めて世に出る本格的な納品物、「シマフクロウと寄木トレイ」だ。
ウォールナットの焦げ茶、メープルの柔らかな白、チェリー材の温かい赤みを精密に組み合わせた流れるような幾何学の寄木トレイ。コンマ単位で精度を出したそのトレイの角の部分に、あーちゃんが紫檀の小片からノミで削り出した「小さなシマフクロウ」が、ちょこんと寄り添うように掘り込まれている。
直線で構成された精密な寄木と、手彫りの柔らかなシマフクロウの生命感。
二つの手が重なったことで、単なる木製小物の枠を超えた、物語を宿した特別な道具に仕上がっていた。
「……よし、キズもないし、最薄で塗ったオイルの乾燥もバッチリだな」
一つひとつ丁寧に薄紙で包み、特製の箱に収めていく。自分の手で作ったものが、誰かの日常や旅行の特別な思い出の中に届く。胸の奥がキュッと引き締まるような、心地よい緊張感があった。
午後、湯川旅館への納品に合わせて、YouTubeの動画撮影を行うことにした。
「七尾さん、今日の湯川旅館への納品と、七尾さんのギター調整の様子撮らせてください。今週上げる動画のネタがもう限界なんで」
私がカメラをセッティングすると、七尾さんはいつもの「緊張するんよねー」を言いかけて、ふと言葉を止めた。
「……いや、今日はいいや。しっかり撮ってよ」
珍しく素直な返事だった。工房の中でカメラを向けられるのとは違う、弟子たちの初めての本格的な納品という高揚感が、いつもの照れ隠しを上回っているらしい。
七尾さんは軽トラの助手席に納品箱を慎重に積み込み、湯川旅館へと向かう道中、後部座席に据えたカメラに向かってサクサクと解説を始めてくれた。
「湯川旅館さんはね、うちのギターの木材の乾燥具合とかも気にしてくれる良い旦那さんでさぁ。今回はアユムさんとあーちゃんのコラボトレイだから、俺もすごく楽しみなんだよねぇ」
旅館に到着すると、格式ある木造の玄関で若旦那が出迎えてくれた。
さっそくロビーの大きな一枚板テーブルで箱を開け、トレイと茶托をお披露目する。
「うわぁ……すごいな、これ!」
若旦那はトレイを手にとり、感嘆の声を漏らした。光にかざして寄木の流れるような幾何学模様を眺め、角に掘られた小さなシマフクロウの頭を、指の腹で愛おしそうに撫でる。
「寄木のきっちりした美しさも素晴らしいけど、このフクロウの触り心地がたまらないね。お湯に入ってほっと一息ついたお客様が、お茶を飲みながら思わず触りたくなるような、優しい手触りだ」
その言葉を聞いた瞬間、私の背中を温かい波が駆け抜けた。
「ありがとうございます……! あーちゃんの木彫のおかげで、作品に温かみが生まれました」
私がそう言うと、横にいたあーちゃんは少し照れたように俯き、小声で「……よかった」と呟いた。
若旦那はトレイを名残惜しそうに眺めながら、ふと思いついたように付け加えた。
「いつかこれ、他の旅館さんにも紹介したいなぁ。うちだけで独り占めするのはもったいないよ」
軽い調子の一言だったが、私は素直に嬉しくなって「ぜひぜひ、いつでも言ってください!」と笑って答えた。その時はまだ、それがただの社交辞令の延長だと思っていた。
若旦那はさっそく、ロビーで休憩していた年配のご夫婦のお客様に「今日届いたばかりの、地元の若き職人たちの手作りなんです」と、お茶とお菓子をトレイに載せて運んでくれた。
遠目からその様子を息をのんで見守る。
ご夫婦は運ばれてきたトレイを見るなり「あら、可愛い」「この木目、すごく綺麗ね」と顔を見合わせ、女性の方がシマフクロウの木彫にそっと指先で触れた。そして、とても柔らかな微笑みを浮かべたのだ。
自分の手で削り、コンマ単位のズレと戦って磨き上げた木製品が、見知らぬ誰かの心を一瞬で和ませ、小さな幸せを生み出している。
広告代理店時代、パソコンの画面越しに数字やアクセス数ばかりを追いかけていた頃には決して味わえなかった、ダイレクトで確かな「手仕事の手応え」がそこにあった。
「ね? アユムさん」
隣で七尾さんが、カメラのレンズを私に向けながら、ひそひそ声で囁いた。
「モノを作るってさ、こういうことだよね。作った人の温度が、使う人の手にそのまま伝わる。寄木のコンマ何ミリのズレと戦った時間が、ちゃんと報われたでしょ?」
「……はい。七尾さん、私、この工房に来て本当に良かったです」
カメラのファインダー越しに見た七尾さんは、自分のことのように嬉しそうな、少年のような笑顔を浮かべていた。
工房へ戻ってきたのは、夕闇が迫る頃だった。
無事に納品を終えた達成感と心地よい疲労感の中で、七尾さんがストーブのやかんからお湯を注ぎ、温かいお茶を淹れてくれた。あーちゃんも満足そうにお茶を啜り、今日納品したシマフクロウの予備パーツを嬉しそうに手の中で転がしている。カンナはソファの窪みから下りてきて、あーちゃんの膝の上に飛び乗った。
「いやぁ、今日は良い日だったねぇ」
七尾さんはソファに深く腰掛け、白いジャズベースをポロンと鳴らすと、本棚から新しい一冊を引っ張り出してきた。
「アユムさん、『バター』の次はこれ持っていきなよ」
手渡されたのは、三浦しをんさんの『舟を編む』だった。
「『舟を編む』……辞書を作るお話でしたっけ?」
「そうそう。辞書編集部の人たちがさ、何十年もかけて一冊の辞書を作り上げていく話なんだ」
七尾さんは煙草に火をつけ、紫煙の向こうで遠くを見るような目になった。
「地味でさ、誰にも気づかれないような細かい作業の連続なんだよね、辞書作りって。でも、その一つ一つの言葉の選び方に、作り手の誠実さが宿ってる。今日の湯川旅館でアユムさんが感じた『手触りの価値』も、たぶん同じなんだよ。誰かが丁寧に選び取ったものは、ちゃんと伝える人に伝わるんだ」
「……ありがとうございます。いただきます」
受け取った本を開くと、真新しい紙の匂いとともに、言葉という海を渡るために静かに情熱を燃やす人々の姿が目に飛び込んできた。
毎朝の読書。
七尾さんの奏でる白いジャズベースの音。
あーちゃんの静かな木彫。
そして、湯川旅館のお客様が見せてくれた、あの温かな笑顔。
私自身の手仕事の道は、まだ始まったばかりだ。けれど、この手から生み出される小さな木製品が、誰かの暮らしを静かに照らす灯火になれるのだと、中標津の冷たい夜風の中で強く確信していた。
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七尾工房のストーブを温めて、また次の夜にお待ちしています。




