第3話 コンマ単位の精度とカンナ削り
屋根の端から伸びていた太く鋭い氷柱が、日中の柔らかな陽射しを受けてポタポタと透明な水滴を落とし始めている。中標津の長い冬も、ようやく少しずつ終わりに向けて動き出していた。
午前七時。作業台の上に散らばっていた寄木細工の端材を丁寧に分別し片付けながら、私は大きく深呼吸をした。
今朝の読書は、七尾さんの愛読書でもあるダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』だ。
手術によって急激に知能を高められていく主人公・チャーリィの孤独と葛藤。一日ごとに世界の見え方が劇的に変わっていく彼の経過報告に引き込まれつつも、私は自分の作業台の上にある寄木の角棒パーツへと目をやった。コンマ数ミリのズレにのたうち回り、己の技術の未熟さに打ちのめされている今の私には、彼の「急激な変化への焦り」や「世界との摩擦」が、どこか他人事ではないように思えたからだ。
階段をトントンと下りてくる足音がして、時計を見れば午前九時五十分。例によって爆発した寝癖を頭に載せた七尾さんが、あくびを噛み殺しながら顔を出した。
「……おはよーございます、アユムさん」
「おはようございます、七尾さん」
外での喫煙タイムを終えた七尾さんは、勝手口のドアを閉めると、迷いなく壁から白いジャズベースを手にとり、ソファで「ベベン、ベン」とフレーズを弾き始める。ソファの真ん中の窪みで丸くなっていたカンナが、迷惑そうに片目だけ開けてまたゆっくりと閉じた。
私が淹れたての深煎りコーヒーを手渡すと、七尾さんは「あ、ありがとうございます」と受け取り、ベースを抱えたまま美味しそうに喉を鳴らした。
「アユムさん、……『アルジャーノン』読み始めた?」
「はい。チャーリィの経過報告を読んでいるところですが、彼が自分の変化に戸惑う姿がすごく切なくて……」
「そうだよねぇ。人が変化していく時ってさ、喜びと一緒に必ず強い歪みや痛みが伴うんだよね。……モノづくりもまったく一緒なんだけどさ」
七尾さんは煙草の煙をふぅと天井へ吐き出し、白いベースのボディを優しく撫でた。
しかし、十時十分になり作業室へ入ると、工房の空気は一変する。
あーちゃんが提示してくれた「寄木の角に木彫の動物を添える」というコラボトレイのアイデア。これに強い手応えを感じた私は、本格的にプロトタイプの試作に入っていた。
だが、ここで大きな壁にぶち当たっていた。
あーちゃんの削り出す木彫を引き立てるためには、土台となる寄木の幾何学模様が「完璧な精度」で組まれていなければならない。ウォールナット、メープル、パドックの板材を細い角棒状に切り出し、それを幾何学状に貼り合わせて一枚の板にするのだが、角度がわずか0.5度ズレるだけで、全体を組み上げたときに致命的な「隙間」や「全体の歪み」が生じてしまうのだ。
「……またここで一ミリのズレが出てる」
私は精密なスコヤ(完全直角定規)を当て、頭を抱えた。
パーツ単体では直角が出ているように見えても、十本、二十本と束ねて接着すると、微小な誤差が累積して大きな歪みになる。木工用の接着剤を塗り、万力で圧着した瞬間に、コンマ数ミリの隙間から接着層が押し出され、幾何学のラインが目に見えて歪んでしまうのだ。
「アユムさん、顔が般若になってるよー」
作業室の向かい側で、アコースティックギターの表板を削っていた七尾さんが、ひょっこりと顔を出した。
「七尾さん……ミリ以下の精度で木を削り揃えるのって、どうやったら安定するんですか? ジグ(補助具)を使っても、どうしても削りムラが出ちゃって」
七尾さんは私の作業台に歩み寄ると、私が使っている小さな平鉋を手にとった。裏刃(裏金)の引き具合と、台(木製ベース)の仕込みをじっと見つめる。
「んー……刃の研ぎは悪くないけど、台の狂いが出てるね。それに、削るとき力が入ってるでしょ。木を削るんじゃなくて、カンナの重みで刃を滑らせるんだよ。コンマ何ミリの世界は、力でねじ伏せようとすると絶対に木が逃げるからさ」
七尾さんは台直し用の金バシ(台直し鉋)を取り出し、手際よくカンナの台(木の底面)を微調整した。刃の出し幅を極限まで薄く仕込み直し、私の作業台の上でカンナをすっと引いた。
シュッ。
透き通るようなシルク状の薄いカンナくずが、何の抵抗もなく立ち上る。削り出されたウォールナットの木肌は、まるで鏡のように光を反射していた。
「刃先を見るんじゃないよ。手で木の抵抗を感じるの。呼吸と一緒。息を吐きながら、刃物を木に委ねるんだ」
言葉で言うのは簡単だが、実践するのは気が遠くなるほど難しい。
七尾さんが自分の作業台に戻ると、今度は静かなカンナの引き音が規則正しく響き始めた。七尾さんが作っているのは、伊吹設計のアコースティックギターの表板だ。表板の厚みをマイクロメーターで測りながら、コンマ一ミリ単位でスプルースを削り、木の鳴り(音響特性)を極限まで引き出していく。
作業台を挟んで、二つの手仕事が並行する。
片やギターの音を作るためのコンマ数ミリ。片や寄木細工の模様を完璧に組むためのコンマ数ミリ。アプローチは違えど、そこには誤魔化しの効かない「精度の壁」が立ちはだかっていた。
午後になっても、七尾さんの手元からはノミと鉋の音が途切れなかった。今日はギターのブレーシング(音を響かせるための力木)を削る作業に、朝から凄まじい集中力で入り込んでいるらしい。声をかけるのも憚られるほどの没入ぶりだった。
私は自分の作業台に戻り、削っては測り、測っては削り直す作業を繰り返した。だが、焦れば焦るほど刃物は木肌に噛み込み、削り面が荒れてしまう。何度目かの失敗に、私は思わず作業台に突っ伏した。
(七尾さんの域に達するには、あと何年かかるんだろう……)
東京の広告代理店にいた頃は、徹夜をしてパソコンに向かえばそれなりの成果物が出せた。だが、目の前の木という物質は、どれほど焦ろうが、今の私の拙い手感覚以上の答えを返してはくれない。
その時、梱包作業を終えたあーちゃんが、私の作業台の横に静かに立った。だぼっとしたスウェットパーカーのポケットに手を突っ込んだまま、ヘッドフォンを片耳だけずらし、あーちゃんは私が苦戦している寄木の角棒パーツを手に取ると、指先でその断面をじっと触った。そして、作業台の端にあった文庫本――『アルジャーノンに花束を』を指差した。
「……ん?」私が首をかしげると、あーちゃんはボソッと呟いた。
「……チャーリィ」
「え? チャーリィ?」
「……一歩ずつしか、賢くなれない」
あーちゃんはそれだけ言うと、自分の彫刻刀を片付け、静かに帰る準備を始めた。
あーちゃんが言いたかったのは、焦るな、ということだったのだ。
一朝一夕で天才的な精度を手に入れようとするのではなく、今日のコンマ一ミリのズレと愚直に向き合い、泥臭く手を動かし続けることでしか、職人の手感覚は育たない。
言葉数は少なくても、あーちゃんは私の焦りや不甲斐なさをしっかり見抜いていた。
夕方、今日の作業を終えた七尾さんが、ストーブの上のお湯で温かいお茶を淹れてくれた。カンナがソファの窪みから下りてきて、七尾さんの足元に身体をすり寄せる。
「アユムさん、今日の削り、後半はすごく素直な刃音になってたよ」
「ありがとうございます。……あーちゃんに『一歩ずつしか賢くなれない』って励まされました」
七尾さんは驚いたように目を丸くしたあと、ふはっと嬉しそうに笑った。
「あーちゃんがそんなこと言ったの? すごいねぇ。名言だ」
七尾さんは私が手にしていた文庫本――『アルジャーノンに花束を』の表紙に、そっと目を落とした。何度も読み返されたせいで、角がすっかり丸くなっている。
「それね、俺の人生で一番好きな本の一つなんだよ」
「七尾さんが、一番好きな本……」
「そう。人間の知性とか、心の変化、それに人が何かを突き詰めていくことの凄まじさと切なさが描かれてる。……アユムさん、精度を追い求めるのは素晴らしいことだけどさ、技術だけが高くなってもダメなんだよね。そこに『心』が追いついてないと、出来上がったモノがどこか冷たくなっちゃうから」
七尾さんはそう言うと、珍しく少しだけ黙り込んだ。何かを思い出そうとしているような、それでいて思い出したくないような、微妙な間だった。
「……七尾さん?」
「あ、いや。昔、これを勧めてくれた奴がいてね。……まあ、それはまたいつかね」
七尾さんはそう言うと、窓の外の暗くなった森へふと視線をやり、誰にともなくぽつりと付け加えた。
「……あの人にも、一度ちゃんと話さなきゃなぁ」
それが誰のことなのか、私には分からなかった。七尾さんもすぐに我に返ったように、いつもの飄々とした調子にすっと戻り、煙草に火をつけた。
「最後まで読み終わったら、また感想聞かせてよ。アユムさんが今、コンマ単位の精度と戦ってる意味が、ちょっと違って見えてくると思うから」
「……はい」
毎朝の読書。
七尾さんの奏でる白いジャズベースの音。
そして、あーちゃんが教えてくれた「一歩ずつ」という手仕事の真理。
私は自分の作業台の上にある、削り直した寄木パーツを見つめた。
明日は今日よりも少しだけ、素直な刃が引ける気がする。
中標津の夜は静かに深まり、薪ストーブの炎が、工房の太い丸太柱を優しくオレンジ色に染めていた。
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七尾工房のストーブを温めて、また次の夜にお待ちしています。




