第2話 あーちゃんの木彫と、静寂の形
三月に入り、中標津の空気にはほんの少しだけ春の兆しが混ざり始めていた。とはいえ、朝方の冷え込みは相変わらず厳しく、ログハウスの重厚なペアガラスには、シダ植物の葉のような美しい氷の結晶――氷華がぎっしりとへばりついている。
「七尾工房」の朝七時。
二階の部屋から静かに下りてくると、私はまだ冷え切ったリビングでコートを羽織ったまま、薪ストーブの扉を開けた。灰をかき分け、赤く残る熾火に乾いた白樺の細割り薪を重ねる。パチパチと乾いた音が響き、ゆっくりとオレンジ色の炎が立ち上ると、ストーブの鋳物が熱を蓄え始めて部屋の空気を優しく和らげていく。
やかんから立ち上る柔らかい湯気を見つめながら、今朝は七尾さんに借りたよしもとばななさんの『キッチン』を開いた。
手仕事に没頭する日々のなかで開くこの本は、傷ついた人々が温かな場所や食、そして「居場所」を通して静かに再生していく姿を描いている。言葉を使わずに黙々と木を削り、この工房の片隅で自分の世界を広げてきたあーちゃんの姿が自然と重なり、ページをめくる指先が温かくなった。
「……んー、おはよーございます、アユムさん」
九時五十分。寝癖を豪快に爆発させた七尾さんが、あくびを噛み殺しながら階段を下りてくる。いつものように勝手口でアメリカン・スピリットに火をつけ、外の突き刺さるような冷気で目を覚まして戻ってくると、壁に立てかけてあった白いジャズベースを抱え上げた。
アンプを通さない「ベン、ベン」という太い生音が、静かなリビングに心地よく響く。ソファの真ん中の窪みでは、三毛猫のカンナが丸くなったまま、その微かな振動を背中に受けて気もち良さそうに耳をぴくつかせていた。
「七尾さん、コーヒー淹れましたよ」
「あ、ありがとうございます、アユムさん」
湯気の立つマグカップを受け取り、一口すする七尾さん。煙草の煙を天井にくゆらせながら、私の手元の本に視線を落とした。
「『キッチン』、読んでるねぇ。どう?」
「すごく優しい本ですね。言葉にできない孤独や寂しさが、温かい料理や居心地の良い空間で少しずつ解けていく感じがして」
「でしょ? 居場所ってさ、言葉で作るもんじゃなくて、空間の匂いとか手触りで作るもんなんだよねぇ」
七尾さんはベースの弦をぽろーんと鳴らし、どこか嬉しそうに目を細めた。
「アユムさん、その本、どこまで読んだ?」
「ちょうど主人公が、自分が安心できる場所を見つめ直すあたりです。なんだか、今の自分の立場と重なってしまって」
私が答えると、七尾さんはベースの弦をぽんと弾いて微笑んだ。
「自分だけの仕事、か。自分の手仕事に自信が持てないときってね、誰かの真似をしようとするか、逆に無理に個性を出そうとして歪んじゃうんだよね。でもさ、木を削ってるうちに、勝手に自分の癖や生き方がにじみ出てきちゃうもんじゃない?」
「勝手に、にじみ出る……」
「そうそう。隠そうとしても隠せないのが手仕事の面白いところだよ」
七尾さんが煙草を灰皿で消した十時十分。カチャリと引き戸が開いて、あーちゃんが入ってきた。
だぼっとしたグレーのスウェットパーカーに、長い前髪。首から下げた黒い密閉型のヘッドフォンを片方だけ外し、ボソッと小さな声で会釈をすると、あーちゃんは慣れた手つきで梱包用の段ボールやテープを準備し始める。週三日、こうして七尾工房にやってくる彼女は、本当に必要なとき以外ほとんど口を開かない。
だが、発送作業が一段落した休憩時間や作業の合間、あーちゃんは工房の隅に座り、自分持参の彫刻刀を取り出す。
今日の彼女の手元にあるのは、厚みのある一枚のナラ材だった。
あーちゃんが彫っているのは、ギターや家具の装飾などではない。純粋な一発勝負の木彫作品だ。
中標津の森に生きるエゾリス、シマフクロウ、キタキツネ、そして名もなき野の草花。言葉を持たない彼女は、木肌にノミを走らせることで、まるで自分の呼吸や感情をそのまま形に変えているかのようだった。
トントン、トントン。
木槌がノミの柄を叩く硬質な音が、静かな工房に響く。
あーちゃんの手元を見ていると、いつも驚かされる。彼女は下書きをほとんど描かない。ナラ特有の粗い木目をじっと見つめ、指先で木肌を撫でたかと思うと、迷いなくサクッと鋭い刃物を入れていくのだ。
削り出されたノミ跡(彫り跡)は、決して均一ではない。荒々しくもどこか優しく、光の当たる角度によって刻々と表情を変える。そこには、計算し尽くされた機械加工には絶対に真似できない「静寂の形」があった。
私は自分の作業台で、寄木細工の試作品に向き合いながら、あーちゃんの手元を何度もチラチラと盗み見ていた。
(どうして彼女の彫る木は、あんなに生き生きとして見えて、私の寄木はどこか頭でっかちで硬いんだろう……)
私の作っている寄木細工は、ウォールナットとメープル、パドックを組み合わせた幾何学模様のコースターや小さなトレイだ。直線と角度を精密に計算し、隙間なく組み上げる。
技術的には上達してきたはずなのに、完成した作品を並べてみると、どこか「理屈っぽい」のだ。冷たくて、整いすぎていて、手仕事の温もりが薄い気がしてしまう。
「うーん……」
私が腕を組んで唸っていると、七尾さんがYouTube撮影用のカメラの三脚をセッティングしながら声をかけてきた。
「アユムさん、何にそんなにおでこにシワ寄せてるの?」
「あ、七尾さん。……自分の寄木細工、なんだか整いすぎてて面白みがないんです。綺麗に組めてはいるんですけど、なんていうか……生き物っぽさがないというか」
七尾さんは私の作業台の上の寄木トレイをひょいと持ち上げ、光にかざして眺めた。
「綺麗じゃない。隙間もないし、面も出てるよ?」
「綺麗なんですけど、それだけなんです。あーちゃんが彫る木彫みたいに、ハッとさせるような表情がないんです」
すると、撮影のセッティングを終えた七尾さんが、ふふっと笑った。
「そりゃそうだよ。あーちゃんの木彫は『曲線』と『面のゆらぎ』でできてるけど、アユムさんの寄木は『直線』と『規則性』でできてるんだから。比べても意味ないよー」
「でも、直線の中にも温かみや表情って出せるんじゃないでしょうか。ただの工業製品みたいに見えちゃうのが悔しくて」
私がそう言うと、七尾さんはカメラを私に向け、いたずらっぽくレンズをズームさせた。
「よし、じゃあ今日のYouTubeは『アユムさんの寄木細工・苦悩編』で行きますか」
「ちょっと七尾さん、やめてくださいよ! 今週上げる動画がないからって、私の悩みで尺を稼ごうとしないでください」
「えー、視聴者さんはアユムさんが悩んで成長する姿が一番好きなんだよ? ほら、カメラ向いて『木と対話できません』って言って」
「言いませんよ!」
「まあまあ、そう怒らないでよ。……そうだ、じゃあこういうのはどう? チャンネル登録者数が三万人いったらさ、みんなで焼肉行こう。アユムさんもあーちゃんも、俺の奢りで」
七尾さんが唐突に言い出した提案に、私は思わず噴き出した。
「今、登録者何人でしたっけ……全然そんな数字じゃないですよね」
「だからこそ良いんだよ。遠い目標があった方が、頑張れるじゃない」
冗談とも本気ともつかない口調だったが、私は「じゃあ約束ですからね」と指切りの真似をして笑った。あーちゃんも作業の手を止めず、けれど小さく頷いていた。
冗談を言い合いながらも、七尾さんはカメラを回しつつ、自分の作業台でアコースティックギターのネックのシェイピング作業に入った。
「あー、なんか今日はカメラ気に――」
「はいはい、緊張するんですよね。知ってます」
先回りして言い切ると、七尾さんは「あれ、俺のセリフ盗られた」と苦笑いした。だが手元は恐ろしいほどサクサクと動き始める。南京鉋と呼ばれる小さな鉋を滑らせると、丸みを帯びた綺麗な木片がシュルシュルと舞い落ちていく。
直線の角材だった木が、七尾さんの手によって、弾き手の手に吸い付くような柔らかな「曲線」へと生まれ変わっていく。迷いのないその動きには、一切の無駄がない。
ファインダー越しにその職人技を撮影しながら、私はふと考えた。
直線で組み上げる寄木細工の中に、もし「曲線」や「自然の不規則さ」を取り入れることができたなら、どうなるだろうか。
夕方になり、YouTubeの動画撮影がひと段落した。
七尾さんがいつものようにストーブの上のお湯でお茶を淹れてくれる。
あーちゃんも梱包作業を終え、自分の作業スペースを丁寧に掃除していた。彼女の手元には、今日削り上がったばかりのナラ材の木彫が置かれている。一匹のエゾリスが、どんぐりを大切そうに抱えてうずくまっている見事な小品だった。
「あーちゃん、今日も良いのが彫れたねぇ」
七尾さんがお茶の入ったマグカップを差し出すと、あーちゃんは嬉しそうに「……ありがとうございます」と小声で答え、両手でカップを受け取った。
私は自分の作業台から、さっきまで悩んでいた寄木のトレイを持ち上げ、あーちゃんの元へ歩み寄った。
「あーちゃん、ちょっとこれ見てもらえる? 私の寄木、どうしても硬くて理屈っぽくなっちゃうんだけど……何かアドバイスあるかな」
あーちゃんは急に振られて目をパチクリさせたが、渡された寄木トレイを小さな手で受け取ると、じっと見つめた。指先で幾何学模様の直線部分を優しく撫でる。
そして、作業台に置いてあった自分のエゾリスの木彫をひょいと持ち上げると、私の寄木トレイの『角』にちょこんと載せた。
直線で組み上げられた硬い寄木トレイの角に、丸っこいエゾリスの木彫が一つ添えられた瞬間。
私と七尾さんは、示し合わせたように黙り込んだ。数秒、誰も何も言わなかった。
冷たく整いすぎていた寄木トレイが、一瞬にして「森の風景」へと変貌したのだ。直線の幾何学模様は、まるでエゾリスが佇む森の樹木や地面のように見え始め、全体に温かいストーリーが宿った。
あーちゃんはボソッと呟いた。
「……直線だけだと、寒そう」
「……寒そう」
私がその言葉を反芻すると、あーちゃんは少し恥ずかしそうに下を向き、小声で続けた。
「……寄木の四角い角に、丸いものが少し乗ると、安心する」
「あーちゃん、それすごいよ!」
私は思わず叫んでいた。
そうだ。私は寄木細工を単体で完成させようと必死になりすぎていた。直線と曲線を対立させるのではなく、寄木の精密な直線の上に、木彫の柔らかい曲線や遊び心を「組み合わせる」という発想が、私にはすっぽり抜け落ちていたのだ。
「いいねぇ、それ」
七尾さんもお茶を飲みながら、深く頷いた。
「アユムさんのきっちりした寄木と、あーちゃんの柔らかい木彫。ふたつの手が組み合わさったら、七尾工房にしか作れない面白い小物ができそうだねぇ」
あーちゃんは照れくさそうに頭を掻きながらも、満足そうに小さく笑った。
その日の作業が終わり、あーちゃんが「おつかれさまでした」と静かに帰っていったあと。
夕暮れの中標津の空が、群青色から深い濃紺へと溶けていく。
リビングの薪ストーブの横で、七尾さんはソファに深く腰掛け、本棚から一冊の文庫本を取り出してきた。カンナはいつの間にか座面の窪みから抜け出し、七尾さんの膝の上に移動している。
「アユムさん」
「はい、七尾さん」
「あーちゃんもさ、ここに来たばかりの頃はもっと表情が硬くて、人に心を開くのが苦手だったんだよ。でも、ここで黙々と木を削って、自分の作品が誰かに届くようになって、少しずつ自分の居場所を見つけていった。言葉にできない想いを、木に託して出してるんだよね」
七尾さんは白いジャズベースのボディを優しく撫でながら、どこか遠くを見るような温かい目で言った。
「……そうだったんですね」
「『キッチン』、そろそろ読み終わりそう?」
「あ、はい。今夜あたり読み終わると思います」
「じゃあ、次はこれ持っていきな」
七尾さんが本棚から取り出したのは、辻村深月さんの『かがみの孤城』だった。
「言葉にできない救いってのが、この世にはあるんだよ。文章でも、木工でもさ。この本もさ、居場所を失った者同士が、小さな城の中で自分の立ち位置を見つけていく話なんだ。アユムさんとあーちゃんを見てると、なんだか重ね合わせちゃってね。面白いから今度読んでみて」
「……はい。ありがとうございます」
私は受け取った文庫本の柔らかい感触を確かめた。
あーちゃんが今日見せてくれた、寄木の角に佇むエゾリスの姿。
言葉を使わなくても、手仕事を通して人と人が繋がり、互いの足りない部分を補い合って新しい形を生み出すことができる。
「あーちゃんとのコラボ、本格的に試作作ってみようかな」
私が呟くと、七尾さんはベースをベベンと鳴らし、「いいんじゃない? 湯川旅館の旦那あたりに見せたら、喜んで買い取ってくれそうだけどねぇ」と楽しそうに笑った。
ストーブの薪がハゼ、やかんから柔らかい湯気が立ち上る。
私は受け取ったばかりの『かがみの孤城』を大切に抱えながら、『キッチン』を読み終えたその先に、明日の朝どんな物語が待っているのかを楽しみに、作業台の片付けを始めた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
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七尾工房のストーブを温めて、また次の夜にお待ちしています。




