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七尾工房、それでも開店休業中  作者: 七尾 拓哉


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第1話 朝の静寂と、寄木の端材

北海道、根室振興局管内の中標津町。

二月の終わりから三月へと向かうこの時期の風は、吹き抜けるたびにどこか鋭い刃物のような尖りを残している。標津岳から吹き下ろす凍てつく冷気がログハウスの太い丸太壁を時折かすかに震わせ、広大な針葉樹林の湿った樹皮の匂いを工房へと運んでくる。


私――橋本歩(アユム)の朝は、午前七時に始まる。


二階の自分の部屋から静かに階段を下り、リビング兼休憩スペースへ向かう。まずは鋳物製の重厚な薪ストーブの扉を開け、一晩かけて赤く熾(おこ)ったまま残っている熾火(おきび)に、しっかりと乾燥したナラの細割り薪を数本くべた。


ジュッと小さな音とともに薪の表面が焦げ、パチパチと心地よいはぜ音がリビングに弾ける。やがてオレンジ色の柔らかな炎が薪を包み込んでいくのを確認してから、使い込まれて底が黒ずんだ大きなステンレスやかんにお湯を張り、ストーブの天板の上へと載せた。


手挽きのコーヒーミルに深煎りの豆を投入し、ハンドルを一定のリズムでゴリゴリと回す。手首に伝わるカリカリとした豆の砕ける感触とともに、部屋の中に濃厚で香ばしい苦みが満ちていく。


ミルを置き、ぐるりと部屋を見渡す。

壁際に置かれた白い合皮のソファ。その真ん中の座面には、長年の使用でできた小さな窪みがあり、そこがこの工房の「居場所」の象徴だった。ソファの横からは、旋盤や帯鋸(バンドソー)が鎮座する機械室と、作業台が並ぶ手作業室へと空間が広がっている。棚には、七尾さんが昨日まで丹念に仕込みを行っていたエレキギターのメイプルネックや、ウォールナット、チェリー、パドックといった様々な銘木の端材が詰まった木箱が整然と並んでいた。


ペーパードリップで淹れたてのコーヒーをマグカップに注ぎ、私はソファの右側に腰掛けた。そして、七尾さんに勧められて棚から手に取った一冊の文庫本を開く。


朝の静けさの中でページをめくるこの二十分ほどの時間が、私にとって一日の中で最も思考が澄み渡る大切なひとときだ。七尾さんに言われて始めたこの朝十分・夜十分の読書習慣も、気づけばもう完全に板についてきた。七尾さんはといえば、朝はまったく本を開かない。専ら夜、工房の灯りを一つだけ残した中で、一、二時間かけてじっくり読むタイプだ。年に百冊近く読んでいると本人から聞いたことがある。


今朝読んでいるのは、宮下奈都さんの『羊と鋼の森』だ。再読だ。


ピアノの調律師を目指す青年が、音の深みと自分の手仕事に向き合っていく静謐な物語。

東京の広告代理店で、クライアントの顔色とデータの数字だけに追われ、疲れ果てて退職した私にとって、一頁ずつ静かに紡がれる職人の呼吸は、渇いた砂に水がしみ込むように胸へと染み渡っていく。


やがて時計の針が午前九時五十分を指した頃、二階からドタドタと足音が聞こえ、階段から七尾さんが下りてきた。


四十代半ばのギター職人・七尾拓哉。寝癖を豪快に爆発させた頭に、膝が出かけた使い込まれたグレーのスウェット姿だ。ぼんやりとした半開きの目で私を見ると、どこか間抜けた声で言った。


「……おはよーございます、アユムさん」

「おはようございます、七尾さん」


七尾さんはそのままフラフラと勝手口に向かい、ドアを少し開けて外へ出ると、アメリカン・スピリットに火をつけた。中標津の氷点下の冷気を肺いっぱいに吸い込んで目を覚ますのが、彼の毎朝の欠かせないルーティンだ。


数分後、少しシャキッとした顔で戻ってきた七尾さんは、ソファの脇に立てかけてある白いジャズベースをひょいと抱え上げた。シンプルな白いボディに、使い込まれて琥珀色に変色したメイプルネック。アンプに通しもせず、ソファの左端に腰掛けると、生の「ベベン、ベン」という太く温かい弦鳴りを鳴らし始める。


「七尾さん、コーヒー淹れましたよ」

「あ、ありがとうございます、アユムさん」


七尾さんはベースを抱えたままマグカップを受け取り、一口すすると、「ふぅ」と深く息を吐いた。そして煙草の残り香とともにベースをポロンと爪弾きながら、湯気と紫煙を天井へとくゆらせる。


これが、七尾工房の毎朝の光景だ。

時計の針が十時十分を回るまで、七尾さんはコーヒーを飲み、煙草を吸い、ベースや伊吹設計のアコースティックギターを気ままに弾く。そして十時十分になると、何事もなかったかのように立ち上がり、作業室へと向かうのだ。


私達、七尾工房の主たる仕事は、エレキギターやエレキベース、アコースティックギター、ウクレレの製作だ。だが、七尾さんのすごさはそれだけにとどまらない。


ギターを削る工程でどうしても出てしまう、高級な銘木の端材。七尾さんはそれを捨てず、独自の寄木細工技法を使って、カッターナイフや木軸のボールペン、栗の形をした置き時計、チェック柄の壁掛け時計、ヒノキのメガネケースといった素晴らしい木製小物を生み出している。


これが、七尾さんの個人Instagramで非常に人気なのだ。

フォロワー数は五千人を超え、定期的に新作や販売告知を投稿すると、全国から注文が届き、あっという間に完売してしまう。工房のYouTubeチャンネルの製作動画にも、少しずつだが着実にファンが増えていて、コメント欄には「見ているだけで心が落ち着く」「木肌の触感が伝わってくる」という声がいつも並んでいた。


時折、「弟子入りさせてください」「見学に伺ってもいいですか」というコメントが届くこともあったが、七尾さんはそのたびに「うちはもう手一杯だからさぁ」と、コメント欄に軽く返信するだけだった。本気なのか冗談なのか分からない、いつもの飄々とした返し方だった。


「……アユムさん、今朝は何読んでるの?」


ベースの四弦を指の腹で軽く押さえながら、七尾さんが私の手元を覗き込んできた。


「あ、七尾さんに先週勧められた『羊と鋼の森』です」


私は文庫本の表紙を七尾さんに見せた。


「あぁ、良い本でしょ」

七尾さんは嬉しそうに目を細め、ベースの弦をぽろーんと鳴らした。

「ピアノの調律ってさ、ただ音高を合わせるだけの作業じゃないんだよね。弾く人の好み、その部屋の響き、そして木と金属でできたピアノっていう個体そのものの『声』を聞き分けて、整えていく仕事。……僕らが木を削ってギターを作ったり、寄木で家具の形を整えたりするのと、まるで同じなんだよねぇ」


「すごく静かな文章で、読んでいて吸い込まれます。調律師の主人公が、自分の技術と心に向き合っていく姿が印象的で」


「そうそう。派手な事件なんて起きないんだけどさ、一人の人間が自分の手仕事と向き合って、迷いながらも少しずつ深いところへ降りていく。アユムさんが今やってる寄木細工の修行にも、通じるところがあるんじゃない?」


七尾さんはそう言って、マグカップをテーブルに置いた。

東京の代理店を辞め、逃げるようにこの地にやってきて弟子入りした私に対し、七尾さんは決して「ああしろ」「こうしろ」と威圧的に命令することはない。いつも「アユムさん」と呼び、友人と話すような穏やかな口調で、こうした本や日々の作業を通して、職人としての生き方のヒントをそっと置いていってくれるのだ。


ふと、工房の引き戸が静かに開いた。


「……おはようございます」


ボソッと小さな声で入ってきたのは、アルバイトのあーちゃんだ。だぼっとしたグレーのスウェットパーカーに身を包み、長い前髪の下から覗く目は今日も眠そうに半分伏せられている。首には黒い密閉型のヘッドフォンがかけられていて、工房に入るときだけそれを外すのが彼女の癖だった。


週三日、こうしてふらっとやってきては、ネットで売れた寄木カッターナイフやボールペンの梱包、発送業務、工房内の掃除をこなしてくれる。札幌の美大で彫刻を学んでいたという彼女は、ほとんど喋らず、いつも気配を消すように淡々と作業をしているが、たまに誰も思いつかないような核心を突く一言を投げてくる。


あーちゃんは私達に小さく会釈をすると、慣れた手つきで発送用のダンボールを組み立て始め、作業スペースの隅で自分の木彫用のナイフを取り出した。彼女は梱包の合間や休憩時間に、自分用に持参した銘木の端材で、小さな動物や植物を削り出すのが日課だった。その彫りの繊細さときたら、寄木一筋の七尾さんですら「あーちゃんの彫刻には敵わないんだよねぇ」とこぼすほどだ。


時計の針が、十時十分を指した。


「よし、じゃあ今日もやりますかー」


七尾さんは白いジャズベースをスタンドに戻すと、煙草を灰皿で消し、作業室へと向かった。飄々とした雰囲気が、一瞬で「一流の職人」の纏う空気へと切り替わる。


私は自分の作業台に向かい、昨日から取り組んでいる寄木細工のパーツを並べた。


七尾さんの寄木細工を手本にしながら、私も自分のオリジナル寄木小物を作ろうと試行錯誤している最中だ。だが、これが想像以上に難しい。

ウォールナットの深い焦げ茶、メープルの柔らかな白、パドックの鮮やかな赤。硬さも密度も、油分の含み方も違う木々を、コンマ数ミリ以下の精度で正確に切り出し、隙間なく接着しなければならない。


「うーん……やっぱり、ここでコンマ二ミリズレるな」


精密なノギスを作業台に置き、私は思わず深々と溜め息をついた。

東京でサラリーマンをしていた頃、私が扱っていたのは言葉や数字のデータだった。それらはプレゼン資料の中で都合よく伸縮し、時に誤魔化すこともできた。だが、木という物質は恐ろしいほど嘘をつかない。コンマ二ミリの隙間は、どれだけ言葉で言い訳をしようが、隙間としてそこに厳然と存在し続けるのだ。


「アユムさん、またノギスと喧嘩してるの?」


作業室の奥から、エレキギターのネックをサンディングしていた七尾さんが顔を出した。


「あ、七尾さん。……どうしてもウォールナットとメープルの継ぎ目に微小な隙間ができちゃうんです。角度も切り幅も完璧に合わせたつもりなんですけど」


七尾さんは作業台まで歩いてくると、私が切り揃えた小指ほどの大きさの木のパーツをひょいと手にとった。指の腹で滑らせるように撫で、工房の斜光にかざす。


「うーん、鋸(のこ)の挽き目は悪くないよ。でもね、アユムさん。メープルの方が少し湿気を吸ってるね。中標津の冬は乾燥してるけど、薪ストーブを入れたり切ったりすると木が呼吸しちゃうからさ。硬くて変化の少ないウォールナットに、湿気で少し膨らんだメープルを強引に合わせようとしても、木が嫌がっちゃうんだ」


「木が、嫌がる……」


「そう。手で触って確かめるのも大事だけど、部屋の空気を感じなきゃ。木はね、人間が思うよりずっと素直で、ずっと我慢強いよ。限界まで我慢して、ある日突然、パキッと割れて主張する。……人間と違って言い訳したり嘘をついて誤魔化したりしないから、可愛いんだけどねぇ」


七尾さんはふふっと笑い、パーツを私の手の上に戻した。


「ノギスで数字を見るのも良いけど、一回ノギスを置いたら? 自分の手のひらと目で、木が『ここなら収まってもいいよ』って言ってる場所を探すんだよ」


そう言い残すと、七尾さんは自分の作業台へ戻り、再びキュッキュッと木を研磨する音を響かせ始めた。


ノギスを置く。

私は言われた通り、金属の重みを持つノギスを作業台の隅に静かに置き、大きく深呼吸をした。


目の前の木のパーツに手を伸ばし、手のひらと指の腹の皮膚感覚を研ぎ澄ませる。ウォールナットとメープルの表面を交互にゆっくりと撫でてみる。確かに、触れてみるとメープルの方がどこかしっとりと湿気を帯びており、目には見えないレベルでわずかに膨らんでいるような抵抗感があった。


(数字上の計算だけを追うんじゃない。今の木の状態を見るんだ)


私は小鉋(こがんな)を取り出し、刃の出幅を極限まで薄く仕込んだ。息を吐きながら、メープルの側面をシュッと一筋だけ削る。絹糸のように透き通る薄いカンナくずが舞い落ちた。


削り面をもう一度ウォールナットと合わせ、手で優しくプレスしてみる。


吸い付くように、隙間が消えた。


「あ……」


思わず声が出た。

ノギスが示す数値の向こう側に、木と木が互いを許し合い、吸い付くように収まるポイントが存在していたのだ。


その時、梱包作業をしていたあーちゃんが、私の作業台の横を通りかかった。あーちゃんはヘッドフォンを片耳だけずらし、私の手元にある寄木のパーツと、そこから落ちた小さなカンナくずをじっと見つめると、ボソッと呟いた。


「……無理に押し付けると、後で喧嘩する」


「え?」


「木も、人も」


あーちゃんはそれだけ言うと、完成したカッターナイフの箱に送り状をペタリと貼り、再びヘッドフォンを両耳に戻して黙々と作業に戻っていった。


相変わらず言葉数は少ないけれど、まさに七尾さんが言おうとしていたことの本質だった。違う性質を持つ者同士が一緒に居続けるには、お互いのズレを強引に潰すのではなく、すんなり収まる「余白」が必要なのだ。


午後になり、工房の窓から柔らかい春の陽光が差し込んできた。


ここで私は、動画監督としての仕事に取りかかることにした。YouTubeチャンネルの動画撮影と編集は、元広告代理店勤務の私の担当業務だ。


「七尾さん、今日の作業撮らせてください。今週上げる動画がもうないんで」


私は三脚から外したカメラを構え、レンズを七尾さんへと向けた。


「え、今日撮るの? カメラあると緊張するんよねー」


七尾さんはそう言って苦笑いしながら頭を掻いたが、作業台に置かれたアコースティックギターのブレーシング(力木)を削り始めると、口とは裏腹にその手元はサクサクと動き出した。迷いのないノミ捌きで、スプルースの木片が薄く削り落とされていく。


「全然緊張してる手つきじゃないですよ。めちゃくちゃスムーズです」

「いやいや、ほんとに心臓バクバク言ってるって。……ほら、ここ、コンマ何ミリかのカーブが音の膨らみを左右するからさぁ」


文句を言いながらも、カメラの向こうで魔法のように木を仕立てていく七尾さん。私はファインダー越しにその職人技を克明に捉えながら、寄木細工とはまた違う「音を作る手仕事」の美しさに息をのんだ。


撮影が一段落した夕方、七尾さんがストーブのやかんからお湯を注いで新しいお茶を淹れてくれた。ソファの左端に腰を下ろすと、真ん中の窪んだ座面には、いつの間にか三毛猫のカンナが丸くなって収まっている。


「アユムさん、今日の寄木、良い顔になってきたね」


「ありがとうございます。七尾さんとあーちゃんのおかげです。木を力でねじ伏せようとしていました」


「はは、最初はみんなそうだよ。僕だって昔はさ、硬い木を強引に削ろうとして、ノミを何本もダメにしたもんねぇ」


七尾さんはそう言って遠い目をした。かつて長野の楽器工房で、亡き親友の伊吹さんとともにギター作りに没頭していた頃の記憶だろうか。七尾さんは多くを語らないが、その背中にはいつも、積み重ねてきた圧倒的な年月と情熱が滲み出ている。


「あ、そうだ、アユムさん」


七尾さんは思い出したように、ソファの横の棚からもう一冊の本を取り出してきた。


「『羊と鋼の森』を読み終わったら、今度はこれ読んでみてよ。面白いから」


手渡されたのは、塩野米松さんの『失われた手仕事の思想』だった。


「手仕事の思想、ですか」


「そう。日本全国の職人さんたちにインタビューした本なんだけどさ。昔の職人たちが、どんな風に木や竹や土と会話していたかが書かれてるんだ。アユムさんがこれから自分の寄木細工を作っていく上で、すごく良いヒントになると思うよ」


「……ありがとうございます。いただきます」


私は受け取った本のずっしりとした重みを感じた。


毎朝、七尾さんが紹介してくれる本。

毎朝、七尾さんが奏でる白いジャズベースの音。

そして、この中標津の静寂と、木の匂い。


東京での忙しない日々を捨ててこの地にやってきた私の選択は、間違っていなかった。ここでは、時間が、そして命が、木目と同じようにゆっくりと、けれど確実に刻まれていく。


「よし、あーちゃん! 今日も発送作業おつかれさま。湯川旅館から貰ったお菓子があるから、食べていきなよー」


七尾さんが声をかけると、あーちゃんはヘッドフォンをかけたまま、嬉しそうに小さく頷いた。


窓の外では、中標津の空が深い群青色へと染まり始めている。

静かな工房の中に、ストーブの薪がハゼる音と、あーちゃんが木を削る小さな刃物の音、そしてカンナの小さな寝息が心地よく響いていた。私の手の中にある寄木の作品も、明日にはきっと、固く温かい絆で結ばれているはずだ。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


もしこのお話が、あなたの心にほんの少しでも「正しい重心」で響いたなら、

下の【ハート(いいね)】や【フォロー】、【⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎】という名の小さなノミを入れて、

この物語を一緒に削り出していただけると嬉しいです。


七尾工房のストーブを温めて、また次の夜にお待ちしています。

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