第九十七話「図書館の幽霊と色褪せた押し花」
第九十七話「図書館の幽霊と色褪せた押し花」
二〇〇〇年代初頭の台北。街の中心部に位置する歴史ある公立図書館は、無数の書物が放つ古い紙とインクの匂いに包まれ、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。しかし、どれほど静寂を保とうとも、この台湾では「視えない哀しみ」がふとした隙間に淀んでしまう。
「……先輩、この通路です。本棚の間から、ひどく冷たくて重い陰の気が漏れ出しています」
文学コーナーの奥深く、李美鈴は足元に付き従う分霊の黒犬・シャドウの唸り声を聞きながら足を止めた。 市役所の林担当員から双霊相談事務所のiMacに届いた依頼は、
「特定の書架に近づいた利用者が、突然ポロポロと涙を流し、激しい喪失感と過呼吸に襲われて倒れる」というものだった。
同時に、誰も触れていない本が次々と床に叩き落とされるという物理的な霊障も報告されている。
「文字に込められた人間の念が残りやすい場所だからな。古い図書館は、迷える魂にとって格好の隠れ家になる」
佐藤蓮は周囲への警戒を怠らず、背に負った帰真剣の鞘を引き寄せた。霊感が乏しい彼にも、この通路だけが真冬の冷蔵庫のように冷え切っているのが肌で感じ取れた。
「視えました。……ずっと昔の、セーラー服のような学生服を着た若い女性の霊です」
美鈴の双眸が、薄暗い書架の前に立つ幽霊の姿を捉える。
「彼女、泣きながら本棚を荒らしています。何かを必死に探している……。本を開いては中身を確認して、首を横に振って床に落として。彼女の『見つからない』という焦燥感と、『想いを伝えられなかった』という後悔がどす黒い霧になって、周囲の利用者の精神を削っているんです」
バサバサバサッ! 美鈴の言葉を裏付けるように、霊の周囲にある数十冊の分厚い文学全集が一斉に宙に浮き上がり、見えない力で床へ叩きつけられそうになった。
「本を傷つけさせるわけにはいかないな。ここで空間を縛る!」
蓮は即座に鞄から黄色い護符を取り出し、鋭い踏み込みと共に書架の四方へ打ち放った。
「道法無辺、急々如律令!」
バチィッ、と空気が弾ける音と共に符が空中で静止し、通路をすっぽりと覆う強固な結界が展開される。宙に浮いていた本は結界の力によって動きを止め、ドサリと床に落ちた。霊障の冷気も結界の壁に阻まれ、他のフロアへ漏れ出すのを完全に塞がれた。
結界の中で動きを封じられ、顔を覆って泣き崩れる女子学生の霊に対し、美鈴がゆっくりと歩み寄る。 彼女の指先から、ケルト魔術の温かく柔らかな緑色の光が溢れ出し、冷え切った通路を春の陽だまりのように照らし出した。
「あなたが探しているのは、これですね」
美鈴の視線の先、床に落ちた一冊の古い詩集が開いていた。そのページの間には、長い年月を経て茶色く色褪せ、パリパリに乾燥した
「しおり代わりの押し花」が挟まっていた。
「……ずっと昔、あなたが想いを寄せていた彼が、この本と一緒に貸してくれたお花。あなたは自分の気持ちを書いた手紙をこの本に挟んで返そうとしたけれど……勇気が出なくて、お花だけを挟んで、書架の奥に隠してしまったのね」
美鈴の優しい台湾華語に呼応するように、指先から放たれた緑色の光の粒子が、色褪せた押し花に降り注いだ。すると、茶色く枯れていた押し花が、霊の記憶の中にある「摘みたての鮮やかな黄色い小さな花」の幻影を取り戻した。
「あなたの時間はここで止まってしまったけれど、彼もずっと、あなたの返事を待っていたんですよ。……このお花が残っている限り、あなたの優しい気持ちは本物です。だからもう、自分を責めて泣かないで」
緑色の光が女子学生の魂を包み込む。鮮やかな黄色い花を見た彼女は、ハッとしたように目を見開き、やがて大粒の涙をこぼしながら、大事そうにその花を胸に抱きしめた。彼女を縛り付けていた強い後悔が、静かな安堵へと溶けていく。シャドウがそっと近づき、彼女の足元に丸くなった。
「見事だ。……君の想い、確かに受け取った」
未練の糸が完全に解けたのを感じ取った蓮は、背中の帰真剣を静かに引き抜いた。直剣の切っ先を女子学生の魂へと向け、澄み切った声で真言を紡ぐ。
「帰真――本来の姿へ還れ」
清浄な波紋が剣先から放たれ、霊を優しく包み込む。女子学生は最後に美鈴たちに向かって、花のように可憐な微笑みを浮かべると、本から舞い上がる埃の粒子に溶け込むようにして、天へと昇っていった。
「……祓清完了だ。しかし、見事な推理だったな。どうしてあの押し花だと分かったんだ?」
蓮が剣を鞘に収め、床に落ちた本を拾い集めながら尋ねると、美鈴は少し得意げに胸を張った。
「見鬼の力で彼女の感情の糸を辿ったんです。それに、乙女の隠された恋心に気づくのは、同性としての直感ですよ! 先輩みたいな朴念仁には一生分からない領域です」
「はいはい、恐れ入りました。林さんには、霊障は解決したと伝えておいてくれ。本も元の場所に戻したし、帰るとしよう」
静寂を取り戻した図書館を後にし、外へ出ると、台北の空はすでに美しい夕暮れに染まっていた。
「ふぅ……。古い本に詰まった恋心に触れたら、なんだか無性に甘くて優しいものが食べたくなりました」
美鈴がシャドウを撫でながら、蓮の顔をチラリと見る。
「図書館の近くと言えば公館エリアだな。台湾大学の学生街だ。……豆花でいいか?」
「さすが先輩! 分かってますね! 温かいシロップに、ピーナッツとタロイモ団子(芋圓)を全部乗せでお願いします! シャドウには、シロップ抜きのプレーンなお豆腐をお願いしますね!」
「わかってる。今日の仕事も完璧だった。俺が奢ろう」
夕闇が迫る学生街の喧騒の中へ、二人の影が楽しげに伸びていく。 古い書物に挟まれた色褪せない想いを見届けたバディの穏やかな夜は、温かい甘味と共に静かに更けていった。




