第九十六話「旧台北駅の記憶と夜行列車の切符」
第九十六話「旧台北駅の記憶と夜行列車の切符」
二〇〇〇年代初頭の台北。急速な近代化が進むこの都市において、交通の心臓部である台北駅もまた、巨大な地下空間を持つ近代的なターミナルへと生まれ変わっていた。しかし、かつて地上にあった旧駅舎の記憶は、この街の地面の下に、目に見えない地層のように堆積している。
「先輩、林さんから緊急の依頼です。台北駅の地下街で、深夜になると存在しないはずの『蒸気機関車の汽笛』が聞こえるそうです」
双霊相談事務所の土間で八極拳の套路を終え、汗を拭っていた佐藤蓮に、李美鈴がiMacの画面から顔を上げて声をかけた。
「汽笛、だと? 現在の地下化された駅でか」
「ええ。その音を聞いた終電間際の清掃員や駅員が、次々と強烈な郷愁と悲哀に襲われ、涙を流して倒れ込んでいると。……古い地縛霊の霊障ですね」
「なるほど。急速に景色が変わった場所には、過去に取り残された魂が迷いやすい。準備をしてすぐに向かおう」
深夜の台北駅地下通路。シャッターが下り、蛍光灯が冷たく床を照らす無人の空間に、蓮と美鈴の足音だけが響いていた。
「……先輩、この角の先です。凄まじい陰の気が渦巻いています」
美鈴の足元で、分霊の黒犬・シャドウが全身の毛を逆立て、暗がりへ向かって低く唸り声を上げる。霊感がほとんどない蓮の目にはただの地下通路に見えるが、肌を刺すような凍てつく冷気と、石炭の燃えるような古い匂いが鼻腔を突いた。
「視えるか、後輩さん」
「……はい。壁際に、学生服を着た若い男性の幽霊が立っています。ずっと昔の、坊主頭の学生さん。彼の手には、くしゃくしゃに握りしめられた一枚の切符……高雄行きの、夜行列車の切符です」
美鈴の瞳が、常人には不可視の情景を鮮明に捉える。
「彼は泣いています。ずっと誰かを待っているのに、約束の人が来ない。夜行列車に乗って、二人で遠くへ行くはずだったのに……。彼が抱える『置いていかれた悲しみ』と『届かなかった想い』が霊障となって、この通路を旧駅舎のホームへと作り変えようとしています」
美鈴がそう言った直後、通路の奥から「ポォォォーッ」という、鼓膜を劈くような幻の汽笛が鳴り響いた。同時に、眩い蒸気機関車のヘッドライトの幻影が迫り、凄まじい冷気と絶望感が津波のように二人へ襲いかかる。
「周囲の空間ごと霊障に飲み込まれるぞ。ここで縛る!」
蓮は即座に鞄から数枚の黄色い護符を引き抜き、鋭い呼気と共に通路の四方へ打ち放った。
「道法無辺、急々如律令!」
バチィッ、と空気が弾ける音と共に符が空中で静止し、強固な結界が展開される。幻の蒸気機関車の突進は結界の見えない壁に激突して霧散し、通路を覆い尽くそうとしていた冷気も完全に遮断された。
結界の中で立ち尽くし、手元の切符を見つめながらさらに深く絶望しようとする青年の霊に、美鈴がゆっくりと歩み寄る。 彼女の指先から、ケルト魔術の温かく柔らかな緑色の光が溢れ出し、冷え切ったコンクリートの通路を優しく照らし出した。
「もう、ここで待たなくても大丈夫ですよ」
美鈴は台湾華語で、青年の凍りついた心を溶かすように優しく語りかけた。
「あなたが待っていたあの人は、決してあなたを裏切ったわけじゃない。時代に翻弄されて、どうしてもこの駅にたどり着けなかっただけなんです。……彼女は生涯、あなたのことを想い続けて、そして先に遠い場所へ旅立ちました」
緑色の光の粒子が青年の魂を包み込む。彼の手の中で固く握りしめられていた夜行列車の切符の幻影が、光に溶けてふわりと消えていく。 「地上にあった古い駅舎は、もうありません。あなたが乗るべき列車は、もう彼女が待っている終着駅に向かって出発する時間ですよ」
美鈴の温かい言葉に触れ、青年の霊はゆっくりと顔を上げた。その頬を伝っていた悲しみの涙が止まり、彼は憑き物が落ちたような穏やかな表情で、深く一つ頷いた。シャドウがそっと近づき、青年の足元に鼻先をすり寄せる。
「見事だ。……切符はなくても、俺が送り届けてやる」
未練の糸が解けたのを感じ取った蓮は、背中の帰真剣を静かに引き抜いた。中国風の直剣の切っ先を青年の魂へと真っ直ぐに向け、澄み切った声で真言を紡ぐ。
「帰真――本来の姿へ還れ」
清浄な波紋が剣先から放たれ、青年の霊を優しく包み込む。彼は最後に美鈴と蓮に向かって深く一礼すると、遠くで鳴る穏やかな発車ベルの音に溶け込むように、光の粒子となって天へと昇っていった。
「……祓清完了だ」
蓮が剣をカチャリと鞘に収めると、通路を満たしていた冷気と古い石炭の匂いは完全に消え去り、再び無機質な地下鉄の静寂が戻ってきた。
「ふぅ……終わりましたね。なんだか、一本の古い映画を観たような気分です」
美鈴が小さく息をつき、シャドウの頭を撫でた。
「ああ。旧日本軍が霊界の門を開いたせいで、この島にはまだまだ古い時代の悲哀が淀んでいる。それを少しずつ解きほぐしていくのが俺たちの仕事だ」
蓮が護符を回収して踵を返そうとした瞬間、美鈴がパッと顔を輝かせて蓮の前に回り込んだ。
「さて先輩! 悲しい映画の後は、美味しいご飯と決まっています! 台北駅の近くと言えば、やっぱり『胡椒餅』ですよ!」
「こんな深夜に開いてる屋台があるのか?」
「少し歩けばあります! 釜の壁に貼り付けて焼いた、外はパリパリ、中は肉汁とネギがたっぷりで胡椒がピリッと効いた熱々の胡椒餅……想像しただけでお腹が鳴りそうです! シャドウにも、中のネギを抜いたお肉のところを少し分けてあげますから!」
「やれやれ。お前のその切り替えの早さには、いつも感心させられるよ。まあいい、今日の報酬も確実だ。俺が奢ってやる」
深夜の静けさを取り戻した台北駅を後にし、夜風が吹き抜ける地上へと続く階段を登っていく。過去の記憶が眠るこの街で、二人の軽快な笑い声が、ネオンの光が滲む台北の夜空へと溶けていった。




