第九十五話「猫空の星空と幻の烏龍茶」
第九十五話「猫空の星空と幻の烏龍茶」
台北市の南端に位置する山間部、猫空。鉄観音茶の名産地として知られ、切り立った斜面には数多くの茶藝館が点在している。二〇〇〇年代初頭の現在、後に名物となるロープウェイはまだ影も形もなく、訪れる人々は車や路線バスに揺られ、細く曲がりくねった急勾配の山道を登っていくのが常だった。
黒のトヨタ・カローラ・アルティスが、街灯の少ない夜の山道をヘッドライトで切り裂きながら、急カーブを慎重に登っていく。
「先輩、もう少し安全運転でお願いしますよ。祓清(除霊)の機材より先に、私の胃袋がシェイクされて使い物にならなくなっちゃいます」 助手席の李美鈴が、窓の外に広がる台北盆地の眩い夜景から目を離さずに言った。足元では、分霊の黒犬・シャドウがカーブのたびに踏ん張っている。
「無茶を言うな、後輩さん。この暗さでこの勾配だ。毎朝の八極拳の歩法より慎重にペダルを踏んで、エンジンの回転数を調整しているんだぞ」
ハンドルを握る佐藤蓮は、苦笑しながら一つ下のギアへと落とした。 二人が向かっているのは、猫空の山頂付近にある、古いレンガ造りの立派な茶藝館だ。市役所の林担当員から舞い込んだ依頼によれば、
「夜になると誰もいない茶室から、延々とお茶を淹れるような音が聞こえる。そしてその場に居合わせた従業員や客が、唐突に深い絶望感と無気力感に襲われて倒れる」という。精神を蝕む典型的な霊障だった。
現場の茶藝館に到着すると、眼下にはまるで宝石箱をひっくり返したような台北の夜景が広がり、見上げれば都会の光に負けない満天の星空が輝いていた。しかし、その美しい景観とは裏腹に、建物の周囲には肌を刺すような濃密な「陰の気」が立ち込めている。
「……かなり強い執着ですね。シャドウの毛も逆立っています」
美鈴の言葉通り、シャドウが建物の奥にある離れの茶室に向かって低く唸り声を上げた。霊感の乏しい蓮にも、その一角だけ空気が不自然に重く、真冬のように冷え切っているのがはっきりと分かる。 二人は息を潜めながら、静まり返った茶室へと足を踏み入れた。
「……先輩、いました。立派な一枚板の茶盤の前です」
美鈴の双眸が、常人には不可視の存在を明確に捉えた。
「初老の男性の幽霊です。古い仕立ての長着を着て、一心不乱に紫砂壺(素焼きの急須)にお湯を注ぎ続けています。でも、淹れたお茶を自分で飲むことはなく、香りを確認しては首を横に振り、幻の茶湯を捨てて、また新しい茶葉にお湯を注ぐ……それを延々と繰り返しているんです」
男性の霊の周囲には、彼の「完璧な一杯が淹れられない」という強烈な焦燥感と、「あの人に飲ませてあげられなかった」という途方もない悲哀が、どす黒い霧となって渦巻いていた。その行き場のない感情が霊障となり、この茶藝館を訪れる者たちの生気を削り取っていたのだ。 美鈴が状況を伝える間にも、部屋の温度は急激に下がり、棚に飾られた青磁の茶器がカタカタと不気味な音を立てて激しく震え始めた。窓ガラスには霜が降り、物理的な干渉が強まっていく。
「これ以上、彼の悲しみを周囲に撒き散らさせるわけにはいかない。ここで空間を縛るぞ」
蓮は鞄から素早く数枚の符を取り出し、部屋の四隅へ向けて手裏剣のように鋭く打ち放った。
「道法無辺、急々如律令!」
バチィッ、と空気が弾ける音と共に、空中で黄色い符が静止する。部屋全体を覆う強固な結界が展開され、男性の霊から吹き出していた冷気とどす黒い霧が結界の壁に阻まれ、外へ漏れ出すのを完全に封じた。
結界に閉じ込められたことでパニックを起こし、茶器を乱暴に払いのけようとする霊に対し、美鈴がゆっくりと歩み寄る。 彼女の指先から、幼き日に恩師イザベラから授かったケルト魔術の、温かく柔らかな緑色の光が溢れ出し、冷え切った茶室の空気を優しく包み込んだ。
「もう、これ以上お茶を淹れ直す必要はありませんよ」
美鈴は台湾華語で、怯える子供をあやすように静かに語りかけた。緑色の光の粒子が霊に触れると、彼を縛り付けていた焦燥感が少しずつ溶け出していく。
「あなたが真心を込めて淹れたお茶の香りは、あなたが待っていたあの人に、とうの昔に届いています。完璧なお茶じゃなくても、あなたが淹れてくれたというだけで、あの人は十分に幸せだったはずです。だから……もう休んでください」
美鈴の温かい言葉と魔術の光に触れ、男性の霊の手がピタリと止まった。彼は自分の透けた両手を見つめ、次いで美鈴の方を向き、長年の重荷を下ろしたように深く、安堵の息を吐いた。
「見事だ、後輩さん。……あとは俺が送ろう」
未練の糸が完全に解け、部屋を満たしていた霊障の霧が晴れていくのを感じ取った蓮は、背中の帰真剣を静かに引き抜いた。 彼は中国風の直剣の切っ先を男性の魂へと真っ直ぐに向け、澄み切った声で真言を紡いだ。
「帰真――本来の姿へ還れ」
清浄な波紋が剣先から放たれ、霊を優しく包み込む。男性は最後に、幻の小さな茶杯を掲げて蓮と美鈴に乾杯するような仕草を見せると、窓の外に広がる満天の星空に向かって光の粒子となり、静かに昇っていった。
「……ふぅ。終わりましたね」
美鈴が大きく伸びをして、足元ですり寄るシャドウの頭を撫でる。 「ああ。自分の技術を追い求めすぎるあまり、一番大切な『誰のために淹れるのか』を忘れてしまっていた悲しい魂だったな。無事に送れてよかった」
蓮が帰真剣をカチャリと鞘に収めると、茶室には本来の穏やかな静寂と、微かな茶葉の香りが戻っていた。
数十分後。無事に祓清を終えた二人は、平身低頭で感謝する茶藝館の店主から振る舞われた特級の鉄観音茶を、見晴らしの良いテラス席で味わっていた。
「ん〜! 香ばしくて、後味がすっきりして……星空の下で飲む熱い烏龍茶、最高ですね!」
「他人の強い未練に当てられた後だからな。上質な茶が五臓六腑に染み渡るよ」
蓮が湯気の立つ茶杯を傾けていると、美鈴がメニュー表を片手に目を輝かせた。
「先輩! 猫空に来たら、お茶だけ飲んで帰るなんてあり得ませんよ! 茶葉を使った料理を食べなきゃ! この『茶油麺線』と、茶葉の炒飯、それから鶏のスープも頼みましょう!」 「わかった、わかったから少し落ち着け。今日の報酬も無事に満額出そうだし、たっぷり奢ってやる」
「やった! シャドウにも味付け無しの茹で鶏を分けてあげますからね!」 「ワフッ!」
台北の眩い夜景と、静寂な星空の狭間。 視えない哀しみを祓い終えた二人のバディの穏やかな笑い声が、猫空の澄んだ夜風に乗って夜空へと溶けていった。




