第九十四話「地下鉄の死角と黒衣の呪詛」
第九十四話「地下鉄の死角と黒衣の呪詛」
二〇〇〇年代初頭の台北。急速に発展を遂げる交通網の象徴であるMRT(捷運)は、昼夜を問わず市民の生活に欠かせない足となっている。しかし、光が強ければ影もまた濃くなるように、真新しい地下空間の死角には、得体の知れない闇が淀みやすかった。
「……先輩、ここです。この鉄扉の先から、酷い悪意を感じます」
台北駅の地下深く、一般客の立ち入りが固く禁じられている保守点検用の通路の前で、李美鈴は足を止めた。彼女の足元では、分霊の黒犬・シャドウが全身の毛を逆立て、奥の暗闇に向かって激しく牙を剥いている。
「ただの霊障じゃないな。肌を刺すこの嫌な感覚……明確な作為を感じる」
佐藤蓮は、周囲の空気を警戒しながら帰真剣の入った鞄を引き寄せた。 市役所の林担当員から緊急で回されてきた今回の依頼は、
「台北駅の特定の地下通路を通った駅員や警備員が、次々と突発的な精神錯乱と自殺衝動に駆られて倒れる」
という極めて危険なものだった。霊が自然発生的に引き起こす未練や悲しみの類ではない。他者に明確な危害を加える目的で作られた、法律で固く禁じられている犯罪行為――「呪詛」の可能性が高かった。
重い鉄扉を押し開け、二人は薄暗いコンクリートの通路へと足を踏み入れた。 数メートル進んだ先、換気扇の鈍い音が響く行き止まりの空間に、それは「配置」されていた。
「酷い……!」 美鈴が思わず息を呑む。 霊感がほとんどない蓮には、通路の奥にどす黒い霧(霊障)が異常な密度で渦巻いていることしか分からない。しかし美鈴の瞳には、黒い布のような呪力の縛めによって壁に磔にされ、苦痛に顔を歪める初老の男性の霊の姿がはっきりと映っていた。
「行き場を失った浮遊霊を無理やり捕まえて、呪詛の『動力源』として使っているんです。彼自身の苦しみと絶望を増幅させて、周囲に自殺衝動の霊障を撒き散らすように細工されています。……信じられない、こんな複雑で悪辣な術式を組める人間がいるなんて」
インターネットを通じて呪詛のやり方を売り捌いている謎の組織「枢栄会」。最近、呉さん経由の裏社会の情報でよく耳にすることが多くなって来たその名前が、蓮の脳裏をよぎった。旧日本帝国軍の思想に傾倒し、独自の呪詛を完成させたという天才、張志豪。おそらく、これは彼の実験的な作品の一つなのだろう。
「感心している場合じゃないぞ、来る!」
蓮の鋭い声と同時、磔にされた霊から吹き出したどす黒い怨念が、物理的な衝撃を伴う触手となって二人へ襲いかかってきた。 蓮は八極拳の歩法で瞬時に身を沈め、鋭い踏み込みで呪詛の触手を躱すと、懐から数枚の護符を取り出して通路の四方へ打ち放った。
「道法無辺、急々如律令!」
黄色い符が空中で静止し、強固な結界が展開される。呪詛の触手は結界の見えない壁に弾かれ、忌まわしい霊障が通路の外へ漏れ出すのを完全に塞いだ。
「後輩さん、呪詛の縛めを解けるか! このままでは彼を送れない!」 「やります! シャドウ、護って!」
美鈴は立ち塞がるシャドウを盾にしながら前へ進み出ると、磔にされた霊へ向かって両手を広げた。彼女の指先から、ケルト魔術の温かく柔らかな緑色の光が溢れ出し、冷酷な黒い呪詛の糸へと絡みつく。
「こんな酷い縛め、すぐに解いてあげるから……!」
美鈴が魔力を込めると、緑の光が温かい炎となって黒い糸を焼き切っていく。志豪の組んだ呪詛の術式自体は天才的だが、込められた霊の苦痛に寄り添う美鈴の癒やしの力は、冷酷なシステムを根底から瓦解させるのに十分だった。
「あ、あぁ……」 縛めが解け、床に崩れ落ちた男性の霊が、憑き物が落ちたような顔で美鈴を見上げた。
「今だ!」 呪詛の核が破壊された瞬間を逃さず、蓮は背に負っていた帰真剣を抜き放ち、男性の魂へと真っ直ぐに切っ先を向けた。
「帰真――本来の姿へ還れ」
清浄な波紋が剣先から放たれ、男性の霊を優しく包み込む。彼は最後に美鈴へ感謝の祈りを捧げるように深く頭を下げると、光の粒子となって地下の暗闇から天へと昇っていった。
「……祓清完了だ」 蓮が剣をカチャリと鞘に収めると、通路を満たしていたどす黒い霧は嘘のように消え去っていた。 霊が消えた後のコンクリートの床には、呪詛の触媒として使われていたであろう、和紙に旧日本帝国陸軍の紋章と不気味な呪文が走り書きされたお札が残されていた。
「間違いないですね。枢栄会の仕業です」
美鈴がハンカチ越しにお札を拾い上げ、嫌悪感に眉をひそめる。
「ああ。霊界への門を見つけるなんてのは誇大妄想狂の戯言だが、この呪詛の腕だけは本物だ。姉の麗華がこれをビジネスにしているとすれば、厄介な敵になりそうだな……」
蓮はお札を証拠品として封筒に収め、重い鉄扉を振り返った。
「さて、林さんと警察の陳さんにも情報を共有しなきゃならないが……その前に」
蓮が視線を向けると、美鈴はすでに「分かってますね?」という顔で待ち構えていた。
「こんな陰湿な呪詛を見た後は、魂から温まるものを食べないとやってられませんよ、先輩!」
「だろうな。台北駅の近くに、美味い牛肉麺の店があったはずだ。八角と牛骨の効いた熱々のピリ辛スープで、この嫌な冷気を洗い流すとしよう」
「賛成です! 特製煮卵と、茹でた空芯菜も付けましょうね! シャドウには味付け無しの茹で肉をお願いします!」
シャドウが「ワフッ」と同意するように鳴き、二人は薄暗い地下通路を背にして、活気に満ちた台北の喧騒へと歩き出した。 見えない悪意が日常を脅かすこの街で、新たなる「敵」の影を感じながらも、バディの絆は揺るぐことなく夜の街へと溶けていった。




