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台湾祓清愛哀歌ー祓清の絆  作者: シットライヌ
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第九十三話「北投温泉の白煙と湯けむりの鎮魂歌」

第九十三話「北投温泉の白煙と湯けむりの鎮魂歌」

台北の中心部からMRT(捷運)に揺られること約三十分。新北投駅に降り立った途端、佐藤蓮と李美鈴の鼻腔を特有の強い硫黄の香りがくすぐった。

「うーん、温泉街って感じの匂いですね!」

「ああ。硫黄の香りを嗅ぐと、日本人としての血が少し騒ぐな」

日本統治時代に開発され、一大温泉保養地として栄えた北投(ベイトウ)。二〇〇〇年代初頭の現在も、古い日本家屋と近代的な温泉リゾートホテルが混在し、週末になれば多くの台北市民が癒やしを求めて訪れる。 しかし、人が集まる歴史ある土地には、澱んだ悲しみもまた溜まりやすい。今回の依頼は、市役所の林担当員からのものだった。

「地熱谷(ディーレァグー)」と呼ばれる、常に高温の温泉が湧き出し白煙を上げる観光名所の一部で、不可解な現象が起きているという。

「源泉の温度は九十度近いのに、ある一角だけ『凍えるように冷たい』らしいです。近づいた観光客が幻聴を聞いて次々と倒れ、重度の悪寒と精神疲労を訴えているとか」

美鈴が事務所のiMacでプリントアウトしてきた資料を読み上げる。 「高温の温泉すら凍らせるほどの強烈な未練、か。厄介だな」

蓮は帰真剣の入った鞄を肩に掛け直し、立ち上る白煙の中へと足を踏み入れた。

もうもうと立ち込める湯けむりの奥、遊歩道の外れにある岩場に近づくと、蓮の肌に突き刺さるような異常な冷気が襲いかかってきた。熱気と冷気がぶつかり合い、周囲の視界は濃い霧でほとんどゼロに近い。 「先輩、気をつけて。足元、滑りますよ」

「大丈夫だ。日々の八極拳の鍛錬は、こういう足場の悪い場所でこそ活きる」

滑りやすい苔むした岩場を確かな歩法で進む蓮の隣で、美鈴の足元から這い出した黒いラブラドールレトリバーの分霊、シャドウが「グルルル……」と低い唸り声を上げた。

「……見つけました。湯けむりの一番奥です」

美鈴の双眸が、常人には不可視の存在をくっきりと捉える。

「若い女性の霊です。色褪せた古い和服を着て、岩場にうずくまって泣いています。……彼女の口から、悲しい歌が聞こえる。日本の古い歌謡曲のような……」

北投はかつて「那卡西(ナカシ)」と呼ばれる流しのミュージシャンたちが夜な夜な温泉宿を回り、歌や演奏を披露して栄えた街だ。彼女もまた、そうした時代に生きた芸妓か歌手の一人だったのだろう。愛する人を待ち続け、叶わぬ想いを抱えたままこの地熱谷の底へと沈んだのかもしれない。 彼女の絶望と孤独が極寒の霊障となって、熱い源泉を凍らせ、湯けむりを死の霧へと変えていた。

「このままでは谷全体が霊障に飲み込まれる。ここで縛るぞ!」

蓮は即座に鞄から数枚の符を取り出し、見えない女性の霊を取り囲むように、岩場の四方へ向けて打ち放った。

「道法無辺、急々如律令!」

バチィッ、と空気が弾ける音と共に、黄色い符が空中で静止する。強固な結界が展開され、異常な冷気と悲しい歌声がその空間に完全に閉じ込められた。

結界の中で戸惑い、さらに強く泣き崩れようとする女性の霊に向かって、美鈴がゆっくりと近づいていく。彼女の指先から、ケルト魔術の温かい緑色の光がランタンのように灯り、真っ白な湯けむりの中で幻想的に輝いた。

「もう、冷たい水の中で歌わなくていいんですよ」

美鈴の優しい台湾華語が、緑色の光の粒子と共に女性の魂へと降り注ぐ。

「あなたが待っていた人は、もうずっと前に、あなたの歌声を胸に抱いたまま安らかに旅立ちました。あなたがここで立ち止まっていては、向こうで再会できませんよ」

美鈴の言葉と、魔術の放つ生命の温もりに触れ、女性の霊がゆっくりと顔を上げた。彼女の全身を覆っていた氷のような未練が、本来の源泉の熱と緑の光によって優しく溶かされていく。シャドウもそっと近づき、彼女の透けた手に頭をすり寄せた。

「……道は拓けた。あとは俺の仕事だ」

蓮は背中の帰真剣を静かに引き抜き、迷いから解放されつつある女性の魂へと切っ先を向けた。

「帰真(グイジェン)――本来の姿へ還れ」

澄み切った真言と共に、清浄な波紋が剣先から放たれる。女性の霊は、最後に美鈴たちへ向けて穏やかな微笑みを浮かべると、立ち上る白煙に混じるようにして、光の粒子となって天へと昇っていった。

「……終わりましたね」

「ああ。彼女の歌声も、ようやく愛する人の元へ届くはずだ」

蓮が剣を鞘に収めると、張り詰めていた冷気は完全に消え去り、地熱谷には再び本来のモワッとした熱気と硫黄の香りが戻ってきた。

数十分後。無事に林担当員への報告を終えた二人は、温泉街の中心にある公園の足湯に浸かっていた。

「ふぁ〜……生き返りますね。霊障の冷気を浴びた後の温泉は最高です」 美鈴はズボンの裾をまくり上げ、お湯の中でパシャパシャと足を動かしながら満面の笑みを浮かべる。傍らでは、シャドウがおこぼれの温泉卵(味付けなし)を美味しそうに平らげていた。

「全くだ。心身の気の巡りが良くなるのを感じるよ」 蓮も足湯で疲労をほぐしながら、ポカポカと温まった体を伸ばした。

「さて先輩! 足が温まったら、今度は胃袋を満たしましょう! 北投に来たら『満来温泉拉麺(マンライウェンチュエンラーメン)』の特大排骨(パイクー)ラーメンを食べないと台北には帰れませんよ!」 「さっき温泉卵を三つも食べただろ……」

「温泉卵は飲み物です!」

「ははっ、敵わないな。よし、今日の仕事も見事だった。俺が奢ろう」

湯けむりが風に揺れる北投の夕暮れ。 古い歴史と新しい命が交差するこの街で、二人の穏やかな笑い声が、夜空へと溶けていった。



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