第九十二話「西門町の喧騒と路地裏の占い師」
第九十二話「西門町の喧騒と路地裏の占い師」
二〇〇〇年代初頭の台北。若者文化の中心地である西門町は、今日もむせ返るような熱気と極彩色のネオンに包まれていた。 交差点の頭上に設置された巨大なブラウン管モニターからは最新のC-POPがけたたましく鳴り響き、流行の服に身を包んだ若者たちが、携帯電話を片手にひしめき合って歩いている。
「先輩、はぐれないでくださいよ! この人混みで迷子になったら、見つけるの大変なんですから」
「分かってる。だが、人が多すぎて八極拳の歩法を使わないと真っ直ぐ進めやしない……」
李美鈴は周囲の喧騒にすっかり馴染んだ様子で軽快に歩を進めるが、佐藤蓮は普段の冷静さを欠いたように、辟易とした表情で人波をかき分けていた。 二人が遊びに来ているわけではない。今回の依頼は、市役所の林担当員経由ではなく、美鈴が管理する双霊相談事務所のホームページに直接寄せられた相談だった。
『西門町の路地裏にいる占い師に見てもらうと、必ず悪い結果を言われる。その後、ひどい悪夢と金縛りに遭い、体調を崩す』
若者の間で都市伝説のように広まっているその噂は、典型的な「霊障」の兆候を示していた。 幽霊が日常の風景として実在するこの台湾において、悪意を持った霊が人間の不安や恐怖を煽り、精神を削り取って己の糧とするケースは珍しくない。
「……先輩、ここです。この路地」
メインストリートの華やかなネオンが嘘のように途切れる、ビルの谷間の細い路地。美鈴が立ち止まると、彼女の足元から黒いラブラドールレトリバーの姿をした分霊、シャドウが這い出し、暗がりを見据えて低く唸り声を上げた。 霊感がほとんどない蓮の目にはただの薄暗い行き止まりにしか見えないが、肌を刺すようなジットリとした陰の気は嫌というほど感じ取れる。
「かなり濃い霊障だな。対象の姿は?」
「……路地の奥に、小さな折りたたみ机を置いたお婆さんがいます。戦後の混乱期によく見られたような、ボロボロの綿入れを着て……」
美鈴の「見鬼」の力は、暗闇の奥にうずくまる老婆の幽霊をはっきりと捉えていた。 老婆は虚ろな目で通りを歩く若者たちを見つめ、ブツブツと呪詛のような言葉を吐き出している。 『あんたの未来は真っ暗だ。明日の金もない。誰かに騙されて、野垂れ死ぬよ……』 彼女自身が生前に抱えていたであろう「貧困への恐怖」と「明日への不安」がどす黒い霧となって周囲に漂い、それに触れた若者たちの精神を蝕んでいたのだ。
二人の接近に気づいた老婆の霊が、ギロリと濁った目を向けた。邪魔をされると悟ったのか、路地に溜まっていた陰の気が一気に膨れ上がり、鋭い冷気となって二人に襲いかかる。
「暴れさせるな、ここで抑え込むぞ!」
蓮は即座に鞄から数枚の護符を引き抜き、鋭い呼気と共に路地の四隅へ向けて打ち放った。
「道法無辺、急々如律令!」
黄色い符が空中でピタリと静止し、路地裏全体を覆う堅牢な結界が展開される。表通りの喧騒がフッと遠のき、老婆の放つ冷気も結界の壁に阻まれて逃げ場を失った。
パニックに陥り、さらにどす黒い霧を吹き出そうとする老婆に対し、美鈴がゆっくりと歩み寄る。彼女の指先から、ケルト魔術の温かく柔らかな緑色の光がふわりと広がり、冷え切った路地の空気を中和していった。
「お婆さん、もう大丈夫よ。無理をして誰かの不安を煽らなくてもいいの」
美鈴の声は、怯える子供をあやすように優しかった。
「今の台湾は、昔みたいに食べるものに困る時代じゃないわ。外を見て。あんなにたくさんの若者が、明日を信じて笑って歩いている。……あなたももう、明日のご飯やお金の心配をして、誰かを呪う必要なんてないのよ」
緑色の光が老婆の魂を優しく包み込むと、彼女を縛り付けていた飢えと恐怖の念が、嘘のようにスッと溶けていった。濁っていた老婆の目が澄んだものへと変わり、憑き物が落ちたように深く息を吐く。
「見事だ、後輩さん。……あとは俺に任せろ」
蓮は背に負っていた帰真剣を静かに引き抜き、穏やかさを取り戻した老婆の魂へと切っ先を向けた。
「帰真――本来の姿へ還れ」
清浄な波紋が剣先から放たれ、老婆の霊を包み込む。彼女は最後に「ありがとう」と口の動きだけで伝え、西門町の夜空へと光の粒子となって昇っていった。
「……よし、祓清完了だ」
蓮が帰真剣を鞘に収め、結界を解くと、再び若者たちの笑い声とポップミュージックの重低音が路地に流れ込んできた。
「ふぅ、終わりましたね! 人の『不安』に当てられたせいか、なんだかどっと疲れました」 美鈴が大きく伸びをしながらシャドウの頭を撫でる。 「ああ。霊障を撒き散らしていたとはいえ、元は時代に翻弄された哀しい魂だ。無事に送ることができてよかった。……さて、事務所に戻るか」 蓮が踵を返そうとした瞬間、美鈴がサッと彼の前に立ち塞がり、満面の笑みを浮かべた。
「先輩! 西門町に来て、そのまま帰るなんてあり得ませんよ!」
「……嫌な予感がするんだが」
「阿宗麺線の熱々のお素麺と、顔より大きい特大の豪大大鶏排を食べて帰りましょう! 心のエネルギーを消費した後は、カロリーで補給しないと!」
「お前の胃袋は底なしか……。まあ、今回は俺もかなり歩かされて腹が減ってるからな。奢ってやるよ」
ネオンの光が反射する濡れたアスファルトの上を、二人の影が楽しげに連なっていく。 見えない哀しみが日常に潜むこの街で、二人のバディの夜は、まだ始まったばかりだった。




