第九十一話「九份の紅提灯と迷い子の茶器」
シルバーウイーク最終日前日ということで、今までのストック分と長期連休中に作成した、102話までを連続投稿させて頂きます。最新話に目を通して頂ける方もおられるので投稿します。
第九十一話「九份の紅提灯と迷い子の茶器」
1.十六和音の着信と古い茶藝館
湿気を帯びた風が台北の街を吹き抜ける朝。双霊相談事務所の土間には、佐藤蓮の深く静かな呼気が響いていた。 「フッ……ハッ!」 鋭い踏み込みが、年季の入った床板を小さく震わせる。道士として気脈を整え、日々の体調を管理するための八極拳の套路(型)だ。決して実戦の武器として使うことはないが、この静かな鍛錬がいざという時に帰真剣を振るうための強靭な肉体と精神の土台となる。 タオルで首筋の汗を拭い終えた蓮の耳に、デスクの方からピコピコという電子音が届いた。李美鈴の持つ折りたたみ式携帯電話の、単調な十六和音の着メロだ。
「はい、双霊相談事務所です。……ええ、九份の老舗茶藝館ですね?」
分厚いスケルトンカラーのiMacから顔を上げた美鈴が、真剣な表情でメモを取る。
「……なるほど。二階の一番奥の茶室で、誰もいないのに茶器が勝手にカタカタと鳴り、近づいた客が突然の激しい悲しみと目眩に襲われて泣き出してしまう、と。わかりました、すぐに向かいます」
美鈴がパタンと携帯を閉じ、蓮を見た。
「先輩、九份です。強い未練によるポルターガイストと感情の伝播(霊障)が起きています」
「観光地のど真ん中か。被害が広がる前に片付けよう」
2.ノスタルジアと陰の気
二人は黒のカローラ・アルティスに乗り込み、台北から北東の山間部へと車を走らせた。 二〇〇〇年代初頭、かつて金鉱として栄えた九份は、レトロな街並みと斜面に沿って立ち並ぶ茶藝館の風情から、台湾屈指の観光地として人気を集めている。曲がりくねった急な山道を登りきると、海を見下ろす斜面に古い建物がひしめき合っていた。
狭い路地の手前の駐車場に車を停め、二人は長く急な石段「豎崎路」を登った。夕暮れが近づき、無数に吊るされた紅提灯にぽつぽつと明かりが灯り始めている。 指定された木造の古い茶藝館に入ると、客の姿はなく、店主が青い顔をして待っていた。
「二階の一番奥の部屋です……。もう寒気がひどくて、私たちは近づけません」
「ここからは我々の仕事です。ご安心を」
蓮が店主に告げ、二人は軋む木の階段を上った。
3.寂しがり屋の迷い子
二階の茶室へ通じる廊下は、真冬のように凍てついていた。霊感のない蓮の目には何も見えないが、肌を刺すような強い陰の気ははっきりと感じ取れる。
「……います。部屋の隅です」
美鈴の足元から這い出した分霊の黒犬・シャドウが、低く唸りながら部屋の隅の古い茶卓に向かって警戒の姿勢をとった。美鈴が目を凝らすと、そこには半透明の幼い男の子の霊がうずくまっていた。
「……小さな男の子です」
美鈴の表情が痛ましそうに歪む。
「昔の粗末な服を着ています。泣きながら、テーブルの上の古い茶器を小さな手で何度も撫でている。……かつてこの町が貧しかった頃、働きに出たお母さんを、この窓辺でずっと待っていたんですね。彼が放つ『寂しい』という強い感情が霊障になり、茶器を揺らし、客に悲しみを伝播させてしまっています」
4.優しい光と送魂の剣
「誰かを傷つけたいわけじゃないんだな。なら、早く安心させてやらなきゃいけない。これ以上ここにいれば、彼の魂そのものがすり減ってしまう」
蓮は一切の躊躇なく、懐から数枚の符を取り出した。ターゲットの位置さえ分かれば、あとは道士の独壇場だ。
「道法無辺、急々如律令!」
鋭い踏み込みと共に投げ放たれた符が、男の子の周囲四方に散ってピタリと静止する。淡い光の結界が展開され、廊下へ漏れ出していた致死量の冷気と、悲しみの波長が完全に遮断された。茶器のカタカタという音も鳴り止む。 結界の中で戸惑う男の子へ、美鈴がゆっくりと歩み寄った。彼女の指先から、ケルトの魔術による温かい緑色の光の粒がこぼれ落ち、男の子を優しく包み込む。
「もう、ここで一人で待たなくていいんですよ。お母さんは、きっと別の場所であなたを探していますよ」
美鈴の温かい声と魔術の光に、男の子はハッとして顔を上げた。彼は窓の外の紅提灯の明かりを一度だけ見つめると、涙を拭って小さく頷き、ふっと安堵の微笑みを浮かべた。
「今です、先輩」
「ああ。よく一人で頑張ったな」
蓮は背に負っていた帰真剣を静かに引き抜き、結界の中心――男の子の魂へと真っ直ぐに刃を向けた。
「帰真――本来の姿へ還れ」
浄化の真言と共に放たれた清浄な波紋が、男の子の霊を貫く。彼は最後に美鈴と蓮にペコリとお辞儀をすると、九份の夕闇を照らす提灯の赤い光に溶け込むようにして、光の粒子となって天へと昇っていった。
5.石段の上の芋圓
「ふぅ……。今回も後輩さんの優しい魔術に助けられたな」
蓮が剣を鞘に納めると、茶室には本来の穏やかな空気と、遠くから聞こえる観光客の賑やかな声が戻っていた。
美鈴が店主に事件の解決を伝え、折りたたみ式携帯電話で市役所の林へ完了のショートメールを送信し終える。パタン、と二つ折りの本体を閉じると、彼女はふうっと安堵の息をつき、蓮に向かってパッと顔を輝かせた。
「先輩、お疲れ様でした! 無事に解決したことですし、このまま私のおすすめのお店に付き合ってもらえませんか?」
「おすすめの店? いいが、何か目当てでもあるのか?」
「もちろんです! 九份といえば『芋圓』ですよ! タロ芋やサツマイモのお団子がたっぷり入った、モチモチで温かい絶品スイーツなんです。私、絶対に先輩を連れて行きたい、海が見渡せる見晴らしのいい老舗をチェックしてあるんですから!」
美鈴が目をキラキラさせて力説すると、足元のシャドウも賛同するように「ワンッ」と短く吠え、蓮の足にすり寄った。
「ははっ」 蓮は呆れたように笑いながらも、優しく頷いた。
「……なるほど、そいつは断れないな。他人の悲しみに寄り添うのは気力を使う。甘いもので疲れを癒やすのも悪くない。よし、その後輩さんイチオシの店に案内してもらおうか」
「はいっ! もちろん、今日は先輩の奢りですからね!」
数十分後。すっかり日の落ちた九份の石段の茶屋に腰を下ろし、二人は名物スイーツの「芋圓」を囲んでいた。
「ん〜! このお団子、モチモチで最高です! 温かくて甘いシロップが、冷えた体に染み渡ります〜!」
色とりどりの団子を頬張り、美鈴が幸せそうに目を細める。
「ああ。海を見下ろすこの夜景を見ながら食べると、さらに格別だな」
蓮も額に汗を滲ませながら、温かいスイーツで疲れを癒やしていた。足元では、シャドウが甘い匂いに誘われて嬉しそうに尻尾を振っている。 無数の紅提灯が幻想的に揺れるレトロな街並み。寂しかった迷い子を無事に家族の元へ送り届け、二人の夜は、台湾のノスタルジックな景色と優しい甘さの中へと溶けていった。




