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台湾祓清愛哀歌ー祓清の絆  作者: シットライヌ
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第九十話「古いレンガ造りと、ふたつの影」

第九十話「古いレンガ造りと、ふたつの影」

湿気を帯びた台北の朝。双霊相談事務所の土間には、佐藤蓮の静かな呼気が響いていた。「フッ……ハッ!」という規則正しい踏み込みが、年季の入った床板を小さく震わせる。道士としての気脈を整え、日々の体調を管理するための八極拳の套路である。決して実戦で使うことはないが、この反復練習こそがいざという時に帰真剣を振るう強靭な肉体と精神の土台となっている。


タオルで汗を拭いながら息をついた蓮の耳に、デスクの方からピコピコという電子音が届いた。李美鈴の持つ折りたたみ式携帯電話の、単調な十六和音の着メロだ。


「はい、双霊相談事務所です。……林さん? ええ、緑島(リュイダオ)ですか?」

分厚いスケルトンカラーのiMacのモニターから顔を上げ、美鈴が受話器を耳に押し当てる。電話の主は、市役所の林担当員だった。

「……なるほど。かつて思想犯が収容されていた緑島の古い監獄跡地で、見学に来た観光客が次々と強烈な悪寒や幻聴を訴えて倒れているんですね。わかりました、すぐに向かいます」


美鈴がパタンと携帯を閉じ、蓮に視線を向けた。

「先輩、遠征です。台湾南東部の沖合にある緑島で、強い未練による霊障が発生しています」

「監獄島か。歴史の重い場所だな。……行こう」


黒潮を越えて


愛車のカローラ・アルティスで台東まで南下し、そこからフェリーに乗り換えて太平洋の荒波に揺られること約一時間。二人は強烈な南国の太陽が照りつける緑島の港に降り立った。

島内での足としてレンタルバイクを借り、潮風を切りながら海沿いの一本道を走る。目指すは、かつて白色テロ時代に多くの思想犯や政治犯が収容されていた「緑洲山荘」と呼ばれる監獄跡地だ。二〇〇〇年代初頭の現在、負の歴史を伝える文化遺産として整備が進められているが、その敷地に足を踏み入れた途端、蓮の肌にピリリと凍てつくような冷気が走った。


「……ひどい陰の気だ。真夏だというのに、ここだけ真冬のようだな」

「先輩、一番奥の独房です」


美鈴の足元から這い出した分霊の黒犬・シャドウが、警戒するように低く唸り声を上げながら薄暗い廊下を進んでいく。霊感のない蓮の目には、ただ古びた鉄格子とコンクリートの壁しか見えないが、美鈴の瞳には、そこに縛り付けられた哀しい魂の姿がはっきりと映っていた。


「……初老の男性の霊です」

美鈴の表情が痛ましそうに歪んだ。

「すり切れた囚人服を着て、コンクリートの床にうずくまり、指先から血を流しながら……見えない手紙を書き続けています。家族に宛てた、届くはずのない手紙を。彼が放つ『もう二度と故郷には帰れない』という深い絶望と悲しみが霊障となって、この独房の気温を奪い、観光客に幻聴を聞かせているんです」


海風の結界と届いた思い


「これだけ強い無念だ。誰かを恨んで悪霊と化す前に、彼を家族の元へ帰してやらなきゃな」

蓮は一切の躊躇なく、懐から数枚の符を取り出した。対象の位置さえ分かれば、あとは道士である彼の独壇場だ。


「道法無辺、急々如律令!」


鋭い踏み込みと共に投げ放たれた符が、独房の四方に散ってピタリと静止する。淡い光の結界が展開され、廊下へと漏れ出していた致死量の冷気が完全に遮断された。

結界の中で戸惑うように手紙を書く手を止めた霊へ向けて、美鈴がゆっくりと歩み寄った。彼女の指先から、ケルトの魔術による温かく優しい緑色の光の粒がこぼれ落ち、老人の霊を包み込む。


「おじいさん。もう、血を流して文字を書く必要はありませんよ」

美鈴の声は、海風のように優しかった。

「あなたの時代は終わりました。今の台湾は、誰もが自由に言葉を紡ぎ、自由に空を見上げることができる場所になりました。あなたのご家族も、あなたが最後まで誇り高かったことを知っています。だから……もう、重い枷を外して休んでください」


老人の霊が、信じられないというように自身の透けた両手を見つめた。そして、鉄格子の外から差し込む眩しい太陽の光を見上げると、その目から大粒の涙がこぼれ落ちた。彼は深く頷き、憑き物が落ちたように穏やかな微笑みを浮かべた。


「今です、先輩」

「ああ。立派に耐え抜いた魂だ」


蓮は背に負っていた帰真剣を静かに引き抜き、結界の中心――老人の魂へと真っ直ぐに刃を向けた。

「帰真(グイジェン)――本来の姿へ還れ」


浄化の真言と共に放たれた清浄な波紋が、老人の霊を貫く。彼は最後に美鈴と蓮に向かって深々と一礼し、鉄格子をすり抜ける海風に乗るようにして、光の粒子となって故郷の空へ昇っていった。


緑島の海草氷と潮騒の夜


「ふぅ……終わりましたね。林さんには、港に戻ったら携帯から連絡を入れておきます」

重苦しい空気がすっかり晴れた監獄跡地を出て連絡を終えた直後、美鈴から、波の音に負けないくらい盛大な声が鳴り響いた。

「おなかすいたー!」

「ははは!」

蓮は笑い出した。

「他人の深い悲しみに寄り添うのは、ひどく気力を使うからな。後輩さんの正確な腹時計が鳴ったなら、今日の仕事は本当におしまいだ。よし、バイクで港の方へ戻ろう。今日は俺の奢りだ」


数十分後、緑島のメインストリートにある賑やかな食堂。強烈な日差しを避けた日陰のテラス席で、二人の目の前には緑島名物の豪華なグルメが並んでいた。

「まずはこれですね! 緑島名物、鹿肉のネギ炒め!」

美鈴が割り箸を割り、熱々の鉄板から湯気を立てる鹿肉を頬張った。

「ん〜! お肉が柔らかくて、生姜とネギの香りが効いてて最高です! 全く臭みがありません!」

「ああ、フェリーの長旅と仕事の疲れが吹き飛ぶ美味さだ。こっちのトビウオ(飛魚)の唐揚げも絶品だぞ」


蓮も額に汗を滲ませながら、香ばしく揚がったトビウオにかぶりつく。足元では、シャドウが味付けされていないトビウオの身をもらって、嬉しそうに尻尾を振っていた。


「そしてシメは……これです!」

食後、二人の前に運ばれてきたのは、山盛りの氷の上に緑色の海草がたっぷりと乗った「海草かき氷(海草氷)」だった。黒糖シロップの優しい甘さと、海草のツルッとした食感、そしてタピオカやモチモチの白玉が絶妙なハーモニーを奏でている。

「冷たくて、ほんのり海の香りがして……本当に美味しいです」

かき氷を口に運びながら、美鈴が幸せそうに目を細めた。


「悲しい歴史がある島だが、こうして美味いものを食べて、自由に笑える時代になったんだな」

蓮の言葉に、美鈴も静かに頷いた。

悲運に囚われた魂を無事に空へと送り届け、二人の穏やかな時間は、緑島の優しい潮騒と冷たいかき氷の甘さの中へと溶けていった。

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