第九十八話「枢栄会の罠と引き裂かれた結界」
第九十八話「枢栄会の罠と引き裂かれた結界」
台北市郊外、陽明山の裏手にひっそりと佇む廃工場。日本統治時代に軍の物資貯蔵庫として使われていたというそのレンガ造りの廃墟は、容赦なく打ち付ける土砂降りの雨の中で、異様な静けさを保っていた。
「……先輩。この依頼、やっぱりおかしいですよ。市役所の林さんを通さない、ホームページからの直接依頼。しかも報酬は相場の五倍なんて」
分厚い雨合羽のフードを深く被った李美鈴が、足元で低く唸り続ける分霊の黒犬・シャドウを庇うように立ち止まった。
「ああ。だが、この規模の『陰の気』を放置するわけにはいかない。罠だと分かっていても、踏み込まざるを得ないように仕組まれている」 佐藤蓮は、雨を弾く黒いコートの背に帰真剣を負い、鋭い視線を廃工場の重い鉄扉へ向けた。霊感がほとんどない蓮の肌ですら、その扉の向こうから漏れ出す気配が、通常の霊障とは次元の違うものであると警告を発していた。
錆びついた鉄扉を押し開け、二人は暗闇が支配する巨大な空間へと足を踏み入れた。 その瞬間、美鈴が息を呑み、シャドウが鼓膜を劈くような激しい咆哮を上げた。
「酷い……! 先輩、気をつけて! これは自然に発生した幽霊じゃありません。無数の浮遊霊が、黒い糸のような呪力で無理やり縫い合わされて、巨大な『爆弾』にされています!」 美鈴の双眸が捉えたのは、空間の中央に蠢く、どす黒い怨念の塊だった。個々の霊が持つ悲しみや未練は完全にすり潰され、ただ他者を害するための純粋な暴力として再構築されている。
『ふふっ……ビンゴ。やっぱり来たわね、お節介な便利屋バディさん』 突如、空間の奥からスピーカーを通したような女性の甲高い声が響いた。同時に、怨念の塊の中心に一枚の巨大な護符が浮かび上がる。 「その声……枢栄会の張麗華か!」
『ご名答。あなたたち、最近うちの弟の邪魔ばかりするから。ちょっとお灸を据えてあげようと思って』
『姉さん、無駄口はいい』
通信の向こう側から、もう一つの声が重なった。冷酷で、ひどく熱に浮かされたような青年の声――張志豪だ。
『その二人の術式データを取れば、旧日本帝国陸軍の遺した「門」の解析がさらに進む。……さあ、最高の呪詛を味わってくれ』
志豪の声と同時、どす黒い怨念の塊が物理的な衝撃を伴う巨大な濁流となって、蓮と美鈴へ襲いかかった。
「させるか……! 後輩さん、下がれ!」
蓮は瞬時に八極拳の歩法で前に出ると、懐からありったけの黄色い護符を掴み出し、鋭い呼気と共に空間の四方へ打ち放った。
「道法無辺、急々如律令!」
バチィッ!と空気が爆ぜ、二人の前方に強固な見えない壁――結界が展開される。怨念の濁流が結界に激突し、火花のような魔力の散乱が廃工場を照らした。 普段であれば、どんな強力な霊障もこの道教式の結界で完全に封じ込めることができる。しかし、蓮の顔に余裕はなかった。
「な、なんだこの呪詛の構造は……!」
結界に激突した黒い濁流が、ただ力任せに壁を叩くのではなく、まるで生き物のように結界の「術式の隙間」を探り、食い破ろうとしているのだ。志豪の組み上げた呪詛は、旧日本帝国軍のオカルト研究をベースにした、現代の祓清のセオリーを根底から覆す異端のロジックだった。
『無駄だよ。君の道教式は基礎に忠実すぎる』
通信機越しの志豪の冷笑と共に、怨念の濁流から漆黒の刃のような呪力が無数に突き出した。 ビリィッ!! ガラスが砕け散るような甲高い音と共に、空間に静止していた黄色い護符が一斉に発火し、灰となって散った。蓮の絶対の防御であった結界が、紙屑のように引き裂かれたのだ。
「先輩!!」
防壁を失い、迫り来る呪詛の濁流。蓮は咄嗟に美鈴を庇うように抱き留め、背中から強烈な衝撃を受けた。
「がはっ……!」
「先輩! シャドウ、護って!!」
美鈴の悲痛な叫びに呼応し、シャドウが巨大な黒犬の姿へと膨れ上がり、残った呪詛の波をその身を挺して食い止める。同時に、美鈴の指先からケルト魔術の強烈な緑色の光が爆発的に放たれ、周囲の暗闇と呪力を一時的に浄化して弾き飛ばした。
「……ッ、見事だ、後輩さん」
口から苦し気な息を流しながらも、蓮は倒れることなく帰真剣を抜き放った。魔術の光によって呪詛の動きが鈍ったその一瞬の隙を突き、蓮は怨念の塊の中心――核となっている巨大な護符へと肉薄する。
「これ以上、好きにはさせない!」
「帰真!」
銀色の軌跡が暗闇を切り裂き、呪詛の核である護符を真っ二つに両断した。断末魔のような悲鳴と共に、縫い合わされていた霊たちが解放され、呪詛の濁流は嘘のように霧散していった。
静寂が戻った廃工場に、蓮の荒い息遣いと、外の雨音だけが響く。
「先輩! 大丈夫ですか!?」
美鈴が泣きそうな顔で駆け寄り、蓮の背中を支えた。シャドウも元の大きさに戻り、心配そうに蓮を見上げている。
「あぁ……結界を破られた時はどうなるかと思ったが、お前とシャドウのおかげで助かった」
蓮は痛む身体を押して立ち上がり、真っ二つに斬り裂いた護符の残骸を拾い上げた。その護符には、旧日本帝国軍の紋章と共に、ある特定の場所を示す複雑な陣が記されていた。
「この座標……枢栄会の奴ら、本気で『霊界への門』を探り当てようとしているのか」
蓮の言葉に、美鈴も息を呑んで護符の残骸を覗き込んだ。 そこに記されていたのは、台湾の中枢であり、かつて日本統治時代に総督府として建てられた赤レンガの巨大な建築物――現在の「総統府」の地下を示す座標だった。
「ただの拝金主義の姉と、誇大妄想狂の弟だと思っていたが……最悪のパンドラの箱を開ける気だ。総統府の地下に、旧帝国軍の遺産が眠っているというのか」
蓮は護符を固く握りしめ、雨の降りしきる外へと視線を向けた。
「後輩さん。美味しいものを食べて帰る日常は、少しだけお預けになりそうだ」
「……はい。先輩がどこへ行くにしても、私とシャドウが必ずサポートします。双霊相談事務所の意地、見せてやりましょう」
決して破られることのなかった結界が引き裂かれた夜。 二人のバディは、台湾の歴史と霊界の深淵に関わる、かつてない死闘の幕開けを静かに覚悟していた。




