第九十九話「総統府の影と旧帝国軍の遺産」
第九十九話「総統府の影と旧帝国軍の遺産」
豪雨に煙る台北の中心。ライトアップされた巨大な赤レンガの建築物――台湾の最高機関である総統府。普段であれば厳重な警備が敷かれ、民間人が容易に近づける場所ではない。 しかし今夜、総統府の裏口に続く秘密の搬入口には、異例の顔ぶれが集結していた。
「ギリギリでした。上層部に掛け合って、地下特別区画への立ち入り許可をなんとか取りつけましたよ!」
ずぶ濡れになりながら駆け寄ってきたのは、市役所の林担当員だ。彼女の手には、厳々しい政府の公印が押された特別許可証が握られている。
「林さん、陳さん……本当にありがとうございます。まさか、総統府に正面から入れるなんて」
李美鈴がホッと息をつくと、警察の制服に身を包んだ陳巡査部長が力強く頷いた。
「地上周辺の警備と封鎖は我々警察に任せてください。枢栄会の連中だろうと、一歩も近づけません。君たちは安心して、地下の『視えない敵』に集中してくれ」
さらに、黒のトヨタ・カローラ・アルティスのボンネットに大きな古い青写真を広げていたのは、裏社会の事情通である探偵の呉さんだった。
「俺の集めた日本統治時代の古い図面と、現在の地下構造を照らし合わせた結果だ。戦後の都市計画から意図的に消された『空白の区画』が存在する。……気をつけろよ、佐藤、李。図面を見ているだけで寒気がするような場所だぜ」
「十分すぎる情報です、呉さん。助かります」
佐藤蓮が図面を頭に叩き込んでいると、バシャッ! と強烈なフラッシュが焚かれた。 フリー記者の黄さんが、カメラを構えて得意げに笑っている。
「歴史的瞬間と、あなたたち英雄の勇姿は私がバッチリ押さえておくわ! だから絶対に生きて帰ってきて、私に独占インタビューを受けなさいよね!」
「ああ、約束しよう。……みんな、恩に着る!」
蓮と美鈴は、心強い「仲間」たちに深く頷き、分霊の黒犬・シャドウと共に、政府の許可を得て開かれた地下への重い扉を潜った。
――しかし、地下へ潜るごとに、地上の心強い繋がりが嘘のように、空気は粘り気を帯びていった。 肺が凍りつくような「陰の気」が充満している。ここはもはや、生者の領域ではない。
「……先輩、見てください。壁の材質が変わりました」
美鈴が懐中電灯で照らした先、近代的なコンクリートの壁は途切れ、古びたレンガと分厚い鋼鉄の扉が現れた。扉の表面には、旧日本帝国陸軍の星の紋章と共に、朽ちかけたお札が何重にも貼られている。
蓮が重い鋼鉄の扉を押し開けると、そこには異様な光景が広がっていた。 ドーム状の巨大な地下空間。床一面には、道教の陣とも西洋の魔法陣ともつかない、おぞましい幾何学模様が血のような赤い塗料で描かれている。そしてその中央で、痩せぎすの青年が高揚した顔で両手を広げていた。
「ようこそ、歴史の深淵へ。政府の犬どもを使って堂々と入ってくるとはね。でも、結末は同じさ」
張志豪だった。彼の周囲には、姉の麗華がネットで集めたであろう膨大な呪詛の残滓が、黒い霧となって渦巻いている。
「張志豪! こんな場所で何を企んでいる! 霊界への門は山中にあるはずだ。ここはただの旧日本軍の遺構に過ぎない!」
蓮が鋭く叫ぶと、志豪は狂気を孕んだ瞳で嘲笑った。
「凡人の発想だね。門は一つじゃない。『門』とは物理的な扉ではなく、この島全体を覆う霊的磁場の亀裂なんだ。そしてこの総統府地下は、かつて帝国陸軍がその亀裂を観測し、固定化するために造った巨大な『増幅器』そのものなんだよ!」
志豪が両手を振り下ろすと、床に描かれた巨大な陣が、ドクンと心臓の鼓動のように脈打った。 途端に空間の位相が歪み、美鈴が悲鳴に近い声を上げた。
「先輩! 床下から、無数の霊が……!」
美鈴の視界が捉えたのは、この地下施設でかつてオカルト実験の犠牲となった者たち、そして戦争の狂気に呑まれた無数の怨念だった。志豪の天才的な呪詛によって無理やり呼び覚まされ、漆黒の泥のような姿となった亡者たちが、這いずるように二人へ迫る。
「させるか! 道法無辺、急々如律令!」
蓮は即座に黄色い護符を放ち、結界を展開しようとした。 しかし、空間そのものが霊界と共鳴しているこの巨大な増幅器の中では、符が空中で発火し、結界を形作る前に燃え尽きてしまう。
「無駄だよ! 現世の理はここでは通用しない。君たちの小賢しい術式など、歴史の重圧の前では紙切れ同然だ!」
志豪が高笑いする中、亡者の泥がシャドウの防衛線を突破し、蓮の足首を掴んだ。 凄まじい冷気と、数十年分の呪詛が蓮の身体に流れ込む。
「先輩ッ!」 美鈴が身を挺して蓮の前に飛び出し、指先からありったけのケルト魔術の光を放った。 温かく柔らかな緑色の光が爆発的に広がり、亡者の泥を一時的に押し留める。しかし、増幅器から無尽蔵に供給される霊障の波に対し、美鈴の魔力は風前の灯火のように揺らぎ始めていた。
「くそっ……門の共鳴を止めなければ、地上にいる林さんたちはおろか、台湾中がこの呪詛に飲み込まれるぞ……!」
蓮は凍りつく足を引き剥がし、帰真剣を抜き放った。 しかし、眼前で渦巻くのは一個人の未練や哀しみではない。戦争という巨大な狂気が生み出した、実体のない歴史の影そのものだ。特定の対象をあの世へ送り返す送魂の術(帰真)では、この呪詛の濁流を断ち切ることはできない。
「後輩さん! このままじゃ二人とも呑まれる!」
「分かってます! でも、私にはこれしか……!」
限界を超えて魔力を振り絞る美鈴の緑の光と、すべてを飲み込もうとする漆黒の歴史の闇が、総統府の地下で激しくぶつかり合う。 絶対的な死の気配が迫る中、蓮は帰真剣の刃を見つめ、美鈴は薄れゆく意識の中でシャドウを強く抱き寄せた。
祓清の基本手順である「発見」と「送魂」の分業。 それだけでは、この巨大な絶望を祓うことはできない。二人は今、バディとしての真価――別々の魂が一つに重なり合う「双霊」の奇跡を試されようとしていた。




