第一〇〇話「双霊の絆と終わらない愛哀歌」
第一〇〇話「双霊の絆と終わらない愛哀歌」
圧倒的な漆黒の濁流が、総統府の地下空間を飲み込もうとしていた。 旧日本帝国陸軍が遺した巨大な「増幅器」の陣。そこから無尽蔵に湧き出す戦争の怨念と狂気は、個人の未練を超えた歴史の質量を持っていた。
「くっ……!」 李美鈴は膝をつき、必死に両手を前に突き出していた。彼女の指先から放たれるケルト魔術の緑色の光が、押し寄せる亡者の泥をかろうじて押し留めている。しかし、その温かい光は、巨大な闇のうねりの前ではあまりにも小さく、今にも掻き消されそうだった。 分霊の黒犬・シャドウも、全身を傷だらけにしながら美鈴の前に立ち塞がり、悲痛な唸り声を上げている。
「無駄な足掻きだ! 君たちの薄っぺらい優しさで、数十年分の血塗られた歴史を浄化できるものか!」
陣の中央で、狂気に憑かれた張志豪が両手を振り上げる。その動きに呼応し、亡者の泥がさらに巨大な波となって美鈴の光を圧迫した。
「先輩……ごめんなさい、もう、押し切れない……!」
限界を超えた魔力の行使に、美鈴の意識が遠のきかけたその時だった。 背後から、力強く温かい手が彼女の肩を支えた。
「謝るな。俺たちは二人で一つの『双霊』相談事務所だろう」
佐藤蓮だった。彼は八極拳の確かな歩法で大地を踏み締め、美鈴の隣に並び立った。その手には、白銀に輝く帰真剣が握られている。
「分業は終わりだ。後輩さん、君の『視る力』と『癒やす力』を、俺の剣にすべて注ぎ込んでくれ」
「先輩……? でも、そんなこと……」
「やれるさ。君が彼らの哀しみを照らし出し、俺がその道を切り拓く。東洋の道術と西洋の魔術、二つの魂を重ね合わせるんだ」
蓮の迷いのない眼差しに、美鈴は小さく、しかし力強く頷いた。 彼女は残されたすべての魔力と祈りを込め、帰真剣の刀身に両手を添えた。 瞬間、蓮の流す道教の「気」と、美鈴の紡ぐケルトの「光」が共鳴し、奇跡のような眩い輝きが地下空間に弾けた。白銀だった帰真剣の刃が、生命力に満ちた鮮やかな翠緑色へと染まり上がる。
「行くぞ!」 蓮は八極拳の究極の踏み込み――震脚を打ち鳴らした。 ドンッ!! と地下空間全体を揺るがす轟音と共に、蓮は亡者の泥の波を真っ向から切り裂き、志豪の待つ陣の中央へと肉薄する。
「なっ、なんだその光は!? あり得ない、そんな術式は存在しない!」
狼狽する志豪を意に介さず、蓮は翠緑に輝く剣を頭上高く振りかぶった。 目の前で蠢くのは、歴史に翻弄され、無理やり呼び起こされた哀しい魂たち。斬り伏せるのではない。二人で共に、あるべき場所へ送り返すのだ。
「道に迷いし魂たちよ、光の差す方へ――」
蓮の声に、美鈴の祈るような声が重なった。
「「帰真――本来の姿へ還れ!!」」
振り下ろされた翠緑の刃から、かつてない規模の清浄な波紋が爆発的に広がり、総統府の地下空間を埋め尽くした。 緑の光に包まれた漆黒の泥は、瞬く間にその呪縛を解かれていく。泥の中から、旧日本軍の兵士、オカルト実験の犠牲者、そして時代に散った無数の人々の姿が浮かび上がり、憑き物が落ちたような穏やかな顔で天を仰いだ。 彼らは蓮と美鈴、そしてシャドウに向かって静かに一礼すると、光の粒子となって次々と次元の彼方へと昇っていった。
パリンッ! 怨念の供給を絶たれ、床に描かれていた血塗られた増幅器の陣が、ガラスが割れるような音を立てて粉々に砕け散った。
「あ、あぁ……僕の、僕の傑作が……。霊界への門が……」
すべてを失った志豪は、その場に力なく崩れ落ち、虚ろな目で宙を見つめた。
圧倒的な静寂。 総統府の地下を覆っていた重苦しい「陰の気」は完全に消え去り、そこにはただの古びたコンクリートの空間だけが残されていた。
「……終わったな」
蓮が翠緑の光を失った帰真剣をカチャリと鞘に収めると、美鈴は限界を迎えてその場にへたり込んだ。
「はぁ、はぁ……死ぬかと思いました……」
「よくやった。君の光がなければ、台湾中が呪詛に呑まれていた」
蓮が手を差し伸べると、美鈴はその手を取って力強く立ち上がった。足元では、シャドウが誇らしげに尻尾を振っている。
数十分後。二人が志豪を拘束して地上の搬入口へ戻ると、外の豪雨はすでに上がり、東の空が白み始めていた。
「おお! 無事だったか!」
「心配したわよ、もう!」
待ち構えていた陳巡査部長と林担当員、そして呉さんと黄さんが、泥だらけの二人を見て安堵の声を上げた。志豪は無言のまま、陳巡査部長によってパトカーへと連行されていった。(後日、以外にも姉の麗華は自ら警察に出頭し自首して来た)
黄さんのカメラのフラッシュが、夜明けの光の中で二人を眩しく照らす。
「これで、一つの大きな事件は幕引きですね」
美鈴が朝焼けの空を見上げて呟いた。
「ああ。だが、旧日本軍が開いてしまったという『霊界への門』の本体が閉じたわけじゃない。明日になればまた、この台湾のどこかで、哀しい幽霊たちが迷子になっているだろうさ」
蓮の言葉に、美鈴はクスリと笑った。
「ええ。そうしたらまた、私が見つけて、先輩が送ってあげるんです。それが私たち『双霊相談事務所』の仕事ですから」
清々しい朝の空気が二人を包み込む。 ふと、美鈴のお腹から「ぐきゅるるる……」という盛大な音が鳴り響いた。
「……あの、先輩」
「言わなくても分かってる」
蓮は呆れたように笑い、車のキーを取り出した。
「死線を越えた後の朝飯だ。今日は特別に、阜杭豆漿の行列に並んでやる。熱々の鹹豆漿と、焼きたての厚餅夾蛋でいいな?」
「最高です!! シャドウには味付け無しの豆乳をお願いしますね!」
二〇〇〇年代初頭、台湾。 幽霊が日常の風景として実在するこの世界で、生者と死者の魂が交差する哀歌はまだ終わらない。 しかし、どんなに深く視えない哀しみがこの島を覆おうとも、決して切れることのない「双霊」の絆が、明日もまた誰かの魂を優しく光へと導いていくのだろう。
最終回のような終わりかたですが、サブタイトルとおり、終わりません(笑)。まだまだ、続きます。引き続き、目を通していただけたら幸いです。




