第一〇一話「休息の旅路と、海を越えた恩師たち」
第一〇一話「休息の旅路と、海を越えた恩師たち」
総統府の地下を揺るがした未曾有の死闘から数日後。台北市大同区にある双霊相談事務所には、いつもの穏やかな湿気と、規則正しい八極拳の踏み込みの音が戻っていた。
「先輩、陳巡査部長からメールの返信が来ましたよ」
デスクのiMacから顔を上げた李美鈴の声に、佐藤蓮は套路の動きを止め、タオルで汗を拭いながら歩み寄った。 激しい呪詛の嵐を巻き起こした枢栄会の張志豪と、彼をビジネスとして支援していた姉の麗華。二人は現在、裁判を待つ身として拘置所に勾留されている。 当初、警察は彼らの特殊な術式による脱走を強く警戒していた。しかし、陳巡査部長や担当弁護士からの報告によれば、その心配は杞憂に終わりそうだという。
「……『二人は逃亡と潜伏生活ですっかり疲弊し、自暴自棄を通り越して意気消沈している。現在は驚くほど大人しく、精神的にも落ち着きを取り戻しつつある』か」
蓮がモニターの文字を読み上げると、美鈴は傍らで丸くなっているシャドウの背中を撫でながら小さく息をついた。
「歴史の闇を背負い込もうとした反動でしょうね。彼らが心から反省し、更生できるかはまだ分かりませんが……少なくとも、二度と同じ過ちを繰り返す気力は残っていないみたいです」
「ああ。身の丈に合わないパンドラの箱を開ければどうなるか、彼ら自身が一番よく思い知ったはずだ。これでようやく、一つの区切りだな」
張り詰めていた緊張の糸が完全に解けたことを確認し、蓮は美鈴に向かって柔らかく微笑んだ。
「よし。林さんにも当面の依頼はストップしてもらうように手配した。予定通り、今日から事務所は特別休暇だ。俺たちも少し、自分たちのルーツに挨拶をしてこよう」
桃園国際空港の出発ロビー。 行き交う旅行客の波の中で、蓮と美鈴はそれぞれの搭乗券を手に立ち止まっていた。
「先輩はシアトル、私はスコットランド。一週間の長期休暇なんて、事務所を立ち上げてから初めてですね」
「ああ。ゆっくり羽を伸ばしてこい。機内で食べる機内食以外にも、ちゃんと美味いものを食べてくるんだぞ」
「当然ですよ! イギリスのご飯は美味しくないなんて言う人もいますけど、イザベラ先生の焼くスコーンと紅茶は絶品なんですから! 先輩こそ、ハンバーガーばかり食べて胃を荒らさないでくださいね」
軽口を叩き合い、二人はそれぞれの搭乗ゲートへと背を向けた。 激戦を乗り越えた「双霊」のバディは、心身の修復と報告のため、海を越えてそれぞれの恩師が待つ地へと旅立った。
アメリカ、ワシントン州シアトル。 細かい雨が降る、この街特有の灰色の空の下。パイクプレイス・マーケットの喧騒から少し離れたレンガ造りのオフィスビルに、蓮は足を踏み入れた。
「ヘイ、レン! 久しぶりだな。顔つきがすっかり『プロ』になったじゃないか」
オフィスに入り、満面の笑みで両手を広げて出迎えてくれたのは、屈強な体格のアフリカ系アメリカ人、マーカス・魏だ。 中国系アメリカ人の両親に引き取られ、道教の術式を受け継いだ数奇な経歴を持つ彼こそが、かつて横浜の中華街で大学生だった蓮をアルバイトとして雇い、道士としての基礎を叩き込んだ人物である。現在はアメリカに帰国し、里親の貿易商を引き継いで立派な実業家となっていた。
「ご無沙汰しています、ウェイさん。相変わらずお元気そうで」
蓮は差し出された大きな手と固い握手を交わし、革張りのソファに腰を下ろした。 ウェイが淹れてくれた香りの強い深煎りのコーヒーを口に運びながら、蓮は台湾での出来事――特に総統府の地下で旧日本軍の遺産と対峙したこと、そして帰真剣が翠緑色に輝き、「双霊」として未曾有の呪詛を浄化したことを報告した。
「ハハハ! そいつは傑作だ! 俺はあくまで除霊の助手のつもりで、お前に必要最低限の基本術式しか教えなかったのに。まさか西洋のケルト魔術と気を共鳴させて、そんな奇跡を起こすとはな!」
ウェイは腹の底から愉快そうに笑い、大きな手でバンバンと蓮の肩を叩いた。
「送魂の才能があるとは思っていたが、台湾に渡るよう勧めた俺の目に狂いはなかった。……それにしても、素晴らしい相棒を見つけたな、レン。一人では背負いきれない大きな因果も、違う形の魂が合わされば越えられる。それが『双霊』というわけだ」
「ええ。彼女の目と光がなければ、俺は空振りを繰り返すだけのただの剣士です」 蓮が照れくさそうに窓の外の雨空を見つめると、ウェイは優しく目を細めた。
「しっかり休んでいけ。今夜はシアトル名物の巨大なサーモンと、最高のクラムチャウダーを奢ってやる。……明日の朝の八極拳の套路は、久しぶりに俺も付き合おう」
時を同じくして、イギリス、スコットランド。 見渡す限りの緑の丘陵地帯を吹き抜ける冷たい風の中、美鈴は石造りの小さなコテージの前に立っていた。
「美鈴! よく来てくれたわね。立派なレディになって……」
扉を開けて飛び出してきたのは、上品なニットカーディガンを羽織ったスコットランド出身の英国人女性、イザベラ・メイブ・シンクレアだ。本業である翻訳家の傍ら、代々受け継ぐケルト魔術を操る本物の魔女であり、幼い頃に霊障に苦しんでいた美鈴を救い、術を授けた恩師である。
「イザベラ先生!」 美鈴が抱きつくと、足元から這い出したシャドウも嬉しそうにイザベラの足元にまとわりつき、尻尾をちぎれんばかりに振った。
暖炉の火がパチパチと爆ぜる温かい部屋で、淹れたての紅茶とクロテッドクリームをたっぷりと乗せた手作りのスコーンがテーブルに並ぶ。 美鈴もまた、台湾での激闘の顛末をイザベラに語って聞かせていた。
「……そう。私の教えた『護るための光』が、東洋の術者の剣と重なり合って、歴史の怨念そのものを光に還したのね」
イザベラはティーカップを置き、美鈴の顔をまじまじと見つめた。
「あなたのオーラ、香港にいた頃とは全く違うわ。魔術の質が、とても温かくて……強固な大樹のようにどっしりとしている。きっと、その『先輩』と呼ばれる日本の道士が、あなたの魔力の素晴らしい土台になってくれているのね」
「はい。先輩は霊感こそゼロですけど、いざという時は絶対に私の前に立って、結界を張ってくれるんです。だから私は、迷わずに光を放つことができます」
美鈴の誇らしげな笑顔を見て、イザベラは安心したように微笑んだ。
「私が教えられたのは、あなた自身を守るための小さな魔術だけだった。でも、あなたは台湾で誰かを救うためにその力を使い、信頼できる居場所を見つけた。立派な魔女になったわね、美鈴」
シアトルの雨上がり。雲の隙間から差し込む夕日を見つめながら、蓮は大きく伸びをした。
スコットランドの丘陵。満天の星空を見上げながら、美鈴はシャドウの温かい背中を撫でた。
二人が今見上げている空は、それぞれのルーツに繋がる遠い異国の空だ。恩師たちの変わらない温もりに触れ、戦いの疲労は確実に癒やされていた。 しかし、彼らの胸の中にあるのは、不思議と同じ想いだった。
『早く、あそこ(台湾)に帰らないとな』
幽霊が日常の風景として実在し、常に視えない哀しみが漂う熱気と喧騒の街。 まだ見ぬ迷える魂たちが、そしてかけがえのない相棒が待つ、あの「双霊相談事務所」へ。 海を越えた短い休息を経て、二人の魂は再び、一つの場所へと向かって静かに脈打ち始めていた。




